No.117『聖徳太子1400年遠忌記念特別展 聖徳太子と法隆寺』展
於・東京国立博物館 平成館
会期=2021/07/13~09/05
入館料=2,200円(一般)
カタログ=2,800円
東博という日本を代表する博物館の特別展なので驚くことはないのだが、『聖徳太子と法隆寺』展は、それでも「うーん、スゴい」と唸ってしまう内容だった。尋常じゃない出品物だった。東博でなければ絶対にこれだけ高いレベルの作品を集めた美術展は開催できないだろう。
古美術の世界では鎌倉時代まで遡ればそうとうに古い。鎌倉になると寺社仏閣に伝わった物以外、ほとんど残っていないのである。庶民の生活用具などが伝わっているのは室町中期以降だ。しかし今回の展覧会は「鎌倉は比較的新しいな」と思えてしまうような出品物だらけだった。しかもほとんどが伝世品。図録解説も、僕のような仏教美術の門外漢でも「へー」と思ってしまう充実した内容だった。
日本に限らないが宗教遺物は信仰の対象なので、学術調査の名目でもむやみに借り出して調査分析することはできない。法隆寺は定期的に学術調査されてきているが、今回の展覧会は戦後何度目かの大規模調査のまとめでもある。
聖徳太子の事績は学校で日本史を履修した人は学んでいるだろう。でもま、記憶をリフレッシュするのも大事なので、聖徳太子の時代の出来事を簡単な年表にまとめておきます。
五七四年(敏達三年) 後の用明天皇皇子として聖徳太子生まれる。
五八六年(用明天皇元年) 用明天皇、法隆寺と薬師如来坐像の造立を発願。
五八七年(用明天皇二年) 用明天皇崩御。蘇我馬子、物部守屋を滅ぼす。仏教中心の国家施政定まる。崇峻天皇即位。
五八八年(崇峻天皇元年) 蘇我馬子、法興寺(飛鳥寺)の建設開始。
五九二年(崇峻天皇五年) 蘇我馬子、崇峻天皇殺害。推古天皇即位。
五九三年(推古天皇元年) 聖徳太子、摂政となる。四天王寺創建。
五九四年(推古天皇二年) 仏教興隆の詔。
五九八年(推古天皇六年) 聖徳太子、『勝鬘経』講説。
六〇一年(推古天皇六年) 聖徳太子、斑鳩宮造営。
六〇三年(推古天皇十一年) 冠位十二階制定。
六〇四年(推古天皇十二年) 聖徳太子、憲法十二条制定。
六〇五年(推古天皇十三年) 聖徳太子、斑鳩宮遷都。
六〇六年(推古天皇十四年) 聖徳太子、『勝鬘経』『法華経』講説。
六〇七年(推古天皇十五年) 聖徳太子、法隆寺建立。小野妹子らの遣隋使派遣。
六二〇年(推古天皇二十八年) 聖徳太子と蘇我馬子、『天皇記』『国記』編纂。
六二二年(推古天皇三十年) 聖徳太子薨去(六二一年[推古天皇二十九年]説あり)。
六二八年(推古天皇三十六年) 推古天皇崩御。後継者問題起こる。馬子の子の蘇我蝦夷、田村皇子を推し聖徳太子の子、山背大兄王を排する。
六二九年(舒明天皇元年) 田村皇子即位して舒明天皇になる。
六四二年(皇極天皇元年) 蝦夷の子、蘇我入鹿、舒明天皇を退位させ、女帝・皇極天皇を擁立。
六四三年(皇極天皇二年) 蘇我入鹿、山背大兄王を殺害(自害に追い込む)。
大化元年(六四五年) 中大兄皇子(後の天智天皇)、藤原鎌足らが蘇我入鹿を殺害。大化の改新。
「めんどくさいなー」とお思いになる方もいらっしゃるだろうが、こういった展覧会ではあらかじめ、最低限の知識を把握しておいた方がいいところがある。
ポイントをまとめると、聖徳太子は用明天皇皇子で天皇に即位することもできたが、女帝・推古天皇の摂政として世を終えた。その理由に蘇我馬子の存在がある。間接的であれ、高位高官による天皇・皇族の弑逆は日本の歴史では数回しか起こっていないが、馬子は崇峻天皇を殺害して推古天皇を立てた。その方が政治の実権を握りやすかったのである。
ここからは資料が圧倒的に少ないので古代ミステリーというかロマンになるが、馬子の圧倒的権力に棹さしながら治政を行ったのが――茫漠とはしているが――聖徳太子だったということになる。ただいつの時代でも複雑な政治の世界の話である。太子と馬子が決定的に対立していたとは言えない。史実を見る限りかなり良好な協力関係があったと言えるだろう。
