今号の目玉はなんと言っても東野圭吾先生の「迷宮の果てに」ですわ。言うまでもなく押しも押されぬ推理小説の流行作家様です。ホントなら新年号巻頭が相応しいように思うのですが、センセ、もしかしてお原稿が間に合わなかったのかしら。でもそんなのどーでもいいという出来映えですわ。まあモノが違いますわね。
「さて、どうするかね」先程までの無愛想な口調に戻った。
「あの、診断書ではどうなっているんでしょうか」
「診断書? ああ、いろいろと難しいことが書いてあったよ。ええと、どこへやったかな」灰谷は上着のポケットや鞄の中を探った後、大きな音をたてて舌打ちした。「くそっ、見つからないな。まあいい。とりあえず、今日の治療費を払ってもらいたいんだけどね」
「あ、はい。それはもちろん」大切な診断書をなぜ紛失したのだろうと疑問に思いながら、倉木は財布を出していた。「領収書はありますか」
「だから診断書と一緒に領収書も行方不明なんだ。捜しておくから、治療費を出してくれ。三万円ほどだ」
「三万円・・・・・・ですか」
「あんた、自動車保険には入ってるんだろ? どの道、金が戻ってくるんだからいいじゃないか」
「いえ、それが保険は使わないかもしれないので」
「そうなのか。だけどそんなこと、そっちの問題だ。こっちとしては治療費を払ってもらわないと困る。人身事故を起こしておいて、治療費を出し渋るなんて話、聞いたことがないね」
東野圭吾「迷宮の果てに」
東野先生の「迷宮の果てに」は、数えていませんが多分80から100枚くらいの中編です。でも複雑かつシンプルに物語が構成されています。もち殺人事件が起こるわけですが、それは今から約30年前、1990年代くらいの設定です。殺人のきっかけは倉木という真面目で人のいい会社員が、灰谷といううさん臭い、はっきり言えば粗暴な詐欺師と接触事故を起こしたことです。倉木は会社での仕事の絡みから保険を使いたくない。あっさりそれを見破った灰谷は足元を見てすぐに金を要求してきます。倉木は戸惑いながら、自分が加害者なのだからと言い聞かせてお金を払ってしまいます。
今では交通事故に加害者と被害者が顔をつきあわせることはまずありませんね。保険屋が間に入ればなおそうで、加害者に被害者に直接連絡を取らないよう言い聞かせられます。軽い接触事故などの場合はなおそうです。
1990年代はどうだったかな、などと考えるのは野暮な話で、この思いきりのよさ、枝葉をはしょったストレートな引き込み方に惚れ惚れしてしまいましたわ。時代小説でもそうですが、下手な作家ほど考証にこだわりたがる。でも読者はあんまりそんなこと気にしません。気になるとすれば物語の引き込み方が下手だからです。
灰谷の手口にまんまと乗ってしまう倉木のお人好しぶりは読者をハラハラさせます。よくないことが起こると予感させる。でも物語はそんなにストレートに進みません。東野先生、見事に読者の予想を裏切ってくださいます。
倉木は改めて灰谷を見下ろした。薄く瞼を開いているが、おそらくその目は何も見てはいないだろう。
すぐそばに包丁が落ちていた。べっとりと血が付いている。周囲をよく見ると、人が争ったような形跡があった。
遺体の脇を通って奥に進んだ時、コトリ、とベランダで物音がした。倉木はぎくりとして目を向けた。ガラス扉が開いている。
その向こうに人がいた。今まさに手すりを乗り越えようとしているところだった。(中略)
白石健介だった。先日会った時の温厚そうな顔が、険しく引き攣っていた。
見つめ合っていた時間がどれぐらいかはわからない。たぶんほんの短い間だったろう。その時間が過ぎた後、倉木は自分でも意外な行動に出ていた。
指紋が付かないように気をつけながら、ゆっくりとガラス扉を閉めた。さらに白石健介に向かって、小さく頷きかけた。大丈夫、ここは自分が何とかする、とばかりに――。
同
