二月号で前篇、後篇と掲載された浅田次郎先生の「兵諫」が完結しました。兵諫は聞き慣れない言葉ですが臣下が君主を諫めるという意味です。具体的には共産党討伐を行っていた張学良がその視察に訪れた国民党党首・蒋介石を軟禁して、国共内戦停止と抗日戦線の統一を要求した一九三六年(和暦では昭和十一年)の西安事件を題材にしています。
よく知られているように太平洋戦争末期まで中国大陸では国民党と共産党と日本軍の三つ巴の戦争が繰り広げられていました。国民党は共産党との戦いで分が悪くなると日本軍と結んでいた。共産党、日本軍も同様で、時々に敵と密約を結んで敵の敵と戦っていたのです。要するに中国戦線は膠着状態で、日本の敗戦によってパワー・オブ・バランスが崩れて一気に国共内戦に片がつき、メインチャイナは共産党支配、台湾に逃れた国民党が蒋介石軍事政権から民主国家になっていったという経緯があります。
太平洋戦争で韓国、中国を始めとする東アジア諸国に多大なご迷惑をかけた日本が、あの戦争を美化することは許されません。言い訳めいた釈明も御法度です。しかし敗戦国だからこそ見えてくるものがあるというのが浅田先生のスタンスだと思います。国家には国民統合のためのアイデンティティが絶対的に必要です。中国共産党も韓国も戦前から一貫した抗日戦線が存在しそれが勝利したという国是を戦後建国の基礎にしています。だけど実態はそんなに単純ではありません。その実にアジア的とも言える複雑な絡み合いを小説で解きほぐしてゆくのがだいぶ前からの浅田先生のお仕事になっています。
「你們好!」
中国語がいい。二人はちょっとびっくりしながらも、気さくに手を挙げて「你好」と応じてくれた。
「ニューヨーク・タイムズのターナーと申します。ご同宿でしょうか」
案の定、二人は中国語に堪能だった。
彼らは立ち上がって名刺を差し出した。日本人は礼儀正しい。
「私は今、到着したところです。あなたは?」
そう言ったのは、朝日新聞特派員北村修治。所属は新京支局。上海の手不足で東北から駆り出されたのだろうか。
「数日前に。中国は初めてなんです」
「それにしては中国語がお上手だ」
「翻訳と通訳をやっていました」
中国語の会話はここちよい。もしかしたら僕は、中国で暮らす限り孤独から免れ、偏屈者と思われずにすむのではなかろうか。
「実は私も、上海に来てからそうは経っていません。北村君とは旧知の間柄です」
大倉商事上海支店の志津邦陽。オークラ・カンパニーといえば日本でも指折りの貿易会社である。
「申しわけないが北村君。僕はこれから会議があるので、お先に失礼します。ではターナーさん、朋友をよろしく」
ボーイが駆け寄ってコートを着せ、帽子をうやうやしく捧げた。ふたたび僕と握手をかわし、志津課長はラウンジから出て行った。
浅田次郎「兵諫」
小説冒頭でニューヨーク・タイムズのターナー、朝日新聞特派員の北村、大倉商事上海支店の志津があっさり出会います。志津は実は陸軍の上海特務機関の将校です。原隊は二・二六事件を主導した歩兵一聯隊で、治安維持法改悪を訴えた怪文書で軍法会議にかけられていなければ二・二六事件の首魁の一人になっていただろう人物です。
日本国内にいれば利害が対立する北村と志津、そして国籍が違い、太平洋戦争勃発後には日本と対立することになるニューヨーク・タイムズのターナーがあっさり出会い、利害を少しだけ超えた友情を育むことになるのはこのお作品のテーマがいわば彼らの頭上にあることを示唆しています。彼らはそれぞれの立場を超えて頭上のテーマを観察し分析します。それが「兵諫」という小説の構造です。つまりとても大きなテーマの回りを登場人物たちが駆け巡っている。小説の具体的主人公はターナーであり北村、志津ですが、本質的テーマは「兵諫」という抽象概念、あるいは歴史的事件の意味・意義です。
耳慣れぬ単語を問い質すと、北村が菜単の余白に「兵諫」と書いて僕に示した。
「脅迫じゃないのか」
志津が答えた。
「張学良は命を捨てている。よってクーデターではない。兵諫だ」
僕は頭の中で懸命にノートを繰った。たぶん、哲学の欠落したトンプソン教授の講義ではなかったはずだ。
兵諫――あった。遠い昔、楚の忠臣が主君を懼れ敬するがゆえに、剣を執ってその行いを諫めた。王は悔い改めたが、臣は罪深さにおののいて、ついにみずからの足を断ち切ったという。兵を挙げてでも主の過ちを諫める。すなわち兵諫である。(中略)
「ただし――」
志津大尉は盃を中国流にぐいと干した。
「僕の想像には矛盾がある。どうして蒋介石は、わずかな親衛隊だけを連れて西安に向かい、悠長に華清池の温泉になど浸かっていたのか。大軍を率い、楊虎城の十七路軍も指揮下に入れ、共産軍と結んでいるかもしれぬ張学良を、信用していたはずはない。あまりに無警戒すぎやしないか」
北村が言った。
「それァ志津さん、倅か弟のように信用していたのでしょうよ。さもなくば、よっぽど舐めていたか」(中略)
「不対」
志津が顎を振った。
「蒋介石はそれほど間抜けではありませんよ。万事に抜け目がなく、疑り深い。では、なぜかくも無警戒だったのか――まあ、食べましょう。せっかくのごちそうです」(中略)
