鶴山裕司 連載抒情詩『四月四日』(『聖遠耳 日日新篇』No.001[不定期連載])をアップしましたぁ。今年の四月四日に鶴山さんのお母様がお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。今回の詩篇はお母様についてです。残酷と言われようと身勝手と批判されようと親族が亡くなったりした時には、物書きなら必ず何か書かなければなりません。問題は何を書くか、どう書くかです。
親族が亡くなったり大きな天災が起こった時に、自由詩ではなく短歌を書き、俳句ではなくやはり短歌をお書きになった作家の例を石川は知っています。それはそれで作家それぞれの選択。ただその衝撃を自分のホームグラウンドの表現では表現しきれなかったのは確かだと思います。鶴山さんはそれをホームグラウンドの自由詩で表現したかったということです。『東方の書』や『国書』の書法ではなく『おこりんぼうの王様』と『聖遠耳』を書いていなければ今回のような表現は難しかったでしょうね。鶴山さん的には〝間に合った〟ということかもしれません。
『抒情詩について』という短い評論も書いておられますが、その中で『現代詩的修辞(レトリック)は魅力的だがテクニックを駆使すればするほど書けないことが増えてしまう。たとえば大きな病気をしたり親兄弟が亡くなったりした時にその衝撃をストレートに表現できた現代詩人はほとんどいない。詩人は特に書き方に縛られてしまうことが多い』と述べておられます。
自由詩を書く詩人であるなら、どんなことでも書ける自由な表現者でいるべきということでしょうね。またそれが鶴山さんの自由詩の原理的理解だと思います。自由に変わり続ける詩人でなければ魅力がない。変わろうという意志と力、とても大事です。
■鶴山裕司 連載抒情詩『四月四日』(『聖遠耳 日日新篇』No.001[不定期連載])■
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