今号は第101回オール讀物新人賞発表号で出崎哲弥さんの「装束ゑの木」が受賞なさいました。おめでとうございます。で、オール讀物新人賞は「オール讀物歴史時代小説新人賞」となって時代小説専門の新人賞となりました。これはまあ当然というか予想できたことよね。以前からオール様掲載小説は時代小説がおおございましたもの。
これを書くのはタブーかもしれませんが、オール様は年二回の直木賞発表に合わせて合併号となり年十冊の刊行となりました。雑誌が売れていれば間引きはしないわよねぇ。オール様ですら苦しいのねと思っちゃうわ。そういう時期にオール様が最も得意とする時代小説に特化なさるのはとてもいいことだと思います。ただ時代小説に特化するなら多様性はもちろんのこと、今までになかった新し味の方向性がわかるようにしていただきたいわ。
大衆小説は売れてなんぼの世界ですから、時代小説で求められるのは理想を言えば池波正太郎先生や平岩弓枝、司馬遼太郎、藤沢周平先生のようにベストセラーになる作品と作家だと思いますの。どこからともなくポッとそうい作家が現れればいいけれど、そういう作家が頭角を現せる環境も必要よね。
オール讀物歴史時代小説新人賞は相変わらず八十枚以内ですから、時間をかけて中編から作家を育てていく気配ね。でも歴史時代小説って応募年齢が高くなるはずよ。余計なお世話だけど三百枚くらいで最初から全部さらけ出してちょーだいの方が手っ取り早いかもしれないわ。もし五、六十代の作家が新人賞を受賞して、そこから育てていくといいますか、何本も短編中編を書かせるのはどーかしらねと思っちゃうわけ。あ、ホントに余計なお世話でした。
で、時代小説に限定するなら時代小説の意義を多少は明らかにする必要があるわね。明治の新聞や雑誌などを読むとすんごい時代小説が多いのよ。百年以上前から時代小説ってエンタメの定番だったわけ。時代小説はかるーく読めて楽しい小説にしやすいのね。でも軽く読めてある程度売れるだけじゃものたりない。可愛いだけじゃダメかしら、ダメに決まってんだろ、ということですわ。
優れた時代小説というものは確実にあります。それは現代社会を舞台にすると表現しにくいある本質を、昔の時代設定を借りて表現しています。森鷗外が時代小説の祖と見なされる理由よね。鷗外は激動の明治において倫理と秩序を表現した作家です。
戦後の昭和二十年代から四十年代にかけては戦後的世相を表した時代小説がおおございましたね。戦後的世相って、なにがなんでも生き残る人間の強さと言ってもいいところがあります。テレビ時代劇では清水次郎長とかがヒーローだった時代もございます。今ならコンプライアンス違反よね。
時代劇に限りませんが、松本清張や有吉佐和子先生は後ろ暗い犯罪を犯してでも必死に戦後を生きのびる人々を描きました。闇市などで腹を満たし、法を破ってでも生きのびなければならなかった当時の世相がそういったドラマや小説を生んだのです。ただ強靱な生命力を持つ人たちは虚無も抱えていました。石原慎太郎先生などはそういった作家様のお一人だと思うわ。戦後マチョイズムの作家と思われていますけど、小説の主人公は案外女々しいのよ。早く死にたがってるところがありますわ。その社会的反転がマチョイズム。慎太郎先生がいくら批判されようと確乎たる支持層をお持ちになっていたのは、その構造を感覚的に理解できる戦後世代がいらっしゃったからだと思うわ。
昭和四十年代のお殿様は「よきにはからえ殿様」でしたわね。要するにトップはボンクラでいいってこと。なぜなら今と同じように政治はガタガタしてましたけど、世は高度経済成長で人々は生活を豊かにすることに必死だったからです。強力な指導者はいなくてもいい時代ってことね。テレビドラマでは銭形平次や大岡越前の時代かしら。大犯罪ではなく小悪党を懲らしめるくらいでみんな胸がスッキリしていたのよ。時代小説の大作家、『龍馬がゆく』の司馬遼太郎先生は坂本龍馬を主人公に戦後社会が向かうべき理想を描き出した作家様です。新しい秩序建設の力を龍馬に重ね合わせたわけ。
