4月号には先頃お亡くなりになった石原慎太郎先生の「宿命」が掲載されています。先生がお亡くなりになられたのは2022年2月1日ですから、本当に最晩年のお作品でございますね。幻冬舎様では長編小説『弟』、そして没後に『「私」という男の生涯』などが刊行されています。比較的最近のことですが、幻冬舎様と縁故の深い作家様です。
石原先生は政治家でもありましたから、小説の読み方がどうしてもそちらの方に引っ張られてしまいますわ。それが間違っているのかというと、そーとも言えないのが難しいところよね。寺山修司は「職業寺山修司」と言いましたが、石原慎太郎先生にもそれは言えそうね。何をやっても「石原慎太郎」なのよ。
ただ日本人としては珍しいマチョイズムのお方だったのは確かだと思います。アメリカ男性が「chicken」という言葉に異様にとさかに来るのはよく知られていますが、日本男児のほとんどは「臆病者っ!」と罵られても、「そーかもしれないけどぉ」と反応することがおおござーます。石原先生は当然「なにぉぉ!」のタイプでござーます。「男は~」といった感じでござーます。
ただそれも額面通りに受けとれないところが石原先生の文学者たる所以です。弱みは見せませんけど、絶望というか虚無感は深い。三島由紀夫に似たところがあるように思いますわ。
世の中にはいくら望んでも叶わぬもの、望まなくとも襲いかかる出来事がある。事によれば、あくまでもそれに耐えて生き続けなくてはならぬ出来事もある。それは人生の不条理とも言えようが、それを背負い通すことそのものが、生きるということに他なるまい。それをこそ宿命と言うべきかもしれないが、俺たち二人きりの兄弟が与えられた仇討ちという避けられぬ厄介な仕事も俺たちの宿命だった。
石原慎太郎「宿命」
お作品の冒頭でございます。主人公は俺で兄が一人います。この兄と二人で父親の仇を討つ、仇討ちをするというストーリーの小説でございます。仇討ちにもいろいろな形がありますが、この兄弟の仇討ちは文字通り父親の仇の男を自分の手で殺すというものです。それは現代社会ではもちろん許されていません。しかし兄弟ともに「望まなくとも襲いかかる出来事」や「人生の不条理」にじっと耐える気がない。それを一生「背負い通す」気がない。ストレートに仇を討ちたいと願っています。
兄弟の父親は仕事上の縄張り争いで謀殺された。事故死ということになっていますが、どうやらライバル会社のヤクザ者が裏で糸を引いていたらしい。その証拠を掴み、その男を殺すまでの物語です。
「いいか、俺たちの仇討ちの相手はあくまで親父を殺したあの山形なんだぞ。頭がのぼせて相手を間違えると折角、叔父貴が立て直してくれたものが元も子もなくなるかもしれないんだ。
俺たちが親父やお袋に誓った仇討ちは、親父にああして手をかけたあの男をこの手で殺すということなんだ。そしてあいつの会社を潰してやる、それだけだ。それが俺たち二人に出来る世間への示しじゃないのか。それ以外の目に余るものに気をとられるな。まっしぐらにあの男を倒して恨みを晴らす、それだけを考えろよ。ただの仇討ちにしてもそれが世間への、この世の中への強い示しになるんだ。昔の戦争の時、何の未練も残さずに一途に死んでいった若者たちのようにな。
俺もかねて憧れ願っていた検事の仕事について腕をまくってし遂げたい仕事も山ほどあるし、お前も惚れた女が出来た。しかしそれもこれもあの時無残に殺された父親を二人して目の前にして、やがて死んでいったお袋に誓った仇討ちのためのことじゃないのか。俺はもし今ここであの男を刺し殺せたら何の未練もありはしない。お前もそうだろう、だから二人で何とかここまで来たんだ」
同
父親が謀殺されたのは兄弟が中学生の頃です。それから二十年が経っており、兄は司法試験に合格して検事の仕事に就いています。俺は半グレ集団に加わり、喧嘩した相手が死んでしまったので刑務所で一年の懲役刑になりました。ヤクザにはなっていませんが兄とは違う、正反対と言っていい生活を送っています。
ただし兄弟の絆は強い。俺は兄と定期的に連絡を取っており、会う度に仇の仇討ちの話になります。兄は検事としての特権を利用して父を殺した黒幕に当たりをつけ、俺がそれを調査するという役割分担です。仇討ちは兄弟が大人になって行われるわけです。そして兄と俺(弟)は、いわば社会的名士と裏街道をゆく者という色分けです。
俺は兄の情報で、父親を事故死させた男を突き止め、黒幕は誰だったのかを白状させます。俺はその男を殺しました。いよいよ本丸の仇討ち、ということになります。「昔の戦争の時、何の未練も残さずに一途に死んでいった若者たちのように」、ですね。
身を乗り出して言う相手に、
「それは断る」
「何故だ」
「俺にはもうこれ以上生きていく意味がないんだ。兄貴と二人して今夜のためにこそ堪えて何とか生きてきたんだ。あの兄貴が死んでしまった今、俺にはもう何の生き甲斐もありはしないんだ。生きるためにこの手で殺す相手もありはしない。脅す訳じゃないが、あんたらのためにも俺みたいな人間はここで殺してくれた方がいいんだ。どうか頼むから今ここで兄貴と一緒に殺してくれ。しなければ必ず後で祟るぜ」
言い切った俺を相手はまじまじ見直すと、
「なるほどよくわかった。ならば殺してやろう」
頷くと、脇で刀を持って控えた男にゆっくりと促してみせた。立ち上がった男の翳した刀に向かって俺は胸を開いて向き合った。その刀が胸を刺し通した時、苦痛などではなしに何か柔らかく温かいものが俺の全身を覆って包み込むような気がしていた。それは幼い頃、裸の俺を洗ってくれた親父の手の感触だった。薄れゆく意識の中で、俺は限りなく満足だった。
同
兄はピストルで仇を撃ち殺しますが、その場でライフルで撃たれ殺されてしまう。俺も刀で肩を切りつけられ大怪我を負います。ただし命に別状はない。仇の幹部が「お前ら兄弟二人してここまでよくやって男の筋を通したもんだ。(中略)それに惚れて見込んでの話だ。お前、一つ覚悟してその身をこの俺に預けてみないか」ともちかけます。しかし俺はそれを断り殺してくれと頼む。仇を討ち、兄が死んだ以上、「俺にはもう何の生き甲斐もありはしない」からです。俺は殺されます。刀で、というところも重要でしょうね。俺は昔の侍のように刀で胸を突き刺されて死ぬわけです。
んー、というお作品ですわね。当たり前の話ですが、新人中堅作家と、石原先生のように功成り名を遂げた大先生ではお作品の質も書き方も評価も違います。
「宿命」という作品は粗筋小説です。短編だからというわけではなく、先生は最低限の物語の肉付けをして、最初にお決めになった大団円(結末)に一直線に筆を運んでおられます。
その結末は死です。敵がいなければ生きている意味がない、兄が死んだのなら弟の自分も生きている意味がない、ということですわ。石原先生の生涯も家族関係もよく知られていますから、解釈しようとすれば幅が出ますわね。
ただ現世とは戦いの場であり、法や倫理に束縛されない自己の超倫理(あるいは思想)で行動し、敵がいなくなり同志がいなくなれば、もう生きている必要はない、とお考えになっているのは確かなようです。またその個の超倫理(思想)は死を持って贖うと表明されている。「宿命」という小説は、ちょっと石原先生の遺書めいているかもしれません。
佐藤知恵子
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