鶴山裕司『安井浩司研究No.008 未刊詩集『Die lilaue wolke, Die meimer Augen』』(その四)をアップしましたぁ。今回で『Die lilaue wolke, Die meimer Augen』は終わりで、来月から新しい未完詩集の掲載になります。安井浩司研究は一種の学問ですから要不要はひとまずおいといて、どんどん安井さんの未完原稿をまとめていただきます。
鶴山さんは『正岡子規論』を刊行なさいましたが、その中で「俳句は日本の調和的かつ循環的世界観を表現するための非―自我意識文学である」と定義なさっています。石川はこの定義は正しいと思います。鶴山さんの定義を援用すれば、なぜ俳句界から座(句会)や結社がなくならないのか、なぜ俳句はお遊びと不可分なのか、なぜ俳人は厖大な数の句を詠めるのかといった事柄が無理なく説明できるからです。
もちろん〝俳句は非―自我意識文学〟という定義に反発を覚える俳人も多いと思います。俳句は俳人のオリジナル表現であり、そうあるべきだということですね。しかし俳句を小説や自由詩などと同質の文学(自我意識文学)として捉えると数々の矛盾が生じます。俳句は唯一無二の自我意識文学と強弁しても双六の最初に戻るになるのは目に見えている。鶴山さんは〝詩は原理的に自由詩である〟と自由詩の世界でも原理論を書いておられます。これに対しても現代詩でなきゃ困る詩人さんたちから強い反発があるようですがそれもムダでしょうなぁ。原理的思考はジャンルの本質を的確に理解し新たな創作を生み出すためにあります。
また〝俳句は非―自我意識文学〟であると定義しても俳人がオリジナリティを発揮できないわけではない。その可能性のメルクマールとして鶴山さんが注目しているのが安井浩司さんです。詳しくは『正岡子規論』の『俳句文学の原理』をお読みください。鶴山さんの俳句論は桑原武夫の「俳句第二芸術論」に比肩するような問題を提起していますが、桑原さんより親切です。全否定ではなく新たな俳句の可能性を示唆している。
さらに『正岡子規論』の『散文革新-写生文と私小説』で俳句の独断場である〝非―自我意識文学〟が、極端な人間の自我意識表現である私小説にも流れ込んでいることを論じています。このラインで葛西善蔵から志賀直哉、夏目漱石の文学を論じた箇所はスリリングです。俳句が日本が誇る独自の文学であるのは確かなことです。
もちろん、まあこれは言い難いですが、鶴山理論を援用してなぜ575なのか、なぜ俳句には季語が必須なのかといった〝謎〟があっさり解けてしまうと俳句ジャーナリズムは困るでしょうね。永遠に「季語ってなに?」「なぜ575なの?」といつまで経っても埒があかない堂々巡りの謎を使い回していかなければ俳句ジャーナリズムは成り立たないでしょうねぇ。
ただ石川はそれでいいと思います。俳句はお遊びを含む、それは絶対に俳句から排除できない。俳壇ジャーナリズムのホットドックプレス的使い回しテーマもお遊びのうち。ただ『正岡子規論』は世に出ましたから、この本の意義を正確に捉えて新たな俳句を模索する作家も現れるのではないでしょうか。
安井さんは耕衣-重信-郁乎の系譜の上でずっと彼独自の前衛俳句を書き続けましたが、彼を除けば大局的に見て、俳句の新たな動きは折笠美秋死去の1990年以降生まれていないと思います。前衛〝風〟作品は現れますが作家は伝統俳句と対立すらしない。俳壇の中で体制内野党として立ち位置を見出している感じかな。それもいいとは思いますが、そろそろ新たな作家、真に新たな動きが生まれていい時期です。
文学の世界ではもう何も起こらない、何も変わらないと諦めたような時期に突如卓袱台をひっくり返すような作家が出て新たな文学動向が生まれる。それを繰り返しています。現状の俳句界が世界の全てと考えるのは危ういです。
■鶴山裕司『安井浩司研究No.008 未刊詩集『Die lilaue wolke, Die meimer Augen』』(その四)■
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