今月号は第15回小説現代長編新人賞発表号です。珠川こおりさんの「檸檬先生」が受賞なさいました。おめでとうございます。珠川さんは受賞当時、なんと十八歳の高校生だったそうです。驚きですねぇ。久しぶりの超若手作家の登場です。多くの人が期待を寄せるのは当然です。ホントに頑張っていただきたいです。
ただま、アテクシオバサンですから、忌憚のない読後感を書かせていただきますわ。すんごいアドバンテージを獲得なさいましたが、将来は珠川さん次第で誰にもわかりませんからね。「檸檬先生」という小説には高い才能を感じますが、小説としては問題もあると思います。ただ大人が十八歳の新鋭にそれを指摘するのはためらわれますわね。選考委員の先生方を始めとして、大きな将来的可能性が自然にそれを吸収すると考えるのが普通だと思います。
でもやっぱり作家の年齢に関わらず思ったことは書いてしまうのが精神健康上良いと思いますの。新人賞を受賞するつもりで小説を応募して見事獲得なさったわけですから、横並びのスタートラインに立って、スタートをお切りになったということになりますからね。
私の十年来愛した女性は、今私の目の前で細い四肢を投げ出し、切れ長の瞳をだらりと開けて倒れている。微動だにしない。ただその美しい黒の瞳で、アスファルトの地面だけを見つめている。私の地についた膝は広がり続ける赤黒い水溜まりにじっとりと濡れ、その中心に彼女は浮かぶように沈んでいた。
絶命している。(中略)
往来は沈黙した。たった今ビルのてっぺんから飛び降りて頭をぐちゃぐちゃにして死んだ女を、皆何も言えず見つめている。ただの、赤の他人の無造作な死ではない。矯激な死だ。何人も視線を逸らすことなどできない。
これこそ芸術だと彼女は言っているようだった。透明な彼女は赤いペンキと為りキャンバスを殴りつけた。確かにそうだ。だが私には全くわからなかった。死してまで芸術を成し遂げた彼女の鮮烈な激情を、今までわかった気になっていただけだったことに気づいたのだ。
珠川こおり「檸檬先生」
お作品は檸檬先生と呼ばれる女性の自殺現場から始まります。語り手は男の私で「初めて彼女に会ったのは私が小学三年生の時だった」とあります。檸檬先生は中学三年生でした。「私の十年来愛した女性」とありますから、私が十九歳、檸檬先生が二十五歳の時に彼女は自殺したことになります。
十年も愛した女性の自殺からお作品が始まっているということは、この作品の結論が檸檬先生の死で表象されることを示しています。自殺が作品のバニシングポイントでありテーマでもあるということですわね。
こういった、いわば結論から始まる小説はもちろんたくさんございます。で、ずっと愛し続けた女性を自殺で失ったわけですからそこには理由がある。つまり小説の結末と冒頭がウロボロスのように食い合っていてテーマが円環してることが多いのです。
住宅街の角を曲がる。一歩大通りに近づく。鳥が一声泣く。
『後継、結局男が必要なんだ。高校だって私の自由にはさせてくれなかった。受け入れてくれる人はいなかった。言い出せるわけがなかった。少年は私と同じだと思ったんだ』
「同じじゃん。同じ共感覚じゃん!」
『違う。私、少年は普通になれるって思った。だって子供だったから。子供は脳の回路が単純だから。でも少年が普通になったらそれはそれで嫌になるって、ほんとうにエゴ。汚い大人になったな。ほんと』(中略)
ホウライホールの手前、ある会社のビルの前で私は立ち止まった。先生が止まるように言った。やたらに通行人がこちら側の道路に集まっている。皆上を見上げてスマホを翳している者もいた。
『少年、私はやっぱり酷いやつだった。お前のこと嫌いじゃないよ。少年は私の唯一だったから、でもお前は今たくさんの人に囲まれている、私はお前の唯一じゃないでしょ。結局、全部そういうことだよ。世の中には何十億もの人間がいて、その中で出会うのはたった数百人で、それでお互いにいい感情を共有できるのは、ほんの一握りなんだ。さらにそれが唯一となるのはゼロに等しい。人間はモノクロで、相手の心なんて読めないから、そうなんだ。ねえ、少年』(中略)
電話が突如切れた。スマホを見ると通話終了の画面になっていた。空を振り返る。白いワンピースの先生は高層階の屋上で、白いワンピースも黒い髪も風に遊ばせて、笑っていた。白い剥き出しの手足が寒空に痛い。へりに立って彼女は叫んだ。
「ねえしょうねん、おれ、いま、とってもしあわせ」
彼女の笑顔を見た気がした。
先生の体が揺らいだのを見た瞬間私は駆け出した。(中略)柵と花壇を飛び越えた。その先に真っ赤な血溜まりと、先生だった人が沈み込んでいた。
同
