いま突然思い出しましたけど、ある出版社が自社出版の本を宣伝するために、都内大手書店でその本を大量に自社買いして、書店売上げランキングのトップに長い間君臨したという噂がありました。Twitterなんかで話題になって、アテクシの同僚がその話を持ち出したのですわ。
ほんでランチタイムの暇つぶしに同僚たちとこの件についてちょっと議論しましたのよ。同僚たちの意見は「それってけっこうコスパがいいよね」という結論でした。
本の広告は読売毎日朝日日経なんかに目立つスペースを買って載せるのが常道です。でもこれがけっこう高い。エリア限定か全国一律かによっても価格が違ってきます。そーとーに売れる見込みがあって広告費を回収できるという目算がなければなかなか広告を打つ気にならないでしょうね。
翻ってある本が10万部は固いと踏めるとする。それを11,12,13万部にしたい時にどうしたらいいか。全国紙一面広告なんかを打とうものなら利益を圧縮します。それはまぁ30万部くらい行った時に考えるとして、とりあえず数万部単位の増刷を考えるなら、書店パブリシティはかなりコスパがいい。
本は輸送費などの直接経費を入れても粗利だいたい50~60パーセントです。1000円の本を自社で買えば最大500円の赤字になるわけですが、毎月の書店売上げなんてたかが知れてますから、1000部買っても50万くらいの赤字。しかも商品は戻ってくるわけですからそれを全部売れば赤字解消になります。んで書店売上げランキングで話題になって1万部、2万部売れれば十分パブリシティ効果はあります。同僚たちの意見は「アリだね、けっこうイケるかも。古典的なやり方だけどね」という意見で統一されました。ビジネスとして考えればそうなりますわね。書店の売上げも上がるわけでWin-Winよね。
もちその版元が批判されたのは、文学や文芸書は神聖なもので、スポーツなんかと同じように爽やかな実力主義であるべきという考えがあるからかもしれませんわ。それはそれで一つの考え方ですから、そうお考えになる方は貫徹した方がよろしゅうございます。広告を打てば本が売れるかというとそうでもなくって、口コミでじわじわ売れる本だってございます。本は要は内容次第ですから、自信があるなら自力で活路を拓くのは立派なことです。版元が売るための努力をしてくれる作家はなんやかんや言って実績のある作家様ですから、それはそれ、と考えた方がよろしゅうございますわね。千円の本が10万部売れれば総額1億で、それが版元、作家、書店、印刷所、取次を潤します。本が売れる作家が優遇されるのは当然です。
で、アテクシ、噂の版元様が会社社長さんや有名ビジネスマン、尖端医療に携わるお医者さんなんかに啓蒙本やビジネス本の営業をかけていることも把握しております。ケースバイケースですけど、新聞なんかで広告する費用コミで600万くらいで自費出版で請け負っておられることもあります。これはこれで少部数の詩書なんかから続く自費出版のあり方なのよねぇ。自分の詩集を出して満足なさる作家様もいらっしゃるでしょうし、ビジネス本なんかが全国紙に広告されて、名前と顔が知れ渡ることがさらなるビジネスの発展につながるという方もいらっしゃいます。ここでもWin-Win。とやかく言うことではありませんわ。
ただ世の中は必ず経済と密接に連動していて、それは文学の世界も例外ではないということは知っておいた方がいいと思います。アテクシが大衆文学が好きなのはそのせいでもあるわね。一流の大衆作家の先生たちは世の中の仕組みを知っておられます。その上で、まあ言っちゃ悪いですけど、そーとーに頑張らなければ儲からない文学の世界で生きておられる。浮世離れには二通りあって、ホントに世間知らずか、世間を知り尽くしていてなおかつ浮世離れってケースがあります。後者の方が成熟していると思いますわ。
「知らない人なんだって」
「えっ」
