今号には誉田哲也先生の「レイン」が掲載されています。警察推理モノがお得意の作家様よ。短編で軽いタッチで書いておられますけどじゅうぶん誉田先生のお作品として楽しめますわ。
「失礼ですが、本部の佐島主任、でしょうか」
公安部の、などと口にしなかったところは褒めてやろう。
「はい、私が佐島です」
「ご足労いただき、申し訳ないです」
男が名刺を差し出してくる。
【警視庁刑事部捜査第一課 殺人犯捜査第四課 警部補 森垣准一】
佐島とは全くの同格というわけだ。
森垣は、佐島が名刺入れを出す間もなく「どうぞ」と手で示した。
誉田哲也「レイン」
「レイン」の主人公は佐島賢太で警察庁公安部所属の警察官です。仕事は日本国内で暗躍するスパイたちの監視。諜報活動に従事しているわけですがエリートではありません。警官採用試験に合格した後に交番勤務から始めたという叩き上げです。移動で警備課公安係に配置になったのを皮切りに情報収集活動に従事するようになり、警視庁本部の公安課に席を置くようになったのでした。
巡査部長試験に合格して本部から所轄署に異動になりましたが、しばらくしてまた本部に呼び戻されました。今度は日本国内の反政府組織の内偵ではなく外事二課アジア第二係で、主に中国人スパイを監視する仕事です。本部に呼び戻されたことから佐島が優秀な警官だということがわかります。また役職で登場人物たちの地位や役割を示す緻密な取材が誉田先生のお作品の魅力でございます。
「矢代愛美が、どういう手を使って俺のいる開発チームに入ってきたのかは、俺にも分からない」
警視庁であれば、警部以上の人事は警務部人事第一課、警部以下は人事第二課の所掌になるが、むろんそれは、一般企業には当てはまらない。
「矢代愛美が、人事部に何かしら働きかけたんじゃないかと、疑ってるのか」
「ウチの場合、正確には『人事総務部』だがな・・・・・・俺はむしろ、逆だと思ってる。彼女が望んだというよりは、彼女俺の下に入れようという、何者かの意思が働いた。そう考えた方が自然だ」
「人事総務部に、中国のスパイが入り込んでるってことか」
「あり得ない話じゃない。それこそ好みの女を抱かせて、証拠写真でも撮ってチラつかせれば、あの手の事務屋を手懐けるなんてワケないだろう、連中にしてみれば」
同
佐島は上司の命令で大崎警察署に向かいます。大崎警察署に大学時代の友人・稲澤敏生が矢代愛美の殺人容疑で勾留されているというのです。公安の仕事とは無関係ですが稲澤が口を割らず、警察官になっている旧友の佐島になら話すと言い張っているので呼ばれたのでした。大学を卒業して以来の奇妙な再会でした。
稲澤は大手ハイテクメーカーで世界中の通貨を扱う決済システムを開発していました。あるとき稲澤のチームに矢代愛美が加わります。稲澤は驚きます。愛美は学生時代の恋人・岸本綾に瓜二つだったのです。
稲澤は愛美に惹かれますが、大規模なシステム開発担当者であり機密漏洩にも敏感でした。稲澤は愛美に疑念を抱きます。綾に似すぎている。飲み会などで自分に接近しようとする行動も不自然です。稲澤は偶然愛美が中国語らしき言葉でスマホで話しているのを耳にします。稲澤が開発しているシステムは世界中の通貨を扱いますが不安定な人民元は除外していました。中国には絶対に渡してはいけない技術です。愛美は中国の産業スパイではないのか・・・。その確証が得られないうちに愛美は突然殺されて川に遺棄されたのでした。殺されたと推定される日時に防犯カメラに稲澤と覚しき男と愛美が映っており、遺体が遺棄された川沿いに稲澤の家があるのが逮捕理由でした。
スリリングな展開ですわね。どう物語が転ぶのかワクワクしちゃいます。愛美が中国のスパイだというのは稲澤の妄想で、でも彼女は何らかの意図を持って稲澤の会社にもぐりこんで殺されたというお話や、やはり稲沢が殺人犯で愛美殺人には産業スパイ以外の理由があった、あるいは稲沢は無実だけど愛美の死は佐島が抱えているスパイ組織捜査と繋がりがあった、などなど物語展開は自在よね。でもお作品は意外な方向に進みます。
夕方の五時頃。ふらりと現れた稲澤を、佐島は無言で殴りつけた。止めに入った店長を払い除け、客用の椅子を投げて窓ガラスを割った。最後は馬乗りになり、人相が変わるまで稲澤を殴りつけた。不幸中の幸いというべきは、そのとき店内にいた客に怪我がなかったことだ。佐島はそんな配慮や手加減などしていないから、それは幸運以外の何物でもない。
同
佐島と稲澤の過去が明らかになります。二人はバイト仲間でしたが稲澤は綾と付き合っていました。稲澤はバイクに乗っていましたがスポーツカーに追突されてしまいます。稲澤は軽症でしたが綾は亡くなってしまう。稲澤のバイクに過失があったわけではないので、事故後にバイト先に現れた稲澤を佐島が「人相が変わるまで」殴ったのは綾に惚れていたからです。バイクに綾を乗せた稲澤に責任がある、ということですね。
この学生時代の因縁がどう物語として展開するのかは実際にお作品をお読みになってお楽しみください。ただ佐島が大崎署に呼ばれて稲澤と話すシーンでは、綾は単に稲澤の昔の恋人に瓜二つというだけで〝事故死した〟という説明がありません。緻密な小説をお書きになる誉田先生としてはちょっと唐突ね。言いにくいけど後出しっぽいわねぇ。
こんな国で諜報活動に従事していると、他の国ではあり得ない苦行を強いられることになる。何しろ、日本にはスパイを取締る法律がないのだ。あるのは俗に「特定秘密保護法」と呼ばれる、情報を洩らした日本人を罰する法律だけだ。特殊詐欺に喩えるなら――これはあくまでも喩えだが、ATMから現金を引き出した「出し子」は逮捕されるが、犯行計画全体を取り仕切り、その「出し子」から現金を回収した元締めは罪に問われない、というのと同じ話だ。
そんな馬鹿な、と誰もが思うだろう。そんな法律しかなかったら、特殊詐欺なんて撲滅できるわけがない、と分かるだろう。その通りだ。「特定秘密保護法」みたいな「ザル法」しかないから、いつまで経っても日本は「スパイ天国」と嗤われ、他国のカモにされ続けるのだ。
同
お作品はスケールの大きな構えで始まります。主人公の佐島は公安職員として日本の現状を憂いています。自分の職業に誇りがあるわけですね。またこういった社会性は男性作家様ならではのものだと思います。
ただ最初の構えの大きさが最後まで活きていないような感じがしますわねぇ。でも「レイン」は短編でございます。謎解き推理モノとしてじゅうぶん楽しめます。作家様がご自身の社会性を直接的にお作品で表現すると、それはそれで各方面から批判が飛んでくる世の中でございます。そういった矢面に立つお作品は長編でお書きになると思いますわ。
佐藤知恵子
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