小説現代長編新人賞受賞第一作として、「檸檬先生」で受賞当時(第15回小説現代長編新人賞)十八歳の高校生だった珠川こおりさんの「一番星」が掲載されています。やっぱり新人、それも受賞時高校生だったと知っちゃうと期待してしまいますわねぇ。新人って、当たり前ですが新しい人って書きますが、若いということがこれまでに見た(触れた)ことのない新たな才能を期待させちゃうのよねぇ。そういう意味では小説新人賞って圧倒的にお年がお若い方が有利よ。そこに、どういった形であれ、時代的なスパイスが効いているとほとんど無敵ね。少なくともデビュー作としては。
珠川さんの処女作「檸檬先生」の場合、高校生という学校制度は別にして、若い女の子の大きな武器になる風俗的要素はまったくありませんでした。多くの読者が驚いたのはその圧倒的な言語表現能力です。一般的傾向から言って、男の子より女の子の方が言語能力が幼い頃から発達しやすい面がありますが、長編小説を書ける言語能力は尋常じゃありません。
また「檸檬先生」というタイトルは甘酸っぱい印象です。それはその通りで、十代の少年少女の、未完成ゆえに性急に完成を求める純な自殺願望が描かれています。絶望ゆえの自死ではなく、それが一つの観念的完成になるわけですわ(もちフィクションですよ、真似しちゃいけません)。そういったところは最果タヒさんに近い面があります。
余談ですが、最果タヒさん、アテクシの大好きな作家様のお一人ですが、オジサン・オバサン的に言うと「困ったなぁ」という面があるのも申し訳ないのですが正直なところです。死にたい系の鮮烈な自由詩でデビューなさり、同世代ティーンエージャーの圧倒的支持を受けたわけですが、それはよくわかります。またあれだけの言語能力があって高い完成度の作品をお書きになると、オジサン・オバサン作家は新人賞なりなんなりで評価せざるを得ないと思います。そのくらい素晴らしい表現水準ですわ。
ただぶっちゃけた話、このまんまじゃ続かないだろうなとオジサン・オバサンは思ってしまうわけですよはい。文学批評ですから書きにくいですが書いてしまいますが、死にたい系が実際に死んでしまうとシャレにならない。とはいえ死にたい系が図太く生きると、それが当たり前とはいえ、読者はやっぱんん、となってしまうでしょうね。なかなか先行き難しい。
アテクシ、文学は基本的に社会的弱者の表現だと思いますが、弱者の存在性や観念をこれでもかというくらい抉ると作家様はいわゆる弱者の王としてエスタブリッシュしてしまう傾向があると思います。戦後に多くいらっしゃった社会問題を扱う作家様ならいつまでも社会的役割を果たすことができますが、ティーンエージャー特有の生死の揺らぎがテーマだとそれが難しい。作家様の方が自分に付いた読者に迎合してしまうと自身のエピゴーネンになってしまう。かといって順当にそこから脱すると読者を裏切ってしまうことになる。
もち裏切るのが正しいのですが、それには勇気と時間が必要です。詩(自由詩)は作家の直観的真理を表現する言語芸術ですから、転調のためのツールとしては向いていない。最果先生は小説もお書きになり、これがまた魅力的な作品でござーますから、小説(散文)で転調を図ってゆくしかないのかなーとオバサンは思ってしまうのでございますよはい。いっときであれ『歌のわかれ』(古っ!)が必要でしょうね。小説主人公は死にそうで死なないのが鉄則ですから。
脇道に逸れてしまいましたが、珠川さんには最果さん的な転調は必要ないと思います。高い言語表現能力という武器を手に、あらゆる作家様と同様に活路を切り拓いてゆくことになろうかと思います。
