本の家
新しい本が出たのでお送りします
「よくそんなに書けるね」
っていう兄さんの声が聞こえてきそうだけど
兄さんの音楽と同じです
わたしの本も音楽であればいいんだけど
人の声はちいさいので
きゅうくつな紙の束に押し込められています
でも兄さんはわたしの書くお話が
ほんとうは声で作られていることを知っています
パパの書斎にあったたくさんの本を読んで
竜と戦う王子様や
魔女に眠らされた王女様になりましたね
明るく煌びやかな劇場で
騎士たちが王妃様のために戦うのを見て
世界で一番の剣の使い手と
三番目の剣士として闘いました
憎らしい悪党も演じましたね
今日ようやく
残っていたパパの本を引き取ってもらいました
「お亡くなりになってから三十年ほどで
遺品の整理をなさる方が多いようです」
古本屋はそう言いましたが
わたしたちに残された時間が
少なくなってきたからでもあります
もちろん兄さんにお話したように
古い本は彼の故郷の図書館に寄贈しました
もう読まれなくなったので
パパが書いた本も貴重なのです
残ったのはたくさんの写真と手紙と反古
わたしはそれを使って
小さな家を建てようと思います
自分自身と
パパとママと兄さんのためだけの
特別な本を書こうと思います
わたしたちが過ごした家は
もう思い出の中にしかないのですから
おばあさまのことは憶えていますね
わたしたちが一度もお会いしたことのない
手紙のおばあさまのことです
パパがよく朗読してくれた
彼女の手紙の原本を見つけました
パパはこんな文章を書けたら
もう思い残すことはないよと言っていましたが
その言葉は本心だったかも
しれません「おまえの大切な
お父さんが安らかに亡くなってから
ひと月たちましたほんとうは
少し苦しんだようだったけど
いまとなってはなにごともなかった
ように感じますおまえの
手紙はお父さんが亡くなった翌日に届きました
お父さんに読み聞かせてあげたかったけど
なにもわからなくなっていたし
それにちゃんと着いたのだからそれで
じゅうぶんです為替も
受け取りましたありがとう
でもおまえはいつも私のことばかり心配して
ちっともおまえの家族のことは書いてこない
こっちの子供たちは元気いっぱいで
面倒を見るのはたいへんですが
孫たちにかこまれて暮らすのは幸せ
なことだと思わなければなりませんおまえは
うまくやっているようでなによりです
おまえの記事がのった新聞の切り抜きとおまえの本を
ときどき手に取ります本はわたしにはよくわからない
けどきっと大事なことが書いてあるのだと
思っていますもう書くことがなくなりました
おまえはうまくやっているようでなによりです
これからもすべてがうまくいくよう祈っています母」
わたしはこの手紙はおじいさまが亡くなった
直後に書かれたのだと思い込んでいたのですが
三通目の一番長い手紙でした
パパの書きかけの原稿や
膨大なメモや手紙を読んでいると
もう五十年も前に亡くなったパパが
当時のままの姿で
わたしたちがよく知っているあの声で
今を生き始めるのを感じます
「ようやく見つけた!
三ヶ月も宝飾店を探し回って
思い描いていた色と形の
君にぴったりの指輪を見つけたんだ
いっしょに行ったアンティークショップで
君があらいいわねと嵌めてみた指輪も買ったよ
これは君の右手のための指輪だ」
ママに宛てた手紙ですが
若かったパパが婚約指輪を買うために
街中を走り回っていた姿が目に浮かびます
あのなにもかも与えようとする気前のよさ
というより蕩尽への欲求は
いったいなんだったのでしょう
わたしと兄さんのお誕生日もそうでした
「開けてごらん」というパパの言葉は
嬉しかったけどちょっぴり怖かった
プレゼントの箱は七つも八つもあって
パーティが終わってお部屋に戻ると
ベッドの上に〝一番最高のプレゼント〟
も置かれていたのですから
それはパパの癇癪とは質の違う怖さでした
ママは黙ってソファに座っていました
わたしたちは子供部屋で息を潜めていました
でもわたしたちがどんなに努力しても
パパの癇癪は破裂してしまうのです
あれはパパの命を奪うことになる
病気のせいだったのでしょうか
シャンパンのボトルから溢れる泡のように
わたしたちの心に小さな染みを残して
すぐに消えてしまうものだったのですが
文筆家ではなかったから
ママが書いたものはほとんど残っていません
