ケニー敏江 連載小説『四角い海』(二)をアップしましたぁ。主人公は文学の叢というスペースで仲間に小説を読んで批評してもらっているのですが、その経緯が書かれています。
コロナでおうち時間ができて小説に打ち込める時間は増えたけれど、それは今まで以上に駄作を生み出す時間にもなりつつあることに、自分自身が気づかない訳はなかった。そんな時に出会ったのが音声アプリで、その中でも私の作品について唯一話題にしてもらえる文学の叢というスペースだった。世間の人は誰でも知っている。アイドルになれるのが一握りの人間だとすれば、小説の賞を獲ってプロの小説家になれるのも、また一人握りの存在だけなのだということを。だから、私がいい大人になってから「小説家になろうと思っている」と言っても誰も真に受けないし、そのことは誰よりも自分が一番知っているので、小学生が将来の夢を語るようには、もちろん私は喋らない。でも、本を読むことが好きで、文学が何たるものであるかを理解し、創作に厳しい意見を持つ文学の叢のメンバーには、私が小説家を目指していることを打ち明けた。それはまるで出生の秘密を暴露するような、ずっと隠していた痣を公開するような、そんな覚悟だった。
ケニー敏江 連載小説『四角い海』(二)
ただ自己満足のために小説を書き、読んでもらっているわけではありません。
「いいと思います」
感想を尋ねると、F・牛森さんはいつもこの言葉で始める。
「でも」
これが接続詞。
「すごく読みやすいです」
小説を書く人の九割が、この言葉を褒め言葉だと勘違いする。
「すらすら読めます」
これは、次々読みたくなる、というのとは違っている。
同
小説は基本現世の俗を描く言語表現ですから、よほどガチガチな純文学とか前衛小説でない限り、すらっと読めて次々読みたくなるのが原則です。でも読みやすい=優れた小説になるわけではありません。しかし自己の作品をどのくらい客観的に見ることができるのか、相対化できるのかがいわゆるプロ作家の敷居の一つです。自己をさらけ出すことも必要になります。続きが楽しみです。
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