部長は笑っていなかった。泣いていた。ぽたぽた涙をこぼして泣いていた。コンクールの大きなホールの会場はうすら寒いくらいに冷えていた。部長は丸い目にでっかい涙の粒を浮かべて、ぐっと歯をくいしばって、唇の端を下げて、眉毛も下げて、ぼろぼろ泣いていた。日焼けした黒い肌に、涙がどんどん落ちて、黒目が溶けそうにきらきら光を反射していた。情けない顔だと思った。お腹が嫌な感じに熱くなる。金賞を発表する審査員の声と、歓声とで、部長の声は聞こえなかった。俺はただ部長の泣いている顔を眺めていた。見たくなかったのに、目を逸らせなかった。
珠川こおり「一番星」
「一番星」の主人公は中学一年生の太一です。中学に入学して友だちに誘われるまま合唱部に入りました。友だちはすぐに退部してしまいましたが、太一はなんとなく合唱部に所属しています。太一は先輩(女性)の部長と同じソプラノのパートです。まだ声変わりしていないということですかね。「部長はソプラノに入った一年生五人の中でも、俺にばかり構った」とある。部長が太一をかまってくれる理由は恋といったものではありません。太一が男に成りきっていない性未分化の存在だからでしょうね。太一もなんとなく部長に惹かれていますがもちろんそれも恋といったレベルのものではない。
合唱部はコンクールに出場することになります。金賞を受賞すれば本選に進めるのですが、太一たちの合唱部は銀賞で予選敗退だった。太一は部長がぼろぼろ泣いているのを見ます。太一はそれほど悲しくない。しかし部長が泣いているのを見つめる。彼女は太一が持っていない何かを持っています。あるいは太一が気づくべき何ものかを秘めています。太一はそこに届かなければなりませんが、届いてしまってもいけない。部長は太一にとって決して手の届かないイデアであり、かつ太一は部長とは違う自分のイデアを見つけ追い求めなければならないのです。
部長、自由だ。歌は自由だ、それで流れてはじけて丸まって固くなって、俺は飛び上がっていく。俺も、部長も、自由だ。歌を歌う。歌を、一緒に。
筆は赤っぽいオレンジでまっすぐな光線を放った。届く。どこまでも進む、光線だ。でもちょっとだけ、水っぽい。でも、・・・だから途切れず掠れず、進んでいける光線だ。
ああ、熱いね。熱い。音楽室も、廊下も、ホールの照明も暑くて仕方がなかった。溶けてしまいそうなほどの気持ちの中で、俺も部長もいつでも熱かった。
これが、俺らの夏だった。
同
太一は夏休みに母親といっしょに田舎のおばあちゃんの家に行きます。おばあちゃんの家の近くに白くてキレイな建物があり、そこで「おっさん」に出会います。おっさんは絵を描いていた。太一は「おっさん、画家?」と聞きます。そういうぞんざいな口をきいても許される年齢です。おっさんも怒りません。それどころか太一を歓待してくれる。
太一は夏休みの宿題に絵があったので、おっさんに絵を教えてもらうことにします。もちろんおっさんは絵の技術を教えたりしない。絵というものの本質を示すだけです。太一は絵について話すおっさんの声は「透明でなめらかで静かなのに、楽しそうに話していると色がついて見えた。おっさんが、おっさんじゃないみたいだ」と感じます。
太一はおっさんから画材を借りて絵を描く。部長のことを思います。「俺も、部長も、自由だ」と思う。そして絵は「途切れず掠れず、進んでいける光線だ」と感じます。
珠川さんという作家は、言語で表現しきれないある純な感情や思考を表現しようとする作家さんのように思います。「檸檬先生」もそうでしたが「一番星」でもアート(絵)が小説の小道具になっています。小説という言語表現だけではなく、絵などの視覚表現についても鋭い感性をお持ちでしょうね。
ただこれほどの言語能力をお持ちの作家が絵という感覚的言語表現(一種の、ですよ)に没入できるとはちょっと思えませんわね。やはり言語表現が珠川さんの表現の独断場になりそうです。もちろん表現しようとなさっている主題は言語では正確に表現し難い。しかし大胆かつ繊細にさらなる表現の深みに分け入ってゆかれることと思います。
佐藤知恵子
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