でもママはパパの手紙や
わたしや兄さんの書きものなどを
何冊ものスクラップブックにまとめていました
その中にはわたしの詩の処女作や
兄さんが初めて書いた物語も含まれています
兄さんの演奏会を聞いた
伯父さんの手紙もありました
「素晴らしい音楽家になるよ」という文字が読めますが
ほんとうのことになりましたね
パパは吹き荒れる嵐で
氾濫する川のような人だったから
風雨が去ったあとの大地のように
書斎には夥しいガラクタと
ほんの少しの貴重な品々が積み上げられていました
でもママは台風の目のように静かです
スクラップブックにはママの手紙もメモも
写真も貼ってありませんが
ママがそこにいるのをはっきり感じます
笑い上戸だけど
恐がりで迷信深かったママのことだから
スクラップブックのまとめかたにも
きっとママの規則があるはずです
「メアリアンが馬車を使わずに歩いて行くことにしたのは
彼女が女中だからではなく
歩くほうが五月のきれいなお花をつめるし
思いもかけない冒険が待っているからでした」
というわたしの短い物語の横に
「ママがお出かけの夜はさみしいけど明日の朝
どんなお芝居だったのかお話を聞くのが楽しみです」
という兄さんのメモが貼ってあります
「いい子ね おやすみなさい」というママの囁きが聞こえ
かすかな香水の匂いがしてくるようです
子供部屋の扉はいつも静かに閉まりました
玄関でママを呼んでいるパパの声
鬱蒼と茂る木々が
アーチのようにどこまでも続く道
その一番奥に見える光の出口
あるいは沈みかけた太陽が
海の上に拡げてゆく光の道
ガラスケースの中の
小さな村に降り積もってゆく雪
回すたびに色と形が無限に変わる万華鏡
そんなものばかりが好きで
涙が出ない物語は大嫌いで
絵のない本はもっと嫌いだったわたしは
兄さんよりずっと遅れて大人になりました
「おまえはいい作家になれるよ」
いつも兄さんはそう言ってくれたけど
心の中にある物語を言葉にした途端
すぐにそれはバラバラの方角に走り出して
どうしてもまとめられなかったのです
「今度はなんのお話をしたらいい?」
「おこりんぼうの王様のお話がいいな」
「ひとりでに踊り出しちゃうお靴のお話をして」
「あおぐと空を飛べる魔法の扇子のお話がいい」
一日じゅう子供たちにお話をして
もうお話の種がなくなると
わたしはその場でお話を作って話し続けました
お話を始めると
言葉は次々に生まれ 自分で歩いてゆきます
だからわたしが書いた本は
お話が尽きてしまったあとに湧き出してきたお話です
お話が終わったあとに生まれたお話なのです
そんなふうにお話を書き始めてからも
もうずいぶん長い時間が経ちました
でもそれでも十分ではありません
どうしても書けないなにかは
すぐに消えてしまう色と形と匂いと音です
わたしの本は
それらを閉じ込めるための家なのです
女の子のともだち
「お船よ進め
どんどん進め
風がなくなりゃお船はとまる
陸にぶつかりゃお船はとまる
前からお船がきたときも
やっぱりあたしはとまらなきゃ
海賊たちならやっつけろ
味方の船ならこんにちは」
女の子は片っぽの長靴を溝につっこみ
大声で歌いながらやってきた
僕は片っぽの靴を溝に入れ
水をじゃぶじゃぶさせながら歩いてた
ほんとうのことを言えば
女の子がその遊びをしてるのを見て
僕もすぐに遊びに参加したんだけど
「あなたのお家はどこ?」
「大きなモミの木のそば」
「じゃあお隣さんね」
「お隣はずっと空家だよ」
僕は後ろをふりむきながら
女の子は前をむいたまま言った
「ちょっと前に戻ってきたの」
「でも君のこと知らないよ」
「そりゃあそうよ
あたしのパパがまだ王様じゃなくって
お祖父さんは大きなクジラを追いかけてて
お祖母さんと百歳のひいお祖母さんが
編み物しながら姉妹のように暮らしてて
あのモミの木がまだお家の屋根くらいの高さで
ずっとおんなじ顔のままだけど
トラ猫のトラの
七代前のパパとママが住んでた頃から
あそこはあたしのお家なの
そりゃお留守にすることだってあるわ
あたしのママは高い高いお空の上にいて
ときどきここから手をふってあげるんだけど
パパといればお船に乗って
冒険しなくちゃならないの」
「それっていいなぁ」
「ところであなたはどこ行くの?」
「あっち」
僕はお家をふりかえった
だって目の前には女の子がいて
僕らはもう友だちだったから
「逆風前進!
