小説は世相の影響を受けるものですわ。大震災の後には震災や原発モノが増え、最近ではコロナを背景にしたお作品がおおございます。小説にとっては当然のことよね。ちょっと乱暴な言い方になりますが、小説というものは売れなければ、多くの人に読まれなければ面白くない表現だと思いますの。作家様がリアルタイムの現代から題材を拾って、その本質みたいなものをお作品で表現するから読者を惹きつけるのですわ。
もち時代の本質を表現するのは詩も同じね。でも小説は設定が俗です。いわゆる大衆の無意識の言語化が小説の基本です。だから俗をさらっただけで終わると大衆小説で、俗から時代本質(抽象観念)に抜けていれば文学制度的に大衆小説に分類されても純文学だと思います。ただ的確に小説素材すら拾えていなければ、そりゃ売れないわよ。
そういう意味では売れない、読まれない小説はちょっと問題アリね。純文学では芥川賞を受賞すれば当該作はある程度売れますけど、それって文学制度におんぶにだっこよね。本当の勝負はその後です。アテクシ明治以降の古典小説も読みますけどたいてい面白いの。まず俗なストーリー展開として面白いわ。小難しそうな純文学前衛小説ってたいていは中途半端なジョイスですから、よほど革新的作品は別として小説の基本は面白くてかつ純文学的要素があると考えた方が正しいと思います。松本清張や有吉佐和子先生らのお作品(全部ではないですが)の方がよほど純文学だと思いますわ。
でも大震災や原発モノ、コロナが作品背景となった優れた作品は少ないわねぇ。自然現象(コロナも一応そうね)を世相に据えても弱いのよ。小説では最大のウェイトが人間心理・行動変化に置かれています。それを自然現象と不即不離の関係にして描くのがむつかしいのよ。ほかのトリガーでも起こりそうって感じちゃうの。やっぱ人為的トリガーの方が小説テーマにピタリと合いますわ。
光と、視線が眩しい。
こちらを見る目、目、目。今日の参加者は三十名ほど。初めての参加者もいるし、常連もいる。百人近い応募があった中から、選びに選んで紡が当選通知を送ったメンバーだ。
大勢の瞳の圧を前にして、自然と背筋が伸びる。今日のために新調したシフォン素材のワンピースの裾が揺れる。紡が声を張った。
「今日はお集まりいただいて、ありがとうございます。非公式の会ですから、皆さん、どうぞ気楽に過ごしてくださいね」
辻村深月「あの人のサロン詐欺」
辻村深月先生の「あの人のサロン詐欺」の主人公は紡という女性です。紡はマンガの専門学校を出ましたが作家になれなかったのはもちろん、業界に就職したわけでもありません。親と同居しながら時々アルバイトをしていた女の子です。
紡は専門学校時代からマンガ原作者の谷嵜レオの大ファンでした。「この人、私の生まれ変わりだと思う」と考えるほどの熱狂的ファンなのですね。紡は作品を熟読するだけでなくありとあらゆる谷嵜関連の情報を集め調べます。谷嵜はまったく私生活を公にしない人でした。性別や顔写真、年齢、経歴なども不明です。
紡はほんの軽い気持ちでSNSに谷嵜マンガの感想を書き込みました。熱狂的ファンならではのディープな書き込みです。「ひょっとして、谷嵜先生ご本人ではないですか」というリプが紡の心を揺さぶります。紡はいつしか谷嵜本人になりすまして言葉を発信するようになり、ついにはオンラインサロンを開いてオフ会まで開くようになったのでした。
辻村先生がお作品の背景にしておられるのはいまだサブカルと呼ばれますが、実質的には今や日本文化のメインカルチャーとなったマンガの世界です。また紡と谷嵜をつなぐのは現代社会の基本インフラであるSNSです。谷嵜に関する身近な情報やコンタクトを求めるファンたちの願望が紡のSNSによってかなえられる。小説背景が現代社会と密接に関係しています。ただし「あの人のサロン詐欺」は小説でありマンガとは表現の質が違います。
「光と、視線が眩しい」というお作品の書き出しは辻村先生ならではですわ。紡は谷嵜を騙ってオンラインサロンを開き大胆にもオフ会まで開催します。しかしお金儲けの詐欺ではありません。紡の詐称の動機は純粋です。「あの人のサロン詐欺」で描かれているのは非常に微妙な人間の心の空白です。
「あんたも、名前だけは『紡』なんて、物作りに向いていそうな名前だったのにね」
頭が――沸騰するかと思った。あまりに、無神経で。無神経すぎて、人が人に向けて言えることとは到底思えない。
「違うじゃん」
震える声が、出た。