灰谷は殺されるわけですが、殺したのは倉木ではなく白石健介という大学生でした。白石は祖母が灰谷に騙されて大金を巻き上げられたので、それを取り戻そうと灰谷の事務所を訪問していたのです。倉木は灰谷の事務所で白石と会い、彼の祖母が騙されたという話を聞いて同情します。連絡先の交換もした。灰谷の正体がわかりかけてきた時期だったんですね。
倉木は白石が灰谷を殺した現場に行き逢ってしまったわけですが、「白石健介に向かって、小さく頷きかけた」。白石の気持ちは十分わかるので、逃がしてやったのです。指紋を拭き取るなどの証拠隠滅もしてやった。とっさのことですが、倉木は弱いのではなく、度外れて人のいい正義感だということがわかります。ところがこの温情が徒になる。
「安西知希の身柄は現在自宅で軟禁中だが、明日、そちらの署に移送する予定だ」
「聞いています。その後、送検ですね?」
「その前に捜査一課が会見を開く。少々騒ぎが大きくなると思うから、そのつもりで」
「それも聞いています。覚悟していますよ」
五代は茶を啜り、ほっと息を吐いてから中町を見た。
「殺害動機については聞いてるか?」
「聞きました。度肝を抜かれたっていうのは、ああいうのをいうんでしょうね。本当にびっくりしました。白石さんの方が大昔の事件の真犯人だったとはね。で、それを倉木被告人・・・・・・じゃなくて倉木氏が庇ってたってことだそうですね。ただ、そのへんの詳しい事情は知らないのですが」
同
倉木は白石を庇ってやったのですが予想外のことが起きます。福間という男が誤認逮捕されてしまったのです。福間も灰谷に騙されていました。白石が灰谷を殺す前に福間が灰谷の事務所で暴れたので彼の指紋だらけだったのが逮捕理由になりました。ですが誤認逮捕なら釈放される可能性があった。が、福間は拘留中に自殺してしまう。事件はとりあえず藪の中になりました。
ところが30年後に2つ目の殺人が起こります。余談ですが推理小説では殺人は2回以上起こらないと間がもたないですわ。これは鉄則です。元に戻りますと、殺されたのは真犯人の白石で、殺したのは福間の孫の安西知希です。なぜ福間の孫が白石が真犯人だと知ったのかというと、お人好しで正義感の強い倉木が、冤罪で自殺してしまった福間の遺族に接近し、さまざまな形で援助しようとしたからです。倉木は白石を逃がしてやったことで、福間が誤認逮捕されが自殺したことにも強い罪の意識を感じていたんですね。倉木と福間の遺族との秘密のやり取りが孫の安西知希に洩れ、殺人者の孫と呼ばれて虐められていたなどの理由で白石を計画的に殺した。
ただ物語はこれだけでは終わりません。知希の〝動機〟は嘘だらけだった。これ以降は実際にお作品をお読みになってお楽しみください。
とにかく「迷宮の果てに」には読者の予想を二転、三転させる仕掛けが散りばめられています。それがよくわかるのが、この一連の事件の担当者で捜査一課所属の五代と、所轄の刑事の中町の会話です。社会的に大きな注目を浴びる事件なので、五代は所轄の中町を呼び出して食事しながら事件のあらましについて話し、今後の打合せをしたんですね。
つまりこの手の推理小説なら最後まで五代が活躍して謎解きして終わるストーリーにしてもいいわけですが、謎解き自体はいわばアームチェア・ディテクティブ方式で語られる。謎解き以上の作家様のメッセージがお作品にこめられているということですわね。
登場人物の一人が「罪と罰の問題はとても難しくて、簡単に答えが出せるものじゃない。そのことをこれからも深く考え続けるだろう」という言葉を発します。これが作品のテーマですわ。
もち東野先生の読者なら、このテーマはずっと続いていることをよく知っています。でも本気でとても難しい「罪と罰の問題」をお考えになっているから作品が面白く深みがです。さすがのお作品でござーます。先生のお原稿が取り合いになる理由、よくわかりますわ。
佐藤知恵子
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