アテクシの小説批評では女性作家を取り上げることが多いですが、それはアテクシが女だからぢゃござんせん。まーはっきり言えば多くの男性作家のお作品に魅力がないからです。男と女が違うかといえば、そりゃ違うんですよ。先天的なものと後天的なものをぜーんぶひっくるめて違うわけ。それを違わないとかぐっちゃぐちゃ言うのはいわゆるキャリアウーマンでフェミニストでもあるアテクシはだーいっ嫌いです。どっちの性に生まれても人生辛い。大変でござんす。すんごい普通の言い方になりますが、どっちの性でもうまくやってゆくしかありません。ただこの〝うまく〟が曲者で山あり谷ありですわ。女だから、男だから山は高くて谷が深いなんてことは金輪際ございません。人間、性差を含めて持ってるものはぜーんぶ使わなきゃちょっとした段差でも躓くわよ。
別に宣伝しているわけぢゃござんせが、アテクシの愛読書に金魚屋から刊行されている小原眞紀子さんの『文学とセクシュアリティ――現代に読む『源氏物語』』があります。詳細な『源氏物語』論ですが優れた小説論でもあります。その中で小原さんは実にスッキリと小説の構造を説明しておられます。読んだ方にはもうおなじみですがテキスト曲線です。
テキスト曲線は単純なX軸(横座標)とY軸(縦座標)から構成されます。小原さんはX軸を女性性に、Y軸を男性性に設定しておられます。ただし男性・女性という現実の性差では必ずしもありません。性別が男でも女でもその精神世界に男性性と女性性を有しているというのが小原さんの考えです。これは当然ですよね。小説を例にすれば内面に男性性・女性性を両方持っていなければ男性作家は女主人公の小説は書けないわけですし逆もまた真です。
小原さんはまたこの女性性(X軸・横座標)と男性性(Y軸・縦座標)を海と山で表象しておられます。女性性が海で表象されるのは古くから馴染み深いわけですが、それはなぜなのか、どういった意味があるのかを明らかにしたのが『文学とセクシュアリティ』の見せ場です。
簡単に言えば海=女性性(X軸・横座標)は人間の根源的生命力です。たとえば『源氏物語』では一時失脚した光源氏が海に向かいます。有名な『須磨』『明石』の巻です。ここで光は嵐に遭い運命的女性と巡り会い、中央政界への復帰の足がかりを得ます。
では山で表象される男性性(Y軸・縦座標)がなにを意味するのかといえば社会性です。正装した光源氏が属している現世の権力社会ですね。光は『須磨』『明石』隠棲の後に出世階段を頂点まで駆け上るわけですが、なぜ彼が女性たちに愛されたのか(光をアホなスケベ男だというよくある解釈は論外です)といえば、男性性(Y軸・縦座標)を支える基盤が女性性(X軸・横座標)にあることを知っていたからです。
光が愛した女性たちは無垢な精神を持っている場合が多い。美人ではないとはっきり書かれている末摘花を光は最後まで手放さず、身分は高いけれど、いや身分が高いゆえにその志向が男性性(Y軸・縦座標)に向かってしまう六条御息所の元に通う足が遠ざかることからもそれがわかります。貴婦人の六条御息所を袖にして光が通い詰めたのは身分の低い夕顔の元でした。女は無垢な方がいいという解釈ではありません。女性性に表象される海が無垢を含み、それが現世では動かし難いように見える社会性(男性性)を根底から揺るがし崩壊させ、その逆に新たな堅固な社会性の基盤にもなり得るということです。
この、小説には必須といっていい男性性(Y軸・縦座標)と女性性(X軸・横座標)が今から千年以上前に書かれた女性作家・紫式部による『源氏物語』で鮮やかに表現されていることを読み解いたのが『文学とセクシュアリティ』の最も優れた点です。この小説=物語構造は恐らく今後も変わらない。社会的に男女平等であるのは当然ですが賃金や権利は人間(男女)存在のほんの一部に過ぎない。
古典中の古典小説である『源氏物語』で表現されている小説=物語構造は小原さんが論じておられるとおり、マゾヒズムの作家と言われる谷崎潤一郎や戦後を代表する松本清張や有吉佐和子文学にも確実に指摘できます。文学で傑作を書いた作家たちは無意識的にであれ小原さんの言う「テキスト曲線」――つまり男性性と女性性をしっかりその内面で捉えていた。
で、最初の方に戻れば現代ではなぜ優れた小説を書く作家に女性が多くて男性作家の作品に魅力がないのか。まず消去法的な面があります。現代では社会性である男性性(Y軸・縦座標)をハッキリ捉えにくくなっています。従来通りの男らしさを表現しても簡単に相対化されてしまう。権力・権威や社会的使命といった観念もまた掲げにくい。つまり天(縦軸)まで昇るような男性的観念軸を立てるのが非常にむつかしい。
