篠田真由美さんの連載第七回目の「ホテル・メランコリア」は、そのホテルにあるレストランのシェフの独白という形で進んでいきます。これより前の回を知らずに読んでも、途中で置いてけぼりをくらうことなく楽しめます。
これは雑誌という媒体にとっては、理想的な作品の書かれ方でしょう。雑誌は単行本と違い、誰がどこから読み始めるのかわからない。タイミングがよかった、元々その作者の作品を追っていたということでもなければ、たまたま買った雑誌に連載されていた、途中から気になって読み始めることが多いでしょうから。
一般には、連続テレビドラマと同じように、流れて発表されるものを途中から理解するのは難しいことです。それでも数ある作品の中から、強く心を惹かれて読み始めることがある。惹かれる大きな要因は、端的に「わかりやすそう」ということです。実際に「わかりやすい」かどうかより、まず「わかりやすそう」に見えるかどうか。新規の人も、物語の世界へ入り込むことが簡単にできそうかどうか。これは書き手に対して、それなりのテクニックを要求するものです。
「ホテル・メランコリア 第七話」は、一人の人物の独白をベースに話を進めていきます。小説には一人称小説、三人称小説、神の視点などの区分がありますが、一人称小説は主人公の内面に集中するため、その人物の行動、思考、性格などの細やかな情報を (三人称小説と比較して) 自然に、かつ大量に読者へ伝えることができます。
すなわち誰がどこから読むかわからない、雑誌媒体での連載小説において新たな読者を獲得するには「作品への親しみやすさ」が大きな鍵となるのです。その点について、極めて親近性の高い一人称独白体を用いるのは、かなり戦略的であるとも言えるでしょう。
ところで私には小説を音読する癖がありますが、ごく稀に音読できない、または音読しづらい小説に出会うことがあります。やたら難しい言葉が並んでいる、句読点がなさすぎる、など、読者に対してあまりにも不親切だと感じる作品です。
もちろんこの「不親切」が独特の視覚的効果を上げる場合もあります。純文学に限らずエンタテイメントでも、おどろおどろしい恐怖とか重々しく時代がかった雰囲気とかが、むしろ人を惹きつけることがある。
対象とする読者層へ向けたわかりやすい言葉使い、適切な句読点の数、などの条件をクリアすれば、自然と音読しやすい小説となります。音読しやすい小説というのは、音楽の持つリラクゼーション性もあいまって、途中参加の読者をも、物語の世界に自然に緩やかに巻き込んでゆくものと思われます。
それはもちろん物語の内容、ここでは「ホテル・メランコリア」のシェフの様々な体験、また料理というこれも人々を惹きつけ、融和させ、リラックスさせるものとも響き合って「作品」となるわけでしょう。
有冨千裕
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■