あなた いい船乗りさんになれるわよ」
後ろ向きに歩き出した僕に
女の子はにっこり笑いかけた
「地球がまん丸だなんてウソみたい
あたしは真っ青な地中海に
蜃気楼みたいに浮かんでる
ちっこい船に手をふった
モンゴルの草原で
米つぶみたいなテントに向かって
おーいって叫んでみたの
日に焼けた漁師さんが手をふって
ヒゲもじゃの羊飼いさんが
おーいって叫びかえしてくれた
すんごく目と耳のいい人たちだけど
あたしもそうだってわかるでしょ
だから地球って
真ん中あたりがちょっと盛り上がった
ホットケーキみたいなの
そりゃどんどん進んでくと
元の場所まで戻っちゃう
でもまん丸だなんてつまんない
アメリカを旅すればわかるわよ
夕暮れになると
見わたす限り小麦畑は金色で
ホットケーキにバターが溶けた色
それはそれはおいしそう」
生徒たちはゴクリとツバを飲みこんで
女の子の話に聞きいった
だけど先生は困り顔
地理の本をパタンと閉じて
まっしろな画用紙とクレヨンを配ってくれた
「次はお絵かきの時間です」
「嬉しいわ! 好きな絵描いてもいいわけね
イタリアのフローレンスには
眠り姫のご殿があるの
とっくの昔に王子様が姫の眠りをといちゃったけど
今でも留守番のおばあさんが
子供たちに寝る前のお話をしてくれる
知ってるお話ばかりじゃないの
その場で知らないお話作ってくれる
たとえばシロクマに会いたかったワニのお話」
女の子の絵は画用紙をはみ出して
床から北極へと伸びてゆく
「あなたに学校は必要ないようね」
「そうなの なんにも知らないか
知りすぎているのか どちらかよ」
「またきたくなったらいらっしゃい」
「ありがとう 先生とっても親切だったわ」
そう言うと女の子はお馬にまたがった
きれいな栗毛の若馬だけど
僕より古い彼女の友だちなんだ
「世界はモノでみちていて
なにがどこにあるのかわかんない
なんの役に立つのかわからない
だから見つけてあげなきゃね
底の抜けたバケツだわ
お水は絶対くめないね
お菓子を入れても落っこっちゃう
全部食べればいいってことよ
だけど頭にかぶって遊べそう
まるでトンネルの中みたい
あのねじねじはなにかしら
燃え尽きちゃった 花火のコヨリ
赤 白 黄色の和紙でてきてるわ」
僕もなにかを見つけだす
「その糸巻きをあたしに貸して
素敵なブローチ作ってあげる」
どんどん宝物が増えてゆく
彼女は僕に教えてくれた
「いらないモノってこの世にないの
生き物だっておんなじよ
キキっていう名のお友だちがいたの
人間じゃなくってお猿さん
ボルネオのジャングルで
パパの肩に飛び乗って
そのままお船にやってきた
すぐに仲良くなったけど
どうしようもないイタズラ好きで
パパの戸棚を器用に開けて
食器を全部割っちゃった
パパはカンカンに怒ったけど
キキは困った顔してた
次の日食堂に忍び込み
キャッキャ叫びながらお皿を割り始めたの
料理長が包丁持って追っかけたけど
キキはもちろんつかまりゃしない
だけどキキは死んじゃった
赤ん坊よりもちっちゃいキキは
ほんとはとっても年寄りだった
キキのためのお葬式
涙なんかは出ないわよ
みんなちょっぴり安心してた
イタズラ者がいなくなったから
だけど絶対なにかが足りない
最初にあたしがお皿を割って
そうじゃそうじゃとパパも割り
船員みんなでお皿を割って
お船のお皿がなくなった
お皿を割るのって最高よ!」
「郵便屋さんがやってきた
きれいな切手を七枚貼った
パパのお手紙持ってきた
もう二日したら船が着く
あたしはパパを抱きしめて
大きくなったねって言ってあげられる
パパはどんどん大きくなるの
お月さまみたいにまん丸よ
船乗りさんで
王様だから当然ね」
町長さんと警察官と学校の先生が
四角い封筒ひらひらさせて
溝の水をじゃぶじゃぶさせる
女の子のまわりに集まった
「急いで歓迎会の準備をせにゃならん」
「やれやれこれでひと安心」
「それより教育問題よ お父様とお話しなきゃ」
僕らは並んであるいた
町の大通りはオレンジ色の夕焼けだった
「南の島に行っちゃうんだね」
「行くのは戻ってくるためよ
歯みがき好きのネコの話くらい本当のことよ
それまであたしのお家で遊んでいてね
カギは敷石の下に置いとくわ
引き出しのオモチャも使っていいの
でもお菓子のなる木やジュースの井戸は
探さない方がいいみたい
