今月の特集は「ずっとこわいはなし」ですわ。前にも書きましたけど、怖いお話ってなかなかむつかしいのよねぇ。要はオチがいまひとつ決まらないわけ。幽霊とか怪物に襲われるっていうお話はツカミOKですけど着地点がむずいのよ。リアルに書けば書くほどそんなもの存在しないっていう常識の部分が読者の頭の中で増えてゆくのよねぇ。
怖いお話ですぐ思いつくのは『学校の怪談』ね。いろんなパターンがありますけど、要になっているのはいわゆる共同幻想ですわ。みんながもしかしてそんなことだってある、あるいは気持ち悪い幽霊みたいなものがいるって信じれば、心のどこかでそれが存在感を増しちゃうわけ。龍や天女は現実世界には存在しないけど、わたしたちの心の中にはしっかり存在していて、言葉だけじゃなく姿形まで思い浮かべることができるのと似てますわ。
もちろん怖い話は心霊モノだけではなく、現実世界を舞台にしたリアル小説でも表現できます。ただじゅうぶん複雑な人間関係と登場人物の心理描写が必要ですから、『学校の怪談』のような短編はむつかしいわね。優れたサスペンス小説だってこわい物語として読めるわけですから。
「実はね、兄さんの霊が、私のところに出てくるの」
酒臭い息が鼻にかかり、思わず身を引いた。すぐには言葉が出ず、座卓の上に視線をさまよわせる。誰かのグラスの跡と思われる水滴の輪を布巾で拭うと、そうなの、とだけ答えて勝子の顔を見返した。
《兄さんの霊》――夫の霊を見たという勝子は、得意げに鼻の穴を膨らませている。そして、おかげで今日も寝不足なのよ、とわざとらしくため息をついた。
矢樹純「魂疫」
矢樹純先生は『夫の骨』で日本推理作家協会賞短編部門を受賞なさった作家様です。家族や血縁といった人間存在の基盤を踏まえ、それを深く抉ったお作品をお書きになります。
「魂疫」の主人公は芳枝で夫を大腸がんで亡くしました。芳枝は六十一歲、夫は十歲ほど年上で娘が一人いて東京で結婚していて子ども(孫)もいます。夫の一周忌を身内で行ったのですが最後まで夫の妹の勝子が家に居残ります。勝子は四十代の頃に離婚して夫の実家に一人住まいです。「際限なくビールをお代わりしながら居座り続ける五歳上の義理の妹の勝子に、帰ってほしいとは言えなかった」とありますから、その雰囲気が手に取るように伝わりますね。
芳枝は夫を亡くし娘夫婦は離れた東京で暮らしていて、仕事はしていますが寂しい境遇です。勝子の生活も寂しいわけですが質が違う。芳枝より勝子の方がいわば心の隙間が大きい。そこに《兄さんの霊》が入り込むのです。無駄のない展開ですわ。
「祖母も私と同じ見える人でね、寝る前によく色んな話をしてくれたのよ」(中略)
「亡くなった友達が家に訪ねてくる話とか、若い頃に列車に飛び込む人を見たって話とか、どれも凄く怖かったわ。あと、死んだ人の顔が変わってしまう話とか」
勝子は私が訪れるたびに自分が見たという話や義祖母から教わった怪談を聞かせてくるのだが、あまりまともに聞いていなかったので、内容はよく覚えていない。ただ、死人の顔が変わるという話は、妙に気味が悪くて記憶に残っていた。
「魂に障りが起こると、そうなるんだって。障りが出た魂を鬼が引っ張っていくから、そのせいで顔が変わるらしいの。私も芳枝さんも、気をつけなきゃね」
話の前半を聞き逃したのか、いつものように話が飛んだのか、その時にどうして勝子が脅すようなことを言ったのかが分からなかった。魂に障りが起こるとは、どういうことなのか。少し気にはなったが、わざわざ意味を聞こうとは思わなかった。
同
勝子は芳枝の夫の幽霊がしょっちゅう枕元に現れると言う。何か言いたげだ、伝えたいことがあるようだとも。同じような話を繰り返す勝子の様子に不審を抱いた芳枝が兄嫁に電話すると「やっぱり一度、病院で診てもらった方がいいわね」と言う。病院で診察を受けさせると軽度認知障害だと診断された。兄嫁は脳梗塞で倒れた夫(芳枝の夫の兄)の世話で手が離せないので週に二日ほど芳枝が勝子の家に様子を見に行くことになった。
さほど日頃から親しいわけではありませんが、親戚付き合いってこういうものですわね。ジェンダーうんぬんは別にして今のところ女性たちの独断場と言ってもいいかもしれません。男に高齢者の世話を頼んでもたいてい役に立ちませんからね。
常識的に考えれば勝子がしょっちゅう芳枝の亡き夫の霊について話すのは芳枝の関心を惹きたいためです。「魂に障りが起こる」という話もそう。人は亡くなればそれまでと考えるドライな人もいますが、たいていの善男善女は魂があるなら安らかに過ごして欲しいと願います。生きている間に魂に障りがあると成仏できないという話は遺族の心を揺さぶる。