聖徳太子の時代、天皇家は仏教に深く帰依し始めていたが盤石ではなかった。仏教中心の国家施策が定まったのは馬子による物部守屋の殺害以降である。ローマ帝国のキリスト教国教化と同様に仏教が権力闘争の名目だった面はあるだろうが、それ以降、国家仏教の方針が定まった。太子は摂政として施策の中心に仏教を据え、自ら経典の研究も行った。またあらゆる面で日本よりも先進国だった中国隋王朝に使節を派遣して学ばせた。小野妹子を中心とした遣隋使派遣が有名である。それにより仏教だけでなく法制なども取り入れ冠位十二階制を制定した。後の『古事記』『日本書紀』の先駆けとなる『天皇記』『国記』も馬子と共同で編纂している。
太子が馬子の意のままの傀儡でなかったことは、太子没後の政争からも透けて見える。推古天皇崩御後、田村皇子と聖徳太子の子の山背大兄王の間で皇位継承争いが起こったが、馬子の子、蘇我蝦夷が田村皇子を推して舒明天皇に即位させた。蝦夷の子の蘇我入鹿はさらに舒明天皇を退位させて女帝・皇極天皇を即位させた。推古天皇の時と同じように女帝の方が権力を掌握しやすかったわけだ。しかしこれにより山背大兄王との対立が激化し、入鹿は山背大兄王の一族を自殺に追い込み皆殺しにした。聖徳太子の一族はこれによって滅びた。蘇我氏は天皇(崇峻天皇)と皇子(山背大兄王)を殺害したことになる。長い日本史でも本当に稀な政治事変である。
山背大兄王が一族殲滅に至るまで蘇我入鹿と対立したことは、聖徳太子直系の家が非常に強い力を持っていたことを示している。また大化元年には後の天智天皇である中大兄皇子と藤原鎌足らが蘇我入鹿を殺した。大化の改新である。ここから藤原氏の世が始まるわけだが、大化の改新は長く実権を握っていた蘇我氏を排して天皇親政を行うということでもあった。
で、西暦六四五年、大化元年が現代の令和まで続く和暦の最初である。それ以前は和暦は存在しないので、天皇の在位に即して便宜的に推古○○年などと言っている。大化の時代でもじゅうぶん古代でめちゃくちゃ古い。しかし聖徳太子の時代はその一時代前で、それ以前に遡ると文字資料がほとんど見当たらない古墳時代になる。日本人の手による文書資料は聖徳太子の時代から始まったと言ってよい。
また日本人が文字で記録などを残せるようになったのは仏教のおかげである。仏教とともに文字が日本に流入して定着したのだった。もちろん仏教(文字)流入は聖徳太子の時代よりも古い。しかし太子の時代になってようやく文字を自在に使いこなせる知識人集団ができあがった。つまり聖徳太子時代が文字情報を伴う日本(文化)の黎明期ということになる。
この聖徳太子の時代に日本(文化)の基礎が出来上がったという意識は、現代よりも古代の方が遙かに強かった。後世の人は聖徳太子を日本国の基盤に据えたようなところがある。そのため太子没後から聖徳太子を仏様になぞらえるような神格化が急速に進んだ。それは古代から中世、近世まで続き、ほとんど太子の実像がわからなくなるほど分厚いものになっていった。初期的な国家仏教の施策や律令制の導入、史書(『天皇記』『国記』)の編纂などが太子一人の力で為されたとは考えにくい。が、蘇我氏が朝敵となり滅んだこともあって、この時代の偉業のすべてが太子に帰されるようになったのだった。
ちょっと唐突かもしれないが、聖徳太子と聞くと、僕はいつもムハンマドを思い浮かべてしまう。イスラーム経の創始者、というかイスラーム的には絶対唯一神アッラーの言葉を人々に伝えたムハンマドは太子と同時代の人である。ムハンマドは五七〇年頃生まれたと言われるので太子より四歳年上ということになる。
ムハンマドは自分は神ではなく、アッラーの声が聞こえそれを人々に伝えるだけの預言者(神の言葉を預かる宗教者)だと言った。市場で飯を食い糞をする普通の人間だとも言った。そのため死後に自分を神格化することを禁じた。だからムスリムにはムハンマドという名の人が多い。キリスト教圏でキリストという名前の人はいないが、それは言うまでもなくキリストが神だからですね。神の名を自分の名前にするのはあまりにも畏れ多い。ムハンマドは尊敬すべき宗教者だが人間だった。
しかしその死後、ムハンマドは当然のことながら実像が見えにくくなるほど神格化されていった。それは聖徳太子も同じである。もう歴史時代に入っているとはいえ六世紀は恐ろしく古い時代なのだ。
伝承まみれなので、近代に入って歴史に実証主義が導入されると、一部の学者の間で聖徳太子は実在しなかったのではといった議論まで起こった。また僕くらいの世代はよく覚えているが、昭和四十七年(一九七二年)に梅原猛さんの『隠された十字架』がベストセラーになった。法隆寺は聖徳太子の怨霊鎮魂のための寺だという新説で、推理小説のような謎解き歴史書だった。怨霊鎮魂は平安時代に生まれた概念なので今では梅原さんの主張を支持する学者は少ないようだが、分厚い歴史のベールに覆われた聖徳太子や法隆寺はいまだ様々な事柄を考えるためのヒントである。
