アテクシ、毎号律儀に時評を書いてまいりましたが、今回から引っかかるお作品がない号はスキップさせていただくことにしましたわ。だいたい石川さん、アテクシに大衆文芸誌6誌全部の時評をさせるのがムチャなのよ。でもま、楽しいですけどね。
ビジネスでもそうですけど、達観主義は案外大事なのよ。できるだけある対象を遠くから見てなんとなくその本質を把握するわけ。チャートもそうですけど、短期で見ていると例外だらけですわ。でも引いて眺めると大きなセオリーからは決して外れていない。突飛に見えてもその突飛が定期的に起こっていて必ず予兆がございます。大衆文芸誌についてもそれは言えるわね。
これは前からとっても不思議だなーと思っているのですが、文芸誌の新人賞の〆切日ってだいたい同じですわ。会社が違うのにたいてい同じなの。アテクシならむしろ〆切ズラして作家がどんどん作品を応募できるようにしますわ。各誌の〆切・発表が離れていれば同じ作品をタイトル変えて他誌に応募もできますわ。だって新人賞の選考って絶対じゃないでしょ。ある雑誌でなんだかなーのお作品が、他誌で評価されるってことはよくあります。
文芸誌の新人賞担当者の方のお話を聞くと、「1冊でもいいからうちの雑誌を読んでから新人賞に応募して欲しい」ということをおっしゃいます。でもま、あるカラーに染まった作品が素晴らしいわけじゃないわよね。それに新人に雑誌のカラーを理解して作品を書いてと求めるのは酷よ。もしそんな芸当ができる新人作家なら、ま、はっきりいってろくなもんじゃないわね。最初から業界ゴロみたいなもんよ。新人賞は間口が広い方がいいんじゃないかしら。だから年1回の新人賞応募という回数が妥当なのかどうかも疑問がありますわ。そんな悠長な時代かしら。まあいいですけど。
ほんで大衆小説誌では多かれ少なかれ時代小説が盛んです。時代小説が掲載されていない雑誌はないと言っていいかもしれません。だけどこれがまた低調なのよねぇ。大衆小説では特に、実は現代小説よりも時代小説の方が書きやすくてお作品も量産しやすいというノウハウが滲透してしまった感じ。時代小説作家は増えていますけどヒット作が出なくなっています。
アテクシ、時代小説の定義は森鷗外先生の『歴史其儘と歴史離れ』の時代からそれほど変わっていないと思いますの。鷗外先生がおっしゃっている「歴史そのまま」というのは歴史に忠実という意味では必ずしもないと思います。だいたいですね、現代人がどう頑張っても、例えば江戸時代の歴史を正確に再現して書くことなんかできやしません。また小説である限り、時代考証が正しくても面白いお作品になるとは限りません。
鷗外先生の「歴史そのまま」というのはある時代の、難しく言えば思想的フレームのことだと思います。歴史小説を書く以上それを外してはいけません。また歴史小説だって現代小説である以上、現代社会と全く無縁の思想フレームにフォーカスを当てても読者の関心は得られません。時代制約があり、かつ現代社会と共通するような思想フレームを見出して生み出された小説がひとまず「歴史そのまま」を表現していると言えます。
ただ作家はそれでは満足できなくなってゆきます。じょじょに「歴史離れ」が始まってゆくんですね。江戸時代を舞台にしていても、こりゃ現代人の思想フレームと変わらないなという物語になってしまったりします。鷗外先生で言えば、最後の歴史小説になった『寒山拾得』が歴史離れ小説の典型でしょうね。つまり歴史小説の顔をした現代社会批判小説になってしまうわけです。
例えば江戸時代はお見合い結婚が普通でしたわね。なぜそうかといえば皆貧しかったからです。大名旗本であっても決して安泰ではなかった。年金も医療保険もなかった社会ですから、とにかく家と家の結びつきを深めていざというときの保険を掛けておかなければいけなかったわけです。
長男が家を継ぐという家制度にも理由があります。家電も自動車も電車もない社会ですから、とにかく力仕事ができる男が必要。家制度は男性優位ではありますが、男は徹底した労働者でした。もち女性も大変。買い物炊事洗濯子育てすべてに手がかかる。共働きどころじゃない。そういった社会システムの中から思想が生まれ、それが時に暴走したり、それを破ろうとする人が現れたりした、というふうに捉えなければ時代の本質はつかめませんわ。歴史小説、やっぱ完全に歴史離れしちゃうと面白くないのよ。
「もしそれがほんまに悪いことなんやったら、人間がそういう気を起こさんよう、神様が最初から作っといてくれたええのや。そうなってへんのに、好きになったあとで、人の道い背いてるとかいうて叩くのは、うちは違うと思う」
胸が苦しい。息が切れる。
苦労人の手代は静かに袖を探り、水晶の数珠を取り出した。
「おっしゃること、ごもっともでございます」
ひたいのところに捧げて一礼した。
「正直、われわれのまわりにある決めごとのほとんどは、天然自然の人間の理ではございません。おおむねはまつりごとをなさる方々の都合のええように作られたもんでございます。男と女のこともそうですし、ほかにもいろいろございます。家来は主君に従わねばならんとか、子は親に従わねばならんとか、妻は夫に従わねばならんとか。
それらは必ずしも正しいわけやありまへん。理不尽もあります。せやけど、そこを崩したら、この世の秩序というものがぐちゃぐちゃになってしまいます」
一息ついて、大きなお鉢で天と地を交互に見やった。
「上下の関係などというものは、おおむね後づけの建前でございます。けど、人の世を成り立たすためにはものすごく重要なことではありますので、致し方ないのです」
「そうか」
おさんはしゅん、となった。
周防柳「好色五人女列伝 おさん茂兵衛」
周防柳先生の「好色五人女列伝 おさん茂兵衛」は、言うまでもなく井原西鶴大先生の『好色五人女』「おさん茂右衛門」を下敷きにしたお作品です。おさんは人妻ですが、茂兵衛との愛(江戸時代では不義密通の罪に問われます)を貫き、茂兵衛といっしょに処刑されてしまいました。
こういった「好色」――必ずしもスケベという意味ではなく男女愛を重視してしまった、あるいは重視せざるを得なかった心性――に対して江戸の人々はおおむね同情的でした。ただ一方で当時の思想は「われわれのまわりにある決めごとのほとんどは、天然自然の人間の理ではございません。けど、人の世を成り立たすためにはものすごく重要なことではありますので、致し方ないのです」という方にあります。
ここから棒をどちらに転がすかで歴史そのままか、歴史離れになるのかというお作品の方向性が決まりますわね。男女純愛を善とし、極端なことを言えば雇用関係、上下関係、親子関係を無視する人間の強い自我意識を善とすれば現代的視線での江戸封建抑圧社会批判になります。しかし歴史そのままに加担して不義密通で獄門という極刑を善とするのは誰だってためらいます。
歴小説でも一種の二次創作的発想は盛んですが、恋愛をテーマにするとなかなか腰が定まりにくい。軽く読めて楽しいお作品ですが、案外難しいテーマですわね。
佐藤知恵子
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