害はないのですが、勝子のように平地に乱を起こして気を引こうとする人は親戚に一人くらいいますよね。何か起これば予言通り、何もなければ気をつけていたからということになる。占いなどと同じです。ただこの魂の障りがお作品の主題を形作ります。
「昨日ね、兄さんが来たの」
具合の悪い時に、またその話かと、こめかみを押さえる。勝子は私の様子など気にしていないふうで、早口で先を続けた。
「どうしよう、兄さんの顔、見ちゃったの。私、とんでもないことをしてしまった。あの薬が悪かったのよ。おばあちゃんも言ってたもの。人の体を使ったものは、良くないって。どんな人だか、分からないから」(中略)
「人の体を使ったって、どういう意味?」
勝子は言うのをためらうように目を伏せた。ややっあって、観念した様子で口を開く。
「――あれはね、材料は、人の胎盤なの」
同
これもよくあることですが、霊の話が好きな人は怪しげな漢方薬などに手を出したりします。勝子もその一人でした。そして芳枝は末期癌の夫に、藁にもすがる思いで勝子が勧めた薬を飲ませていた。自分でも飲み、勝子もまたその薬を飲んでいたのです。胎盤療法(胎盤エキスなど)はそれほど珍しくありませんが、勝子は「いい加減なメーカーだと、変なものを使っていることがあって、私が仕入れた会社も問題になったの。出産の時に死んだ母子の胎盤を使ったとか」と言ったのでした。
勝子は兄(芳枝の夫)の霊の顔をハッキリ見たと言います。その顔は恐ろしかった。魂に障りが起こって変わり果ててしまった顔だったと言うのです。芳枝は夫にそんな薬を飲ませていたことを深く後悔します。「あの頃、私は当たり前の判断ができなかった」「私はなんの効果もないものを夫に食べさせたり、飲ませたりといったことに力を尽くし、二人で過ごすことのできた大切な日々を台無しにした」とある。勝子が振りまいた真偽不明の共同幻想が深く芳枝の心に食い込むのです。
この部屋に一箇所だけ、人が隠れられる場所があったことに気づいた。
勝子の棺の中に、遺体とともに横たわるという方法で。
再び心臓が強く打ち始めた。棺の蓋は、ずれた様子もなくぴったりと閉じている。
自分の考えがおかしいということは分かっていた。狭い棺の中に、誰が遺体と一緒に隠れたりするものか。分かっているのに、棺に顔を近づけ、耳をすました。
誰かが潜んでいれば、息づかいが聞こえるかもしれない。だがなんの音も聞こえず、気配も感じなかった。棺の載せられた台の足元に目をやる。二人分の重みがかかれば、もっと畳は凹んでいるはずだが、そんな様子もない。
やはりそんなことはありえないのだと安堵する。そうして念のため、棺の蓋の覗き窓を開けた。
自分の見ているものがなんなのか、分からなかった。
同
芳枝がインフルエンザにかかって訪問できなかった間に勝子は心不全を起こして突然死してしまいます。芳枝が発見した時には死後三日ほど経っていました。しかも餌がなくなった飼い猫に太股のあたりを食べられていたのです。そんな形で突然死してしまった近親者を発見する方が幽霊話なんかよりよほど怖いですよね。
友だちのいない勝子のお通夜は寂しいものになりました。兄嫁は脳梗塞の夫がいるので「芳枝さん、何から何まで、本当にごめんなさいね」と詫びて帰ってしまいます。お通夜の夜伽をするのは芳枝一人です。
芳枝は深夜、家(夫と勝子の実家)の中で不審な物音がするのに気づきます。ケージに入れていたはずのネコ(勝子を食べたネコ)が逃げ出したのではないかと思い、布団から起き上がります。そして家の隅々まで調べます。ふと勝子の棺桶の中に誰かが隠れているのではないかという疑念が湧きます。そして棺の蓋を開け中を覗く。「自分の見ているものがなんなのか、分からなかった」とある。ううっ、怖いですねぇ。芳枝が何を見たのかは実際にお作品をお読みになってお楽しみください。
「魂疫」は三十枚くらいのお作品ですが、魂に障りがあると顔が変わるという何気ない話が、実際に幽霊になった夫の顔が恐ろしいものになっていたという勝子の話で畳みかけられます。そして勝子が持ちこんだ怪しげな薬。その薬を勝子も芳枝も飲んでいたわけですから勝子もまた魂に障りが生じた可能性がある。それだけでなく、生きている芳枝もいずれ・・・ということになります。
点が線になり、何気なくスリップされた出来事が重層化してゆく展開は見事です。日本語はアルファベットより便利なところがあって「魂疫」という漢字の姿形を見ただけでおどろおどろしいものを感じます。ただタイトル通りの怖い小説にはそうそうなりません。この小説で矢樹先生は文字通り魂(心)から魂(心)に伝播する疫病のような共同幻想を描いていらっしゃいます。
佐藤知恵子
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