今月号には吉川トリコ先生の「余命一年、男をかう」、長編490枚が一挙掲載されております。お作品『グッモーエビアン』が映画化もされた売れっ子作家様でいらっしゃいます。
それにしても490枚の長編の一挙掲載は、尋常ぢゃございませんわねぇ。小説は長さによってぜんぜん書き方が変わるものです。短編ならストーリー中心にするか、心理中心にするかハッキリ決めなきゃなりませんわ。ストーリー中心なら心理描写を抑え、次々に事件を起こさないと読者が飽きちゃうわね。心理中心なら事件は控え目にして、主人公の心理の事件を際立たせる方向に進めてゆかなければなりません。
この原則は250枚くらいまでの中編(といっても薄い単行本1冊分くらいですが)まではなんとか援用できます。だけど300枚を超えるとちょっと難しい。事件が複数起こり、心理的事件、人物葛藤も織り交ぜないと面白い長編小説にはならないのです。500枚近い小説になればなおさらのことね。いわば小説に〝構造〟が必要になるわけです。
アテクシ、「余命一年、男をかう」をちゃんと最後まで読みましたわ。当たり前のようですが、490枚のお作品を読み通すのはけっこう大変ですの。断続的に2日かかったかしら。
で、ここからは小説批評です。大作をお書きになった吉川先生の努力と情熱に真っ正面から向き合わなくてはなりませんわね。いつもいい加減なことを書いているつもりはござーませんが、今回はさらに真面目に批評したいと思いますわ。思い切って、ちょっと書きにくいことも書こうと覚悟を決めます。
私の人生の目標はただ一つ、誰に頼ることもなく一人で生きていけるだけのお金を稼いで、収支トントンで終えること。
この世に生まれたからには、生きなくちゃいけない。
生きているかぎり、生きなくちゃいけない。
いつのころからか、それだけはあたりまえの指針として私の中にあって、私は私を裏切れなかった。やれやれとうんざりするような気持ちで、生きねばと思って生きていた。
あの日、医師からがん宣告を受ける日までは――。
吉川トリコ「余命一年、男をかう」
「余命一年、男をかう」の主人公は片倉唯という40歳の女性です。作中で41歳になりますから一年ちょっとの時間経過のお作品です。唯はメーカーで事務職として働いています。特に趣味というものもなく、キルトを作る以外に楽しみもありません。キルト作りは実母が好きだったから始めたのですが、実母はがんで亡くなり、父親は若い継母(結婚当時)と再婚して腹違いの弟がいます。この家庭環境が唯の精神に大きな影響を与えたのは間違いありません。作中でもそれは語られます。ただ継母がもの凄く意地悪な人だったというわけではない。父親も異母弟もそうです。ごく普通の人たちと言っていいと思います。
ただ就職して一人暮らしを始めてからの唯の目的は、「ただ一つ、誰に頼ることもなく一人で生きていけるだけのお金を稼いで、収支トントンで終えること」に絞られます。そのためできる限り無駄遣いを抑え、いわゆるケチケチした生活を送っています。その成果もあって20歳でローンを組んでマンションも所有しています。預貯金もかなりある。誰にも迷惑をかけず死ぬまで自活自営するためのお金を貯めるための節約です。
しかし会社の健康診断で引っかかり、精密検査を受けて唯はがんだという診断を受けます。今すぐ手術した方がいいと言う医者に、唯は余命どのくらいかとしつこく尋ねます。「他の人とは事情が違うんです。私は別に生きたいわけでもましてや子宮を温存したくてごねてるわけでもなくて、これでやっと死ねるんだと安堵をおぼえているぐらいなんです。そこのところを誤解しないでくださいと言いたかった」とある。
医者は渋々「一年が一つの区切りとして、それ以降は断言しかねるが、もって二、三年。それ以上生きのびる人もいないわけじゃないけれど、レアケースだと考えていい」と答えます。もちろんこれは手術をしなかった場合のお話です。唯は手術をしない方を選びます。
唯は同期入社や後輩の男性社員に比べて女性社員のサラリーが低いこと、セクハラ、パワハラが横行していることも小説の中で吐露します。しかし信念を持ったフェミニストではない。世の中を厭う気持ちに拍車をかける社会での出来事、といった感じです。また一種虚無的な心性を持った女性ですが、自殺願望は一切ない。生きられるだけ生きて淡々と死にたいと思っている。つまり唯という女性は緩慢な虚無主義者であり、緩慢に死を選ぶ女性だということです。