私が檸檬先生と仲良くなったのは、二人とも共感覚の持ち主だったからです。共感覚とは「例えば、音に色が見えたり、その逆だったり、数字が色だとか、見た目が図形だとか」とあります。私は共感覚のせいで授業が頭に入らず、おまけに父親が芸術家肌で家を顧みないので母と二人で苦しい生活をしていました。母親が水商売のせいで同級生たちから虐められてもいた。理由はわかりませんが学校で虐めを受けているのは檸檬先生も同じです。しかし彼女は少なくとも中高時代は毅然としていた。私は共感覚の先輩として彼女を檸檬先生と呼び慕うようになったのでした。
その彼女から久しぶりに電話がかかってきて私は呼び出されます。スマホで話しながら歩いているのですが、彼女は自殺するために高層ビルの屋上にいて電話していた。自殺する間際まで檸檬先生は私と話していたわけですからその言葉は一種の遺言です。ではなぜ檸檬先生は自殺したのでしょうか。
檸檬先生は大企業の一人娘で後継者となる男と結婚するのだと言います。「後継、結局男が必要なんだ。高校だって私の自由にはさせてくれなかった。受け入れてくれる人はいなかった。言い出せるわけがなかった」とあります。しかしこれが自殺の理由ではありません。それではテーマに結びつかない。テーマのベースになっているのは共感覚だからです。
檸檬先生は私のことをずっと少年と呼んでいましたが、「少年は普通になれるって思った」「少年は私の唯一だったから、でもお前は今たくさんの人に囲まれている、私はお前の唯一じゃないでしょ」と言います。自殺の理由はそれでしょうね。
私と檸檬先生は共感覚という特殊な能力で私と結ばれていました。しかし私はその特殊な能力と折り合いをつけて普通の人間になろうとしています。だけど檸檬先生はそれができない。むしろそうしたくない。檸檬先生は人と人とは決して理解し合えない、わかり合えないと言います。ではなぜ死の間際まで少年と電話で話し続けるのかといえば、少年の目の前で自殺することで彼女が少年にとって決して手の届かない超越的次元に止揚されるからです。死によって檸檬先生は私にとって絶対不可知の領域に入る。永遠に特別な人になるのです。
この感覚は思春期の少年少女にとって決して珍しいものではないと思います。単純にというかオバサン的に残酷に言ってしまえば、自殺によって平凡な自己と生を特権化するという幻想です。これもオバサン的に言えば「檸檬先生」の主題は少年少女的ヒロイズムだと思います。危ういなーと思ってしまう理由ですわね。十八歳の若さで、文学少年少女なら誰もがうらやむ有名文芸誌の新人賞を受賞してしまったのですからなおさらです。気を引き締めないと後々大変になりそうです。
「お前は、私のことだけ考えてな。ずっと、四六時中、何をするにも私のことを考えて。それ以外は見ちゃいや」
太陽光は薄黄色く先生の髪を透かし込み、光の筋がいくつも走る。唾液で濡れた唇はふやけた音を声に乗せ、丸く曲線を描く頬の輪郭をなぞって空気に広がる。緩慢な瞬きを一つして私は頷いた。
波打ち際まで先生はサンダルを脱ぎ捨てて走った。波がこない手前で私は両の掌をもどかしく擦り合わせながらサンダルの横に尻をつける。砂は太陽にすっかり焦がされじりじりとその熱を高めている。下半身にぼんやりとそのぬるさが移った。波のうつ白く泡立ったその上で先生はワンピースを風に遊ばせ舞うように白い脚を蹴り上げている。その度にぴしゃと飛沫が上がって波が引いて、轟音と共にまた青が押し寄せる。波を軽やかに飛んで避け、直接青の中に飛び込んで、先生は縄跳びをしているかのように楽しそうだった。背中しか見えないが長く流れる黒髪が体の動きに合わせて散って、たまにちらと見える頬の赤さがどうしようもなく愛らしく思えた。
同
杓子定規にジェンダーとか言い出すとイライラして面倒なことになりますが、おしゃべり好きということもあって特に十代頃は女の子の方が男の子よりも遙かに言語能力が発達していることが多いです。珠川こおりさんの言語能力が非常に高いのは言うまでもありません。「檸檬先生」は多分四〇〇枚くらいの長編小説です。十八歳でこれだけの長編小説、ということは高い言語能力を発揮できるのは驚異的ですわ。才能に恵まれた作家であるのは間違いありません。
ただ作家というスタートラインに立てば言語能力があるのは当たり前です。豊富な言語能力ではなく、それを削ってゆく能力で勝負するプロもいる世界です。また言語能力は強力なテーマが作品全体を統御していなければ空回りします。「檸檬先生」の始まりであり帰結は先生の自殺です。この作品に関してはそれでいいのですが人生は続きます。誰も死なない小説に転身する必要があります。それは「お前は、私のことだえ考えてな。ずっと、四六時中、何をするにも私のことを考えて。それ以外は見ちゃいや」という究極的な愛の模索から生まれるのかもしれませんね。
佐藤知恵子
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