「全然知らない人が、毎日お見舞いに来てるんだって」
そこまで言って、口を噤んだ。訝しげな目でカーテンの向こう、徳永さんのベッドがある方を見ている。(中略)
真っ先に思ったのは、彼の健康状態だった。それこそ私と同じくも膜下出血で、認知障害の後遺症が出ているなら、親族家族の顔が認識できていないことも有り得る。(中略)
「胃癌らしいよ」
妻は答えた。
「手術は上手くいったらしいんだけど、術後の経過が思わしくなくて、退院できないんだって。体調もずっと悪くて、微熱が下がらなくて、もう半年くらいいるみたい」(中略)
「じゃ、じゃあ何の話をしているんだよ、そんな毎日欠かさず。それにさ、普通知らない人ならアレじゃないか? どなたですかとか、何なんですかとか、それが無理ならナースコールで助けを呼べばいい」
「ずっと訳の分からないことを喋ってるって」
私は絶句した。
「聞いたとおりのことを言うね・・・・・・ヨシワラさんのオバサンが山で頭のおかしい人に摑まってドラム缶で茹で殺されて、その恨みのせいでイケダさんの娘さんは口が二つで生まれたとか、あとその辺のネズミを捕まえて、バス停でヨネヅさん?の血液と物々交換したとか・・・・・・ニコニコ楽しそうに、ずっと話してるらしいの」
妻の顔は青ざめていた。
澤村伊智「怖がらせ屋 見知らぬ人の」
今号は澤村伊智先生の連載小説「怖がらせ屋」が最終回です。主人公は私でくも膜下出血で入院中ですが、隣のベッドの徳永さんのところに毎日髪の長い若い女性が見舞いに来ます。女性から見舞い品のお菓子をもらったことから私は彼女に興味を持つ。妻に話すと彼女も興味津々です。お菓子のお礼に妻が徳永さんのベッドに行って話を聞いてくるのですが、なんと毎日知らない女性が見舞いに来て、わけのわからない話を楽しそうにして帰ってゆくのだというのです。キッチリしたホラー小説の設定でござーますわ。さすが。
ホラーでは人が死ぬのは最高の贅沢です。もうその登場人物(駒)は使えなくなるわけですから。作家が殺してしまうまでにその人物を魅力的に描いていればいるほど死は贅沢になります。ホラー映画の古典傑作『エクソシスト』でも経験豊かな郎神父と感受性豊かな若い神父さんが悪魔と闘って最後に死にますわね。なにかを背負って現世から去ってゆくから深く印象に刻まれるわけです。
一方で生きたまま恐怖が続くという結末もアリです。これも古典映画ですが『ローズマリーの赤ちゃん』などがそうです。実にイヤな終わり方をする。それが自分が、つまりは生きた人間が住んでいる実社会の不気味な本質とどこかで繋がっているように感じられるのです。映画を見た後に家に帰って、普段より戸締まりをしっかりして暗がりをやだなーとか思ったりしますよね。死によって恐怖が消えた映画より恐怖が続いている映画の方が怖いこともある。
つまりホラー小説は導入が命といった面があります。死に転がすか生に転がすか、お作品のまとめ方はだいたい二つに一つしかありません。また「ヨシワラさんのオバサンが山で頭のおかしい人に摑まってドラム缶で茹で殺されて、その恨みのせいでイケダさんの娘さんは口が二つで生まれたとか」のように、日本では『遠野物語』的な民間伝承、突飛ですがDNA的に馴染みのある怪異に落とすという手もある。
こういった落とし方をいくつ持っていて、その、まあどうしてもこうなっちゃうねというオチに至るまでに、どれだけ日常的な恐怖を演出できるのかがホラー小説の醍醐味だと思います。ホラー小説の短編連作はその意味で展示会のようなものです。家様にとっても読者にとっても、わかっちゃいるけど怖いアラカルトエンタメですわ。短編なら10本に3本くらい、つまり打率3割くらいで「うまいなー」「このテがあったか」と読者を唸らせるのがプロのホラー作家様ですわね。
佐藤知恵子
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