江國香織先生の連載「ひとりでカサカサさしてゆく」が最終回です。うーん寂しいですわねぇ。江國先生は、特に女性読者から絶大な支持を集めておられる作家様だと思います。今日本で一番純粋読者が多い作家様のお一人だと思いますわ。アテクシ、文芸誌を乱読しますが江國先生の単行本出版が気になって気になって仕方ありませんもの。突き放したよう残酷さと、殺伐として冷たいはずのその残酷さが、なんとも表現しようのない満ち足りた抒情に変わるのが江國先生の小説の大きな魅力です。江國先生の世界観を心から信頼しているから読者がついてゆくのだと思います。
「クモ、嫌いなんじゃなかったっけ」
「家のなかではね。外ならいいよ、仕方ないじゃん、命だし」
海を見おろせる高台とか、ヤギのいる一角(柵ごしにエサをやることができ、妊娠して以来命に敏感になっているらしい妻は、これがことのほか気に入って、自動販売機で売っているエサの小袋を三回も買った)とかをぐるぐる歩き、行き合う親子連れを見る妻の視線に、ついこれまでと違うところを探してしまいながら、公園をでたときには夕方になっていた。
*
河合順一の店に行った日、翠は自分たち家族の立場や感情を、彼に(あるいは誰でもいいから誰かに)理解してもらいたいのだと思い込んでいたが、ほんとうはそうではなかったと、あのとき甘いソーダをのみながら気づいた。そうではなく、翠はただ許したかったのだ、父親のことも、自分のことも、あのソーダには、何のシロップが入っていると言っただろうか。訊いたのに、忘れてしまった。
江國香織「ひとりでカサカサさしてゆく」
「ひとりでカサカサさしてゆく」最終回は短編、というより7つの掌編小説から構成されています。本当に贅沢よね。最初の掌編は妊娠した妻と旅行にやってきた若い男の独白、次の掌編は脳神経科医院に通っている人妻のお話です。「河合順一の店に行った日」とありますが、その後の掌編に河合という人物は登場しません。「翠はただ許したかったのだ、父親のことも、自分のこと」とありますが、その理由も説明されることがない。波間に現れてすぐに消えてしまう岩のような感じです。もちろんこれら掌編がなんの繋がりもなく配置されているわけではありません。
女性フォトグラファーには趣味で楽器を演奏する人が多いのはなぜだろう、という話を完爾と勉がしている横で、たのしかったと知佐子は思う。たのしかったし、いい人生だったと。戦争中に生まれたのに、両親のお陰で比較的のんびりと――物質的な苦労はあたりまえだと思いながら――育つことができたし、善良な男性と結婚をした。(中略)妻としても母親としても、できるだけのことはしたのだ。自分もときどき驚くが、知佐子には孫も二人いる。会えずにいるにしても、知佐子と夫の血をひく子孫には違いなく、彼らはこれからも生きてくれるわけで、上出来だと知佐子は思う。あたしの人生は上出来だったと。
同
掌編小説の求心点は三編目の掌編です。戦争を体験したといいますから、もう老年になっている知佐子は昔なじみの完爾と勉という男友だちとホテルのバーにいます。そして人生の総括のように「あたしの人生は上出来だった」と思う。この知佐子と完爾、勉の掌編小説の周りに他の掌編小説が配置されているわけです。妊娠した妻を持つ若い男や脳神経科医院に通う人妻は、知佐子の近親者かそれに準ずる存在として仮構されていることになるでしょうね。
藍洙は、そばをすり抜けようとした息子の腕をつかんだ。この子はやさしい子だ。すくなくとも藍洙の目にはそう見えていた。自分も夫も上手に子育てをしていると思っていた。
「お母さんに謝っても仕方ないでしょ。その子に謝りなさい。それからクラスの子たちにも」
目を見て言いきかせたが、大輝の返事は、
「いやだ」
だった。
「気持ちの悪いやつなんだもん。ジゴウジトクだよ」
藍洙は二の句が継げなかった。
*