いずれにせよ優れた時代小説って、現代社会を舞台にすると描きにくいある時代本質を表現していると思います。そうでなきゃ本当の意味で時代小説にスポットライトが当たることはないと思いますわ。大奥の女と男が入れ替わるとかは発想は面白くて上っ面のフェミニズムの風潮にも合ってるかもしれないけど、誰が見たって賞味期限せいぜい数年でしょ。楽しくて面白いだけじゃダメなのよ。
じゃ時代小説で現代社会の本質をどう描けばいいのかってことになりますわね。それはまあ作家様がお考えになればいいことですけど、現代社会が物質主義に大きく傾いているのは確かね。お金があればユーチューバーだろうとホストだろうとメディアの寵児になれる時代よ。運だけでなく努力も必要ですけど、仮想通貨などである日突然ビックリするようなお金持ちになれる時代でもあります。
それでいいのかと言えば、いいとも悪いとも言えないわね。なぜ灰色の対応になってしまうかというと新しい秩序のようなものが世の中に見当たらないから。とりあえず目に見えて手で掴めるお金や権力を持っている人が偉い。成金のような社会的成功者を批判しながら、自分だってそうなれればいいなという風潮が蔓延していますわ。
ただこの曲がり角としか思えない現代社会の精神状況(風潮)に異議を唱える、あるいはそこに新たな秩序を模索できるのは小説しかないのかな、とも思いますわ。なんらかの形でドンピシャでそのマトを射貫けば長く読み継がれる傑作が生まれるんじゃないかしら。そういったお作品を生み出せなければ時代小説だから本が売れる、多くの人に読まれるってことはもうないと思いますわ。
大衆小説だから面白ければいいというのはちょっとどうかしらって思っちゃうわね。それなら確実にマンガに負けるわよ。いや、今は売れっ子マンガ家の方が優秀で思想を持っているって言えるんじゃないかしら。小説が復権するためには最低でもマンガ家と同じくらい、あるいはそれ以上の強い思想が必要ね。今は小説批評は絶滅に近づいていますけどマンガ批評は盛んよ。なぜかって考えてみた方がいいわね。
いつの時代でも時代小説は大衆小説の王様ですけど、純文学にも劣らない思想のある作品(作家)がなければ時代小説界は金輪際盛りあがらないわね。思想のある時代小説を読みたいわね。アテクシ、古い人間で小説好きですから新たな時代小説に期待しますわ。
「赤羽は『狐狗狸さま』を知っているかね」
酒席の話題がひととおり出つくした頃、仮名垣が訊いてきた。
「こくりさま? 誰ですかそれは」
「ふん、どうやら知らないようだな。藤岡さんは、いかがでしょう」
「知っております。まだしたことはありませんが」
「新聞記者のほうが流行りに疎いとはなあ」
じろりと萬二郎に視線を向けたまま仮名垣は話を続けた。
「今年、下田にアメリカ船が漂着したことがあったろ? 上陸した船員の一人が、地元の人々に教えたのが『狐狗狸さま』の始まりだ。下田でまたたく間に広まって、最近東京の花柳界に伝わってきた。『ともゑ新聞』がいち早く知らせているんだがな。読んでないか」
出崎哲弥「装束ゑの木」
出崎哲弥さんの「装束ゑの木」は明治十七年のお話。主人公は赤羽満二郎で新聞記者。会社は別ですが同じく新聞記者の仮名垣に呼ばれて酒席でこっくりさんを試すことから物語が始まります。新聞というジャーナリズムを背景に、こっくりさんという時代不安の象徴のようなオカルト遊びが織り交ぜられています。ただし小説はちょっとビターな人情モノ。オール讀物様好みのお作品でございます。
佐藤知恵子
■ 金魚屋の本 ■
■ 金魚屋 BOOK SHOP ■
■ 金魚屋 BOOK Café ■