そうこうするうちに、ふと僕は志津大尉の表情が、彼には珍しく昂ぶってくるように思えた。酒のせいではなく、何かこう、重大な話を言い出しかねているような気がしたのだった。「兵諫」も「矛盾」も、実は言わんとするところではなくて、もっとのっぴきならなぬ話を用意しているように思えたのである。
「志津さん。書くなと言われりゃ書きませんよ。どうぞ、ざっくばらんに」
北村が僕の代弁をしてくれた。(中略)
「では、書かないでいただきたい。のみならず、けっして口外しないと誓ってほしい。よろしいか」(中略)
それをしおに、志津は淡いランタンの光の中に顔を乗り出し、張りのある軍人の声を不自由そうに低めて、この国の遙かな歴史にまさる神話を語り始めたのだった。
同
西安事件の詳細は、浅田先生の綿密な資料精査によって小説で明らかにされてゆきます。また志津が関わったかもしれない二・二六事件の影響が西安事件に及んでいることも示唆されます。ただ「兵諫」という小説のテーマは現世事件のさらに上位にあります。それが志津がターナーと北村に口外しないと約束させた上で語る「この国の遙かな歴史にまさる神話」です。
志津は日本軍による張作霖爆殺後に、息子の張学良がその全財産だけでなく、歴代中国皇帝を皇帝たらしめる〝龍玉〟をも受け継いだのだと言います。龍玉は中国の天命思想と密接に結びついています。天命思想を正統なものにするのが龍玉だと言ってもいい。中国では天命が下れば身分の上下に関わりなくその人が広大な中華帝国の王になります。張学良は自分には天命が下らないことを知っています。では国民党党首の蒋介石がそれを持つべきなのか。実際蒋介石は張学良に龍玉を譲れと迫る。龍玉が欲しいから蒋介石は心の底から信用していない張学良軍の前線にまで出向いたというのが志津の見立てです。
しかし張学良は蒋介石に龍玉を渡さない。「自分と同様に彼が、それを抱く資格のない人物だと見きわめているから」。「蒋(介石)は(龍玉を)欲する。張は譲らぬ。そして、天は物言わぬ」とあります。志津は「神話は近代科学とはべつの次元の真理であり、すなわち神と人とは不干渉であるべき」だと言います。しかし「神話と科学がひとつの次元で絡み合ったとき、あるいは神と人とが真理を求めて錯綜した場合、いったいどのような変異が起こるのか、それはとうてい僕の想像を超えている」とも語ります。
この龍玉を巡る認識に、最近の浅田先生の中国を巡る関心が集約されているのは言うまでもありません。地上の物語が天上に接続されるわけですが、いちがいに荒唐無稽な妄想だとは言えません。国家のアイデンティティは――人間も無意識領域にまで意識を下降させれば同じことが言えるでしょうが――神話に根ざしています。日本の天皇制についても中国天命思想・龍玉と同様のことが言えるわけです。その微妙な関わりから浅田先生は小説を構想しておられます。
近・現代小説で歴史小説の基礎を作った森鷗外は「歴史其儘と歴史離れ」というエッセイを書きました。史実に忠実にその本質を描くのが「歴史小説」であり、江戸時代などの外枠を借りて現代小説では表現し難い理想などを自由に描くのが「時代小説」だという区分を立てることができます。時代小説は日本的な一種のSFであり、キッチリ時代の枠組みを課して日本文化の本質を描こうとする歴史小説よりも格が低い。しかしもちろん歴史小説(歴史其儘)はどんなに考証を凝らしても過去の歴史そのままを描けません。必ず「歴史離れ」要素が入り込んでくる。浅田先生が「兵諫」の最上位テーマとなさった龍玉は「歴史小説」における「歴史離れ」要素でしょうね。
隠忍を捨てて断固 暴支を膺懲す
記事を読む気にもなれず、北村は新聞を破り棄てた。何と醜い日本語であろう。隠忍を捨てるだの、支那をこらしめるなどという理由が、戦争の大義となるはずはない。いったい何をどうすればこんな具合に、日本が世界の一等国で日本人が世界一優秀な民俗だと、信ずることができるのだろうか。かつてあれほど謙虚に、支那からも欧米からも学んだ、同じ日本と日本人が。
出発の時刻が迫っていた。北村は支那の匂いのしみついた襟巻を斉えてベンチから立ち上がった。
上海が嫌いなわけではない。ただ、この街の混沌に歓喜を見出すよりも、先んじて苦悩に捉まってしまうだけだった。その最たる例が、妻と子の不幸だった。
顔も忘れかけた女房と、ついぞ会うことのなかった名もなき娘のために、今夜はひとつ泣いてやろうかと北村は思った。
同
小説のラストは新聞記者で語り手の一人である北村の描写です。彼には妻がいた。大人しく従順な妻で、見合い結婚だからさして愛情を通わせたわけではなかった。その妻は妊娠し出産の際に亡くなってしまった。子どもは娘だったが死産だった。北村は日々茫漠としてゆく死んだ妻と、生きて生まれてこなかった娘の思い出を抱えながら、彼女たちを忘れられない。茫漠とすればするほど彼女らへの思慕が募ってゆくようでもあります。
天に昇るような観念的小説である「兵諫」は最後になって地上に戻ってきます。主題は観念的でも、小説はあくまで地上の物語だということを浅田先生はわかっておられますね。
佐藤知恵子
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