新学期が始まってからの一か月はばたばたといろいろなことが起り、思うように課題もこなせずストレスフルだったと葉月は思う。自室の掃除すらままならなかったので、部屋のあちこちに埃がふわふわ固まっている。一階の戸棚から掃除機をとってきた葉月は、それを作動させる前に、床に積んである本をすべてベッドの上に移動させた。そうしてしまったあとになって、先にシーツをひきはがして洗濯機に入れるべきだったと気づく。が、やり直すのは億劫だったので、とりあえずそのまま掃除機のスイッチを入れた。
同
四篇目の掌編は上手に子育てしてきたはずなのに、息子の大輝が学校でイジメを行っていると知ってショックを受ける母親の藍洙のお話です。五篇目は恐らくアメリカで留学生用のアパートメントに住んでいて、大家が大腿骨骨折で入院したのでなにかと大家や留学生仲間の世話を焼いている葉月が主人公です。年齢も置かれた状況もバラバラの主人公たちの掌編が紡がれながら、連作はじょじょに核心に近づいてゆきます。
若くない人間には二種類いるのだと、いつからか朗子は思うようになった。他人とのあいだには何が起きるかわからない、と考える人間と、他人とのあいだには何も起こるはずがないと考える人間の二種類で、おなじ場所にいても、前者同士にはすぐに見分けがつく。だからといって何も変わらないし、ただときどきこうしてその事実を確認し合うだけなのだが――。
同
六篇目の主人公は中年に差しかかった朗子です。「そうだった、と朗子は思いだしている。はじめての相手と寝るのは、こうも新鮮なことなのだった」とありますから恐らくaffairです。ただ後ろめたさはありません。人間には「他人とのあいだには何が起きるかわからない、と考える人間と、他人とのあいだには何も起こるはずがないと考える人間の二種類」がいて朗子は前者に属します。ただコトが起こっても「何も変わらない」。朗子はいつなんどき何が起こるかわからず、実際に起こったとしてもそれを淡々と受け入れる女性です。
「もうすぐ新年ね」
声をあかるくして知佐子が言った。
「どんな年になるのかしらね」
完爾はあの世というものの存在を信じていない。だからそれは無だと思う。新年も旧年もなく、自分たちにあるのはただ徹頭徹尾、無だ。
扉があき、三人は客室フロアを自分たちの部屋に向かって歩いていく。もうすぐ終ると完爾は思い、ホテルなんかひさしぶりだなと勉は思った。そして知佐子は男性二人をかわるがわる眺め、またしても、二人ともりゆうとしている、と思った。
同
七篇目は三篇目の知佐子と完爾と勉が主人公のお話に戻ります。「もうすぐ終る」とあるように、この三人は大晦日にホテルに泊まり、新年を迎えることなく死のうとしています。その理由も方法も書かれていません。ただ三人とも恐らく、達観とも諦念ともつかない感情で人生では何が起こるかわからないと考えています。それを経験し尽くして自ら実践します。
また死は「無」ですが孤独ではない。知佐子は男友だち(過去にaffairの関係にあったのかもしれません)を見て「またしても、二人ともりゆうとしている」と思う。しかし三編目の掌編に二人を「りゆうとしている」と思ったという記述はありません。それは小説を貫く一種の美意識の表れです。絶望がなければ死を選ばないわけですが、死の間際まで知佐子たちの生は華やかで生々しい。
惜しげもなく、流麗に物語を紡いでいるという意味で「ひとりでカサカサさしてゆく」は大衆小説と言えるかもしれません。しかしその骨格は純文学です。女の読者はうんと欲張りだから江國先生の小説が好きなのです。薄っぺらい大衆小説では満足できず、かといって作家のエゴの塊のような純文学小説は読みたくない。最良の女性作家たちを純文学作家と認めなければ、純文学ってどこにあるんだろうと思いますね。
佐藤知恵子
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