勧善懲悪とか因果応報って考え方は日本ではおなじみね。江戸時代の戯作なんかはたいていそのパターンです。してきたことの総和が襲いかかるわけ。悪いことをしたら必ず天罰がくだるのよ。現世では報われなかった非業の死を遂げた場合でも、その子孫とか近親者がきっちりそれを回収して悪を倒し過去の負債を精算するの。現世ではそううまく勧善懲悪因果応報原理が働かないわけですからこれはこれで痛快ね。多くの善男善女の願望というか倫理が反映されていますわ。
もちろん現代社会ではなかなか通用しませんわ。江戸時代のように神仏の超越的な力で勧善懲悪因果応報原理を発動させるわけにもいきません。人間が起こしたことは人間によって回収されなきゃならない。でも目には目をの原理を適用しちゃうと殺人には殺人をということになってしまいます。当然現代法治国家では許されません。だけど小説ではOK。小説、特に大衆小説は江戸時代の倫理からあんまり変わってないところがあるわけです。また小説で描かれる復讐は犯罪を抑止する効果があると思います。やられたらやり返すという原理が上手く働く小説は人間世界の不文律的倫理を表現しています。
もち犯罪とは金輪際無縁ですが、アテクシはやられたらやり返すタイプですわ。世の中、ナメたことする輩が多いのよ。自分の地位とか立場を過信してる連中よね。自分の方が立場強いから失礼無礼なことをしてもだいじょうぶ、これがチャンスと上から目線で嫌がらせをしてやろうとさもしい根性を丸出しにする連中だわ。ま、そんなことするのはたいてい男ね。でもそんなもん、簡単にひっくり返せるのよ。誰にも何も言わせないアンタッチャブルな力を持ってる人なんて現代社会にはいないわよ。
で、そういう輩って旗色が悪くなると部下や同僚に責任を押しつけるわけ。要するに逃げる。でも逃げきれるかしらね。そもそも逃げるってこと自体が小心者で社会性が欠如してることを証明してるわ。人間同士が対立した時は、キッチリ対立した方が解決の糸口が見つかるってことを知らないの。こちらがハッキリ対立の意志を示した時に逃げたらそれが命取りになります。徹底対立してもかまわない相手だってことを見誤った時点でアウトね。そういう連中は追い詰めてやればいいの。情報化社会では対応を間違えれば大問題になりますが社会性のない小心者に対応できるわけがない。
こんな場所を、人を殺した男が歩いているとは何とも皮肉なことだ。重田恭史が命を落としたのは、当然の帰結だ。決して許されない罪を犯したのだから。そのことを後悔してはいない。しかし、祐司は同時にもう生きる目的を失ってしまった。
憎い男を殺した途端、達成感とともに激しい虚無感がやってきた。複雑な気持ちを持て余した。その時祐司の頭に浮かんだのは、子ども時代を過ごした高知の山奥の集落だった。なぜだか自分でもよくわからない。あの集落にもいい思い出などないのだ。だが、いつの間にかここへ足が向いていた。
宇佐美まこと「沈下橋渡ろ」
宇佐美まこと先生の「沈下橋渡ろ」の主人公は中年男の祐司です。彼は妻を通り魔事件で殺された。犯人は十六歲だったので氏名等々は隠され少年院に入所しただけだった。祐司は事件から二十一年も経った後に特徴的だった犯人の顔を雑誌で見ます。通り魔殺人の犯人重田恭史はゲーム会社を興して社長になっていたのでした。
妻の死後苦しみ抜いた祐司は重田に会いに行きます。重田は悪びれた様子もなく自分はもう罪を償ったと言います。祐司がなぜ妻を標的にしたのかと尋ねると、犯行現場の道路沿いに電器店が入ったビルが建っていてそのシンボルマークが妻の背中に映ったのだと言う。「あれが的みたいに見えたんだよな。ここを突けって印を付けられたんだと思った。天の声がさ、俺に命じたんだ、だから俺は迷わずそこを狙ったってわけ」とある。祐司は持参した包丁で重田をめった刺しにして殺してしまった。
重田がまったく反省していないので読者は祐司に同情しますよね。でもそれだけでは小説にならないわけでして。小説に限らずフィクションでは死が最大級の事件です。ましてや殺人となると決定的事件になる。ただ事件はそれが決定的であればあるほどその中心が空白化します。「憎い男を殺した途端、達成感とともに激しい虚無感がやってきた」とある通りです。基本的に心理劇である小説はその周囲を巡ることになる。どうやって空白を埋めるのかが小説の腕の見せ所になります。
祐司はそっと家を抜け出して、研一の家に向かった。家の前に誰もいないのを見計らって、そっと玄関を開けた。彼の家の車のキイは、玄関の靴箱の上に置いてあるのを知っていた。研一の家に呼びつけられて出入りしていたおかげで、彼の家の詳細はよくわかっていた。普通車と軽トラのキイが、キイホルダーに束ねられて小さなかごに入れてあった。それを急いで盗んだ。
同
祐司は重田を殺した後、少年時代を過ごした高知の山奥の家に向かいます。母子家庭で母親は高知市で働いていて祖父母に育てられました。その山奥の村で祐司はひどいイジメにあった。イジメの主犯格は研一という少年で父親は村の大地主で区長を務めていました。研一は暴力を振るうだけでなく、祐司の母親が高知市でいかがわしい夜の仕事をしているとからかいました。それが祐司には最も耐え難かった。
高知に巨大台風が近づいてきた日、祐司は研一の家に行って玄関に置かれていた車のキーを盗みます。研一の家は崖下にあって巨大台風が来れば避難しなければならなかった。その手段を奪ったのです。ささやかな意趣返しのつもりでしたが台風直撃で実際に崖崩れが起き、研一一家は亡くなってしまいます。刑罰としては比較的軽い窃盗罪でしょうが祐輔は未必の故意で研一一家を殺してしまったのでした。点が線になり始めましたね。
「もうええぞ、祐司」
そうだ。こう言ってもらいたかったのだ。何もかも虚しかった。長年探し求めてきた疑念――なぜ妻は狂った犯人の餌食になったのか――の答えにはとうとうたどり着けなかった。欺瞞に満ちた言葉を弄する重田を殺したが、心は満たされなかった。どんなふうに自分の気持ちを収めたらいいのかわからなかった。
懐かしいこの家で祖母にかけられた言葉が一番しっくりきた。
「山神さんに手ェ合わせて来い」
だが祖母は、素っ気なくくるりと背中を向けた。また流しに向かって食器を洗い始める。祐司は素直に立ち上がって玄関に向かった。三和土で靴を履く。くたびれた靴にこびりついた山土は、もう乾き始めていた。
同
もう廃村になっている山奥の家にたどりつくと、そこにはすでに亡くなった祖母がいて家の外観も内部も少年時代のままでした。祖母は当たり前のように祐司を出迎え「もうええぞ、祐司」と言い「山神さんに手ェ合わせて来い」と命じたのでした。
重田を殺したことと未必の故意で研一一家を死なせてしまったことがどう繋がるのかは実際にお作品を読んでお楽しみください。ただ小説末尾で祐司はもう死んでいる、あるいは死んだも同然の状態であるのは言うまでもありません。倫理を描いたお作品ですね。
佐藤知恵子
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