それに対して根源的生命力、海を表象する女性性(X軸・横座標)は不変です。天に向かう観念軸がつかみにくくなっているため根源的生命力を表象する女性性が目立って見えるということがある。そのため男性作家でも料理や介護などかつての女性作家の独断場を活用しようとすることもしばしばです。しかしそれがうまくはまったためしがない。
まあ身も蓋もない言い方になりますが、性別女性の女性作家の方が根源的生命力=海を表象する女性性(X軸・横座標)と相性がいいのは当然です。必然的に現代では女性作家の方が勢いがある(優れた小説を書いている)ことになる。しかしそこに留まっていたのでは世界の半分しか捉えられません。理想的小説は小原さんの言う「テキスト曲線」を大胆に往還しているものです。
江國香織さんや井上荒野さんなど、根源的生命力である女性性(X軸・横座標)をベースに力強く観念軸=男性性(Y軸・縦座標)を立てている女性作家はいらっしゃいます。でも十八番であるはずの観念軸が立たず女性性にもイマイチ理解がない男性作家は元気がない。しかし東山彰良先生は数少ない勢いと力のある男性作家様です。
東山先生を上手い作家、優れた作家だと言っても何をいまさらという気がします。盤石の流行作家様でもいらっしゃいます。ただ今号掲載の「わたしはわたしで」というお作品は傑作です。かなりの傑作と言っていいと思います。
小説というものは、たとえそれがどんなに明るく健全で前向きな内容であっても、ドス黒い感情なくしては生まれ得ないのだということをわたしは知った。いや、大学のころから頭では知っていた。けれど細胞レベルで得心したのは、このときがはじめてだった。
矢次の眉間に銃弾を撃ち込むつもりで句読点を打つ。あの面接官の喉笛を掻き切るつもりで改行する。矢次の素首を叩き落とすべく、疑問符を死神の大鎌みたいになぎ払う。あの面接官を撲殺するために、感嘆符を棍棒のようにふり下ろす。女を女とも思わないやつらをひとまとめに誅殺すべく、わたしの十本の指はキーボードの上を跳梁跋扈した。
書きはじめて二週間と経たないうちに、自分が造り変えられていく感覚を味わった。完全変態する虫がサナギの中で一度ドロドロに溶けなければならないように、わたしはわたしが書こうとしている物語のなかへと溶け出していった。それから真新しい覚悟のようなものが、七色に輝く翅をまとって殻を破って出てきた。本当にほしいものを捨て身でもぎ取ってくる覚悟、そのためなら野垂れ死にもやむなしという陶酔・・・・・・。
それまで気づきもしなかった自分の本心や欺瞞が、怒れるマグマみたいに噴出した。めくるめくような体験だった。夜通し書きつづけて、気がつけばカーテンの隙間から朝陽が射しこんでいたこともある。寝食も忘れてひたすら書いていたので、夏を待たずして増えた体重がもとに戻っただけでなく、生理不順を引き起こすほど減ってしまった。
東山彰良「わたしはわたしで」
東山先生の「わたしはわたしで」の主人公は女性です。コロナの影響で勤めていた会社が倒産し、不倫していた彼と別れたばかりのさえない女性です。その内面描写は流れるようにスムーズです。東山先生は的確に女性性を我が物となさっています。一方でこのお作品には見事な観念軸が立っています。引用の主人公が小説を書くことで変わってゆく描写です。「わたしはわたしで」は作家による自己言及的小説です。
なぜ主人公が小説を書きはじめたのかといえば、大学で文学部に在籍していていつか小説を書いてみようと思っていたから、コロナでヒマだったからとさしたる覚悟はありません。つまり純文学的な深刻そうな動機とは無縁です。しかし私生活で追い詰められた主人公は小説を書くことで「本当にほしいものを捨て身でもぎ取ってくる覚悟、そのためなら野垂れ死にもやむなしという陶酔」を得ます。
身も蓋もない言い方になりますが文学は弱者のものです。人間の弱さを描き出す言語芸術だと言ってもいい。しかしそれが現世権力とは質の違うとても強い力に反転しなければ文学の存在意義はない。ぐたぐたと社会へのルサンチマンを垂れ流す小説は小説の名に値しない。東山先生の「わたしはわたしで」には小説とは何か、小説を書くことが作家にとってどんな意味があるのか、それを社会に向けて発表することにどんな意義があるのかが表現されています。
目立たないかもしれませんがこういったお作品は貴重です。作家を志しておられる方に是非読んでいただきたい小説ですね。一字一句を紙やワープロに転写してもいいかもしれません。男性作家が作品世界に没入して女性の内面を描く機微、読者を飽きさせないプロットの工夫(深刻そうで面白くないのが純文学だという通念は本当に本当に馬鹿げています)、最初から最後まで小説世界を天から統御している観念の存在が肉体的にわかるはずです。傑作ですね。
佐藤知恵子
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