「時代小説 秋祭り」特集で、辻井南青紀が「お家断絶願い 結婚奉行 手控え帖」を書いている。養子にとった息子を失くし、日常で何かと行き違いになる老夫婦を描いている。もう一方では、諸田玲子が「蝸牛 お鳥見女房」で、やはり旗本家が養子を欲しがる話を書いている。
「お家断絶願い」の老夫婦は結局、互いの価値を見い出し、「二人でこれまで生きてこられたことの幸せ」を実感する。「蝸牛」の方も、跡目をめぐる騒動など、所詮は蝸牛の角の上の争いだ、という見解が示される。なるほど真っ当に納得はいく。
納得がいくのは、それが現代の我々にとって至極まともな常識的結論だからだ。常識的というのは、決して嫌味ではない。時代の常識は、その時代の人々の精神的な本質を示すものだ。だから時代小説にかぎって言えば、常識を追い求め、そこに落とし所を持ってくるのは王道ではある。ただ、それが時代の特性を示すなら、必ずしも現代の常識と同じではない。
二つの作品に共通しているのは、「家なんて」と悟る認識だ。それは現代の我々には共感できる。しかし封建制とは「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世の縁」という観念で成り立っている。「家」はその主従関係者の入れ物であり、「家」の価値を見切るということは、無神論者に転ずるぐらいのインパクトがあり、いわばアヴァンギャルドなことだったろう。あっちの作品でもこっちの作品でも、つまりあっちの家でもこっちの家でも、そんな「非常識」が勃発することはあるまい。
時代小説の祖は森鷗外だという。鷗外のよく知られた時代小説のテーマに「足ることを知る」というのがあって、高校の国語の教科書にその読解が出ていた。
「家を存続させよう」というのが近代人の抱く欲望、エゴの一種ならば、「家なんて」と悟ることは「足ることを知る」に近いことになる。けれどもそんな「家」はきっとマイホームに違いない。
近代人が「家」を諦めるのは、マイホームより価値あるものを見い出したからに他ならない。自分の時間かもしれないし、家族の絆かもしれない。いずれにしても「持ち家」よりも心安らぐ何かだろう。
けれども鷗外の「足ることを知る」のは、文字通り絶対的に「足ることを知る」のであって、他の価値に気づき、それと交換するという話ではない。「家」なら「家」のために、たとえば老夫婦の妻の方が、若い後妻をとるために身を引くなどと言い出すことは、拗ねて感情を揺さぶるより、むしろそれ自体が心安らぐことではなかったか。
何か大きなもののために滅私すること。それは我々、近代人には基本的には理解できない価値観ではある。明治期、忘れ去られつつあったそれを鷗外が描こうとしたのは、それによって本質的な意味での文明批判、近代批判になり得る、と感じたからではないだろうか。少なくともチョンマゲ結った近代人が、より自身の慰めになるものを選ぼうとやっきになる程度のことをもって「価値観の転換」などを図ったわけではないだろう。
池田浩
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■