千葉聡という歌人の方が高校の先生をやっておられて、「黒板の隅に書いた歌」というエッセイを連載している。今回、その最終回。
千葉聡氏は横浜市生まれで東京学芸大学教育学部卒業後、シンガポールの日本人学校中学部教諭時代に朝日歌壇に投稿。作風は口語短歌で、固有名の付いた人物が多数登場するなど、物語志向の強い青春小説風の連作を得意とする、といったことがウィキペディアに出ている。
固有名詞の多数入った短歌がたくさん並ぶと、小説になるのか。平安時代には、物語の中に歌があったのだから、歌と物語は相性がいいのだろう。もちろん、こみいったサスペンス小説やなんかは短歌で表現するわけにいかないだろうが、少なくとも俳句を並べて小説にする、というのよりはリアリティがある。七七が余分にくっついてるだけだけど、抒情的になって、雰囲気で読ませる短編小説ぐらいにはなりそう。
で、この「黒板の隅に書いた歌」というエッセイだけど、何というか、むしろ小説よりもフィクションっぽい感じがした。小説すばるだから、他にいっぱい小説が出てるんだけど、それらよりもフィクショナルというのは、別に作り話じみてるとか、そういうのでなしに。
学校生活そのものがフィクショナルなものだということを、なんかしっかり思い出してしまった。きれいごとだらけだったというのでもなしに、嫌なこともフィクショナルだった。
便宜上、集められた同年代の人間たちの一時的な組織というものがすなわち学校なのだから、それ自体がフィクショナルなのは当たり前なのだ。同窓会みたいなものに出るはめになるたび、ここに集まった一人一人と自分とは何の関係もないし、最初からなかったのだ、と発見することになる。
けれども、それはさも懐かしそうに声をかけあったり、ハグせんばかりに駆け寄ったりする行為と矛盾しているわけではない。縁もゆかりもない相手の大昔の顔を知っているという事実に驚き、しかも今の顔まで見分けることができるという自分の歳月に再会しているのだ。
キャラを作るとかキャラがかぶるとか、最近はよく聞かれる言い方だが、学校生活を送るとは、あるフィクションを生きていることだ、ということに生徒や教師はどの程度、自覚的なのか。クラスの人気者であれば教室はショーのステージであるが、卒業して一人、渋谷の交差点を渡っても誰も見向きもしない。いじめにあっていれば教室はコロシアムだが、卒業すると、凶暴だった相手もただの善良な市民となる。
青春小説というものは、あらかじめ用意された学校というフィクショナルな枠組みに乗っかって、抒情的なるものを紡ぎ出してゆく文芸の一ジャンルだ。それは五・七・五の枠組みに乗っかって、抒情的なるものを紡ぎ出してゆく短歌というものによく似ている気がする。誰もが書けそうな口語短歌であっても、そこを押さえてさらりとやれるというのは、学校生活を上手く渡ってゆくのと同様、存外に要領がいるのではないか。
長岡しおり
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