『イタリアの のぞきめがね』は、日本では『ファージョン作品集』全七巻の第二巻として刊行された。ファージョンにしては比較的薄い本である。訳者の石井桃子さんによると、『イタリアの のぞきめがね』は一九二五年初版で、その後、ファージョンがイタリアに関係のあるお話だけを選び、一九六〇年に再刊された。『ファージョン作品集』に収録されているのは六〇年版である。
そういう経緯がわかると、『イタリアの のぞきめがね』がすっきりまとまった本でありながら、どこかファージョンらしくない雰囲気を漂わせている理由も納得できる。ファージョンはまとまらないこと、枝葉が多く、いっけん無駄に思えるような寄り道が魅力の作家だ。ただ枝葉を切り落としている分だけ、『イタリアの のぞきめがね』は、ファージョンの作家としての生地がよく見える本になっている。
ブリジェットは、いままで、ずいぶんいろいろなところに住んだことがあります。けれども、ブリジェットが、どこへひっこしていっても、わたしもまた、時(とき)どき、そこへいって、お話(はなし)をしてやったり、パーティをしたり、ピクニックにいったり、ほかにも、いろころたのしいことをいっしょにしました。(中略)
でも、ブリジェットが、おもに住(す)んだのは、イタリアでした。そこで、まもなく、わたしも、ブリジェットたちが、なにをしているのか見(み)に、イタリアにいきました。
『年とったばあやのお話かご』と同様に、『イタリアの のぞきめがね』も、ブリジェットという幼い女の子にお話をしてあげる女性という構成を取っている。「わたし」はブリジェットが住むイタリアに行き、彼女を含む子供たちにお話をしてあげるのである。しかし『イタリアの のぞきめがね』は、必ずしも語り手であるわたしを主人公に、ブリジットたちの生活を描く構造にはなっていない。近代以降の小説ではほぼ厳密に守られている話者視点(誰が語るのか)が、『イタリアの のぞきめがね』では揺れている。作品の記述は、わたしとブリジェットの間を揺れ動く〝わたしたち〟のものである。
家(うち)に帰(かえ)ると、もうねる時間(じかん)でした。
ねる時間(じかん)には、いつもお話(はなし)がつきものでした。ブリジェットに話(はな)したお話(はなし)のいくつかは、またあとで、みなさんにもお話(はな)ししましょう。でも、すぐつぎのお話(はなし)は、イタリアにいたとき、ブリジェットたちに、一ども話(はな)さなかったお話(はなし)です。きょうまで、お話(はなし)になるのを待(ま)っていたのです。
ファージョンが、子供たちに〝お話を語る〟ことを目的に作品を書いていたことがはっきりわかるだろう。ファージョン作品の主人公は〝お話〟なのである。このお話は誰もがよく知っている物語であることもあるし、ファージョンの中で「お話(はなし)になるのを待(ま)って」いるものもある。ただ「お話(はなし)になる」というのは、起承転結のあるまとまった物語に昇華されることを意味しない。お話の熟成とは、ファージョンがそれを語り始めてもよいと判断した時期のことである。ファージョンのお話は子供たちに語りかける〝声〟である。一回きりのお話だとも言えるし、話すたびに無限に形を変えてゆくお話だとも言うこともできる。
リンダリーさんとリンダリーのおくさんのお話(はなし)は、わたしがつくったのではありません。でも、このお話(はなし)をするひとは、ごくわずかしかいないので、わたしも、そのなかにはいっています。わたしが、このお話(はなし)をきいたのは、たったの二どでした。そのときの語(かた)り手(て)たちは、そのひとたち流(りゅう)に話(はなし)ました。わたしは、わたし流(りゅう)に話(はな)します。この話(はなし)をするひとたちは、みな、ひとりひとり、かならずちがった話(はな)し方(かた)をするのです。
『リンダリーさんとリンダリーおくさんのおはなし』は『イタリアの のぞきめがね』の最後に置かれた作品であり、集中の傑作でもある。リンダリーさんが、リンダリー奥さんと結婚して盛大な披露宴を開いた。豪華な食事が出るが、リンダリー奥さんはごはんを六つぶ食べただけでパーティ会場を出て、木のてっぺんに座り込んでしまう。リンダリーさんは怒って木から下りるよう命じるが、彼女は「あっちへ おいで! あっちへ おいで! わたしは おりて いかぁれない! うちにぃ ようが ありますよぅ!」と答えるばかりである。ついにはリンダリーさんは弓に矢をつがえて、リンダリー奥さんを打ち落としてしまうのである。
・・・その矢(や)は、リンダリーさんのおくさんの心臓(しんぞう)をまっすぐつきさしたので、おくさんは、はたはたと音(おと)をたてながら、木の葉(は)のあいだをぬって、ご主人(しゅじん)の足もとにおちてきました。
どうしてだと思(おも)います?
ブリジェット「そのひと、鳥(とり)だったんだわ。」
これが、リンダリーさんとリンダリーおくさんのお話(はなし)です。そして、これは、この世(よ)で、いちばんかなしいといってもいいくらいなお話(はなし)なのに、ブリジェットは、いつも、とてもおもしろがり、リンダリーおくさんが、はじめから鳥(とり)だったということに、おしまいになって気(き)がついて、びっくりするのでした。なぜ、リンダリーさんが、じぶんのおくさんが鳥(とり)であることを、矢(や)で射(い)てしまうまで気(き)がつかなかったのか、わたしたちには、いまだにわかりませんし、おくさんが、なんの鳥(とり)だったのか、そのことも、このお話(はなし)は説明(せつめい)していません。
ブリジェット「野(の)バトだったのよ。」
あなたは、どう思(おも)います?
『リンダリーさんとリンダリーおくさんのおはなし』は、現代的に言えばシュールな話で片付いてしまうだろう。しかしこの話は直線的な声で語られ、聞き手の中に次々にイメージを湧き上がらせてゆくために書かれている。またそれはほぼ純粋なお話であって、なにごとかに還元されるような意味を持っていない。
「この世(よ)で、いちばんかなしいといってもいいくらいなお話(はなし)」であるはずなのに、聞き手のブリジェットは「おもしろがり」、きっと「野(の)バトだった」からそんなことになったのよと言う。その理由はわからなくても、ブリジェットの楽しげな笑い声が聞こえてくるかどうかでこの作品の評価は変わる。ファージョンは並の童話作家ではない。彼女は人間に様々な感情を呼び起こすお話の本質をつかんでいる。
金井純
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