「あのさ、おねーさん、いきなりで悪いんだけど、お金持ってない?」
「は?」
あまりにも直球のたかりに驚いて、思わず訊き返してしまった。
サバ色スーツ男はうすっぺらい体を折るようにして、ソファに座っている私に顔を近づけた。(中略)近くで見ると、思っていたほど若くはなさそうだ。そのことに続けて驚いた。いい年してホストなんかして・・・・・・。
「親父が長いこと入院しててさ、入院費を払えってずっと催促されてんだけど、今日払わないと追い出されちゃうかもしれなくて・・・」
放っておいたら男は、ぺらぺらと身の上話を語り始めた。
同
病院の待合室で会計を待っていた唯にサバ色のスーツを来て髪をピンクに染めた、見るからにホストの男が声をかけて来ます。父親が長期入院しているのだが医療費を払えない、「いきなりこんなこと頼んで悪いんだけど、金貸してくんない?」とストレートに唯に言ったのでした。
この男が「余命一年、男をかう」のタイトルになっている男で源氏名リューマ、本名瀨名吉高です。唯より10歳年下です。唯は「いいですよ」とキャッシュカードを差し出します。「限度額まで、余裕たっぷりあるはずです。それで足りなければ、もう一枚カードあるし、銀行からお金をおろしてくることもできるので言ってください」と告げたのでした。
唯が吉高にお金を貸した理由は幾つもあります。一つは言うまでもなくがん告知を受けたことです。治療を受けなければ、長くともあと二、三年で死ぬのならお金はもう意味がない。ただそれだけでは初対面の、しかもチャラそうな男にお金を貸したりしませんね。吉高の破れかぶれな率直さ、あけすけさが唯の琴線に響いたのです。吉高のずうずうしさ、その唯にはない力強い生命力に惹かれたとも言えます。顔がイケメンだとか様々な理由が付加されますが、ある種の一目惚れだと言っていい。実際作中では映画『プリティ・ウーマン』が何度も言及されます。「余命一年、男をかう」は男女逆パターンの『プリティ・ウーマン』でもあります。
ただ運命の男である吉高に出会うまでが長い。小説は一章分丸々唯の緩慢な虚無主義を描くことに費やされています。吉高に出会うのは第二章ですが、そこからの物語の流れも緩い。というか、「余命一年、男をかう」という小説は、唯ががん告知を受け、ひょんなことで吉高に出会うという以外の事件が起こらないのです。作中に唯の不倫相手――唯は性欲がなく男を決して寄せ付けない女性ではないんですね――とのちょっとしたいざこざも描かれていますが、事件というほどではない。つまり、ほぼ全篇登場人物の心理描写小説です。500枚近い小説が心理描写中心というのはいささか無理があります。では「余命一年、男をかう」が駄作なのかというと、そんなことはまったくありません。
「なんでって、がんいなったら治療はしないって最初からそう決めてたから。お金もかかるし、抗がん剤の副作用にも耐えられそうにない。生きることに未練はないし、むしろ早めに人生を切り上げられてラッキーだと思ってるぐらいだよ。最後の最後に、ボーナスみたいに顔のいい男と結婚もできたしね」
冗談っぽく言ったのに、瀨名はくすりとも笑わなかった。
「意味わかんねー」
「だれかにわかってもらおうなんて思ってない」
「いかれてる」
「いまさらじゃない?」
のれんに腕押しを身をもって体感し、瀨名はそれ以上なにか言うのがバカらしくなったみたいに頭をバリバリ掻いてシートに身を沈めた。
同
世間的常識と比べれば極端かもしれませんが、唯の人生哲学は一貫しています。それがいやというほど小説内で語られ告白されます。その受け手が飼われた、買われた男、吉高になるわけです。
唯は吉高に父親の治療費70万円をポンと出してやり、その代わり、70時間自分に付き合うことで返済を免除してやります。その70時間は楽しかった。お金と引き替えに女性に楽しい時間をサービスするホストということもあり、唯はそれで満足だった。しかし吉高のことが忘れられない。唯は自分と結婚すれば、全財産を残すというオファーを出して吉高と結婚したのでした。吉高との関係はビジネスライクなもの、ということですね。ホストという仕事を蔑視していたとも言えます。
もちろんそれは建前です。吉高に執着しているから唯は結婚と引き替えに財産をあげると約束した。自分が誰かに愛される、大事にされるとはまったく考えていない、期待していない女性なのですね。
