男の子にとって読みやすいという、江國香織としてはめずらしい作品である。児童文学出身の著者だが、中学入試の出題としては最難問レベルとなる。最近は大人向けの作品でも普通に出されるから、いずれにしても文句は言えない。
間宮兄弟は成人しているが、幼い男の子そのものの部分を残している。そのために生きづらい思いをしているところが小説の主眼であるが、子供にとっては共感しやすいところでもある。幼いままでいて何が生活の支障となるかというと、社会的に通りのよい家族の姿、というものの形成とは縁遠くなることだ。端的に言ってモテない。兄弟二人で暮らしているので、なおキモいなどと言われる。
傍目からはキモかろうと、男の子二人の生活は、なかなか楽しそうである。インドア派の二人だが、いつも遊び相手がいる。互いに知り尽くしているから、それぞれの職場での状況も察することができて、つまらないことには触れずにやり過ごす。子供と違い、うるさい親がいるわけではない。
だから世間体を気にするという心境は、もう二人とも脱しているけれど、まるでモテない、というのはやっぱりちょっと辛そうだ。モテないのが辛い、モテたいと思っているわけではなくて、ときには女の子と接したら楽しいだろうな、と思わないと言えば嘘になる、というぐらいだが。好きなタイプもあるし、気になる娘、女性もそれぞれにいる。そしてフラれるパターンもほぼ決まっている。そしてフラれれば、各々がいちいち深く傷つく。
子供たちに読ませるとしたら、特に国語の問題としては「部分」になりがちだ。すでに成人している間宮兄弟だが、子供のような純粋さが世間とどう軋轢を生むか、どんなふうに阻害されているかは、仮に部分であっても一読の価値はある。それが「こんなふうになっちゃ、辛いわよ」と子供を脅し、教訓を与えるためのものでないことまで読み取るのは、なかなか難しいかもしれないが。
では、間宮兄弟の世間との隔絶、とは言い過ぎで、ずれは何のためのものか。言葉を変えれば、これは何のために書かれたのか、ということになり、「作者のねらい」そのままになる。「ねらい」というのは嫌らしいから、彼らのどこが書かれるに値する、愛すべきところなのか、ということだ。
それはそのまま、彼らを取り巻く人物たちによって示される。とりわけ女性たちは彼らの求愛を拒み、恋人やボーイフレンドとの付き合いに挟まれた、ただの合いの手として接触してくれるに過ぎない。しかし彼女たちは彼らによって確実に癒され、彼らの住まいがどこか別世界のようだ、と認めている。
認めたところで、間宮兄弟を恋人にしようとはつゆ思わない。キモーい、論外、最悪、という評価が変わることなどないのだ。彼女たちの眼中には、ちょっと自分勝手で、大いに信用できない、でもやっぱり格好よくて魅力的な男たちしかない。が、彼らによって傷つき、疲れたとき、間宮兄弟の存在は無邪気な犬や小鳥のように彼女らを慰める。次の瞬間、彼氏から電話がかかり、兄弟のことなど忘れ去ってしまうのだとしても。
金井純
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■