「お母さん、私の名前、そんなつもりでつけてないでしょ? 平凡に結婚して子どもを産んで、命を紡いでいけるようにっていう、そんな由来だったでしょ? 昔からそう言ってたじゃない」
「あーあー、もう、わかったわよ。そんなにムキにならなくたっていいでしょ。だいたい平凡に結婚って、あなた、その平凡ができてないじゃない。もう三十になるっていうのに、自分の子どもが結婚しない未来になるなんて、お母さん、想像もしていなかった」
我ながら――よくその場で母を殴り殺してしまわなかったものだと思う。
同
作家になりたい、ミュージシャンになりたいといった夢を多くの人が思春期に抱きます。自我意識の強い現代人が普通の人生に飽き足らないのもよくあることです。紡もその一人と言ってしまえばそれまでですが、SNSがとてもささやかな――だけど犯罪と言われても仕方のない方法で紡の夢をかなえてくれます。しかし何の努力もせずにではありません。
気がつけば取り返しがつかないほど深入りしてしまった詐欺ですが、谷嵜作品を深く理解している紡はサロンやオフ会に全力を注いでいます。オフ会に集まるのは熱狂的谷嵜ファンでマンガ家志望が多い。紡は彼らの原稿を精読して的確なアドバイスを与えます。谷嵜としてオフ会でちやほやされることは快感ですが、会員たちの作品に真摯に向き合うことも紡の大きな充実感になっているのです。
もちろん事件は起きます。当然紡の谷嵜レオ詐称は露見します。意外な形で。
「キミ――、ものすごく『オレ』なんだもん。谷嵜レオだったらこう言う、谷嵜レオだったらきっとこうする、みたいな、きっと世の中が思ってるであろう『オレ』を調べまくって、もう、この子、本当にそうなんだって呆れて、でも、すごいなって、感動した」
「・・・・・・バカにしてます?」
「ちょっとだけ。でも、感動したのも本当だよ。あと、あの創作講座」
名前が出て、紡が息を呑む。
「あれ、めっちゃガチにやってるから、この人、どれだけこれに命賭けてるんだろうってちょっと、引いた。引いたけど、でも、あれは、読んでもらえた人たち、嬉しいよ。その人たちとすごくいい関係ができてるのもわかって、それを本物だからって理由でオレがどうこうするのはちょっともう、無理だなって思った。(後略)」
息が――止まる。
鳥肌が立ったのは、紡の方だ。谷嵜レオが、今、目の前でそう言っている。紡の言葉を、紡の話した作品への解釈を認めてくれた。頬が熱くなる。
同
谷嵜は下着窃盗容疑で逮捕されます。有名人ですから本名も顔も公開されマンガの連載は中止になります。それにSNS社会です。紡はネットで谷嵜が住んでいたアパートの写真を見ます。お金持ちのはずなのにボロアパートに住んでいて紡の家から自転車で三十分ほどの場所でした。しかも紡は一度だけ谷嵜に会っていた。谷嵜は偽名で紡のオンラインサロンに出席し質問をしていたのです。紡はアパートに行きます。軽犯罪なので谷嵜は保釈されていました。紡は谷嵜の部屋で彼と対峙します。
紡と谷嵜がどういう会話を交わし、その結末がどうなるのかはお作品を読んでお確かめください。ただ谷嵜はサロン詐欺を働いていた紡を責めません。それどころか「キミ――、ものすごく『オレ』なんだもん」と言います。紡の方がよほど自分らしいと言うのです。またどうして下着を盗んだのかと問い質した紡に「あんまり理由なんて、ないんだ」と言います。
紡は谷嵜の言葉を理解します。「ヒーローがヒーローでいることに理由はない。犯罪もまた、背景なんてない時もあるのだろう。あまりに短絡的で呆れてしまうし、悲しいけれど、人はそういう割に合わないことをなぜかやってしまう。自分があの谷嵜レオであるかどうかなんて関係なく」とある。紡は谷嵜マンガの「ヒーローがヒーローでいることに理由はない」というセリフに雷に打たれるように感動して熱狂的ファンになったのでした。
ヒーローがヒーローであることにも犯罪を犯したことにも「あんまり理由なんて、ないんだ」と言う谷嵜の言葉は現代社会のある本質を衝いています。それはもちろんサロン詐欺を働いた紡の心理でもあります。自信に満ち溢れた社会的成功者もいますが、谷嵜や紡は自分の行為によって一定の成果を上げても足元に心もとない空虚が広がっていると感じています。その拠り所のなさ、基盤の薄弱さは恐らく現代社会ならではのものです。それを軽く楽しく読めるお作品で表現なさる辻村先生、さすがです。
佐藤知恵子
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