そしてこれももちろんなのですが、長編小説で飼われた、買われた男がチャラい格好をしてチャラい物言いをしていても、感受性が鈍く頭が悪いはずがない。それは最初からお約束であり、吉高は唯を理解しようと悪戦苦闘します。しかし唯はそれを全部はね付ける。唯の心の壁を乗り越えることができないんですね。なぜでしょう。
私は干渉しないからおまえも干渉するなという徹底的な拒絶の言葉を突きつけられたら、こっちはもう手も足も出せない。
「私のことは放っといて」(中略)
なんでだかわからないけど、俺はずっとイライラしていた。いつからだろう。唯の言うことなすこと、一事が万事とにかく気に入らなかった。もしかしたら病院で最初に出会ったときから、ずっとムカついていたのかもしれない。
同
小説は第Ⅰ部、Ⅱ部構成で、Ⅱ部は吉高の心理独白のパートになります。そしてⅡ部の方が圧倒的に短い。
なぜⅠ部、Ⅱ部構成になっているのかというと、唯の信念、その頑固な心をⅠ部で書き過ぎているからです。Ⅰ部では特殊かもしれませんが、現代人としてはあってもよい一人の人間の心理と生き方が微に入り細に入り描写されます。しかし描写し過ぎた唯の心理描写中心ですから、もはや吉高がサブではその壁を乗り越えられない、壊せない。Ⅱ部が吉高の心理描写になっているのはそのためです。動かなくなった小説を動かすためと言っていい。唯の信念は論理的には一貫していますが、吉高の論理を超えた直観では間違っているということです。
つまり「余命一年、男をかう」という小説は、小説全体の構造を考えないまま書き始められた小説です。最初は唯という特殊でもあり、ある種の普遍性を持った人間の信念と生き方を描くのが作家の興味の中心だった。そこに吉高という、唯が普通に生活していれば決して出会うことのない男を絡ませた。しかし吉高がサブ登場人物である限り唯の心は動かない。
吉川先生による、現代を生きる女性のパッションが非常に強く感じられるお作品です。現代女性を巡る問題がこれでもかというくらい、唯という女性に放り込まれている。ただ構造が曖昧なまま書き始められたお作品なので、そのまとめ方、物語の進み方がダッチロールしてしまっていると思います。それでもこのお作品が、最後まで読めば吉川先生らしい作品であり、ああなるほどと思わせるのは、先生の情熱が注ぎ込まれているからでしょうね。
純文学と大衆文学という制度というか、垣根を一度壊してしまった方がいいように思います。恐らく大衆文学というそこはかとない制度が課せられているから、吉川先生はセンセーショナルである唯のがん告知、そしてそこにいっけんチャラいホストを組み合わせて、男を飼う、買うという物語を構想なさったのだと思います。しかし作品を読めば明らかですが、そういったエンタメ要素よりも重要なテーマがこのお作品には表現されています。それをストレートに表現すれば、恐らく純文学に近づくでしょう。が、作品の完成度はグンと上がると思います。
とてもバランスの悪い小説ですが、とても強い切迫感のある小説です。それが、このお作品の小説現代で一挙掲載という流れになったのだと思います。編集部の評価は高いということです。おこがましい言い方をすれば、確実に次に繋がるお作品です。ただし売れるか売れないかと言えば、吉川先生の愛読者にはアピールするでしょうが、さらに広い読者を獲得するのは難しいと思います。理由はバランスの悪さです。構造に問題がある。
ただ構造と言っても難しいことを言っているわけではありません。Ⅰ部、Ⅱ部で話者を変えるなら、物語の登場人物などはそのままに、最初から唯と吉高の心理独白が交互に表れる構造でもよかった。導入が長く事件がなかなか起こらない小説ですが、いきなり事件が起こった所から、二人の心理的事件を紡ぐ方がこのお作品のテーマをスムーズに進めることができたように思います。またその方が事件を起こしやすい。その結果は、いわゆる悲劇になってもハピーエンドになってもよい。二人の心が離反して終わっても、結ばれてもよいのです。心理小説ですから。
いろいろ考えさせられるお作品です。実際のお作品をお読みになって、皆さんも楽しみながら、小説の楽しさ、難しさを我がことのようにお考えになると、いっそう小説が楽しくなると思います。
佐藤知恵子
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