あれを見つけるにはコツがいるの
そうだ明日パーティ開きましょう
お客さまはあなただけ
よそ行きの服は着てきちゃダメ
汚すとママに怒られちゃう」
女の子には言わなかったけど
僕は君のいない家には来たくない
僕が今のままでいられるのは
君といっしょの間だけ
寝る前に窓から隣の家を見ると
女の子は台所のテーブルで頬杖ついていた
パパの手紙を読みなおしているようだった
ほほえんでいたけど
ちょっとさみしそうにも見えた
でもきれいな横顔だった
ふりむいたら手を振ろうと思ったけど
夢見るような瞳でまっすぐ前を向いていた
ふっとロウソクの火を吹き消して
女の子の姿が消えた
明日が来なければいいと思ったけど
やっぱり明日が待ちどおしかった
my birthday
僕は真夏の明け方に生まれた
母親からそう聞かされただけなのだが
優しい夏の光が
白い病室の中に差し込む光景が
いつの頃からか
原風景になってしまっている
夏でも夜明けの空気は涼しい
子供の頃は
ラジオ体操が終わるとすぐに虫取り網を持って
近くの木立へと駆けていった
一夏に一度くらいは
樹液を溢れさせる木の割れ目に
カブトムシやクワガタが集まり
そのまわりを蝶が飛び交う
夢のような場所を見つけることができた
あれから何十年もたった今
僕は明るくなりはじめた東
の空を見つめながら
机の前に座っている
青い空に
真っ白な雲が浮かんでいる
はじっこの方がピンク色に染まり
厚く重なったところだけ
少し黒ずんで見える
昨日と同じ
暑い夏の一日が始まる
突然 なにもかも
わからなくなってしまうこと
ってないかい?
誕生日を数えると
もう半世紀も生きてきたわけで
それなりに苦労して
考え抜いて
自分にできることや
なすべきことも理解できたはずなのに
実際はなにから手をつけていいのか
わかんなくなっちゃうことがある
ただ焦りだけがつのっていく
まるで十九歳の頃に逆戻りしてしまったかのようだ
僕は文学部の学生で
フランス文学専攻という浮世離れした学生で
なにをしていいのかわからないけど
なににもなるまいとだけ心に決めていた
もちろんそれ自体が目的だったわけじゃない
文学なんて虚業だよ
それは最初からわかっていたこと
でも虚業を肉体の仕事に
精神の戦いを
毎日の労働にまで高めなければ
決して心の平安は得られないんだ
僕が大人になって変わったのは
そうしようと努力し始めたことだけ
僕の母親はものすごい雨女で
京都で浪人中の僕を訪ねてきたときは
豪雨で電車が止まって帰るのが一日延びた
東京に来ると十数年ぶりの大雪になった
地上を走る電車は不通で
僕は地下鉄を乗り継いで東京駅まで母親を送った
帰りは最寄りの地下鉄駅で降り
激しさを増す雪の中を
小一時間かけてアパートまで戻った
でも僕が生まれた日は朝から快晴で
とても暑い夏の日だったらしい
だから僕は晴れ男のはずだ
実際とても大事な日に
天気が悪かったという記憶がない
それは自分自身さえ見失いがちな僕が抱いている
唯一のささやかな確信
のようなものかもしれない
いつものように団地を出てジョギングし始めると
ぽつりぽつりと雨
キャベツ畑に囲まれた一本道に着く頃には
アスファルトが真っ白に見えるほどの豪雨だ
僕は歴史も観光名所もない
羽沢という土地が好きだ
なにものにも束縛されず
誰の言うことも聞かずに走り続けてきたのだから
このまま全速力で突き抜ける
ゲリラ豪雨は
小一時間ほどであがり
団地に帰ると「虹だよ!」と
窓から顔を出して子供が叫んでいる
見まわすとあちこちの窓で
北西の空を見あげている人がいる
夕方の空にかかった虹
完全な半円ではなくて
三分の一ほどで空に消えている
虹をちゃんと観察したことってあるかい?
七色なんかじゃないよ
薄い赤と
黄色と青の三色で
それが五色にも
七色にも見えるんだ
五階の仕事部屋に戻ってシャワーを浴び
僕はまた
蠣殻のように机にしがみつく
すべて不毛かもしれず
徒労に終わるかもしれない仕事に取りかかる
でも晴れのち雨
それからまた 晴れ
今年の誕生日も
根拠のない僕の確信は健在だった
夜空に雲はなく
心地よい風が吹いている
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■ 予測できない天災に備えておきませうね ■