伝承が本当に史実なのか実証しろと言われると誰もが困ってしまうが、聖徳太子が実在したのは間違いない。まったくなにもないところから聖徳太子像を作り出す方が遙かに難しいからだ。しかし太子の事績が分厚い歴史のベールに覆われているのも確かである。またベールを剥ぎ取って実像を探求することにやっきになってもそれほど大きな意義があるとは思えない。太子にまつわる時代ごとのベールにはそれぞれ意味がある。
うっすらとうかがい知れる聖徳太子の実像と、太子の死後千年以上続いたその神格化は、太子創建の法隆寺西院伽藍、東院、聖霊院、四天王寺、五重塔、それに大阪四天王寺に伝わった遺物などから知ることができる。長い年月の間に法隆寺などから流出した遺物を含めればその数は膨大になる。めったに公開されない遺物を見るだけでも楽しいが、そのバックグラウンドを知るとさらに楽しい展覧会である。
薬師如来像
一軀 銅造、鍍金 像高六三・八センチ 飛鳥時代 七世紀 奈良 法隆寺蔵
同 光背裏銘文
法隆寺は聖徳太子創建の若草伽藍が天智九年(六七〇年)に焼失し、その後現在の西院伽藍が七世紀後半に再建されたとされる。焼失や再建時期には諸説あるが、発掘調査から若草伽藍が焼失したのは確かである。西院伽藍は言うまでも日本最古、じゃなく世界最古の木造建築として知られる。
西院伽藍金堂の本尊は釈迦三尊像で、向かって右側に薬師如来像、左側に阿弥陀三尊像が安置されている。いずれも銅造で飛鳥時代ならではの作である。巨大な四天王像(木造だがこれも飛鳥時代作)も安置されているが、全容は図録または法隆寺に足を運ぶかして確かめてください。今回の展覧会では薬師如来像と四天王像が出品されていた。
薬師如来像の光背には銘文があり「池邉の大宮に天下治し天皇(用明天皇)大御身勞き賜ひし時(ご病気になられた時)。時は丙午に次りし歳(五八六年)、大王天皇(後の推古天皇)と太子(聖徳太子)を召して請願し賜はく・・・」と彫られている。恐ろしく古い時代の文字だがなんとなく読めてしまうのが漢字の素晴らしいところというか、恐ろしいところである。用語や発音は違うだろうが、当たり前だが飛鳥時代には今の日本語の祖型が完全に成立していた。文字情報は本当に貴重だ。
銘文の大意は用明天皇が病にお倒れになった時、後の推古天皇と聖徳太子を召して法隆寺と薬師如来坐像の造立を発願なさった。天皇は完成を見る前に崩御なさり、推古天皇と聖徳太子が丁卯年(六〇七年)に完成させたという内容である。用明天皇が病に倒れたのは五八六年だから、二十年以上かけて法隆寺前身の若草伽藍が建立されたことになる。日本では最初期の大規模造営工事である。
この薬師如来像一つとっても鋳造時期を含めて様々な議論があるわけだが、用明天皇が聖徳太子を実質的後継者と考えていたことが窺える。つまり最初から推古天皇はお飾り。天皇が遺志を託したのは聖徳太子だった。
御物 法華義疏(法隆寺献納)
紙本墨書 [巻第二]縦二四・九×長一四五・二センチ 飛鳥時代 七世紀 宮内庁蔵
これも諸説あるが、『法華義疏』は聖徳太子直筆の草稿だと考えられている。内容は法華経の私解で、太子が仏教に深く帰依していただけでなく、その思想をも深く理解していたことがわかる。江戸時代まで仏教は宗教というだけでなく哲学でもあった。法隆寺に伝わったが明治になって宮内庁に献納された。仏像の銘文や発掘品を除けば、作者がわかっていて一貫した内容を持つ日本最古の書き物(一種の書物)である。
パッと見ると平安の書かなといった感じで、飛鳥・奈良の経典や公式文書の立派な字とはだいぶ違う。しかし文字の刷り消しや張り紙による書き直しが多く、用紙もそれほど立派ではないのに古来大切に受け継がれて来た。経帙や箱などの付属品を見ても太子草稿で間違いあるまい。
文字を読み書きは大変な変化を世の中にもたらした。公式文書記録などは統治資料の一部だと言っていい。ただそれだけではなく為政者には思想が必要である。聖徳太子は仏典の理解から為政の思想を生み出した。憲法十二条が仏教思想に裏付けられているのは言うまでもない。地味だがこういった一級品を見られるのが今回のような展覧会のいいところである。
夾紵棺断片 一片
乾漆製、絹・漆 縦四九・五×横九八・五×厚二・七センチ 飛鳥時代 七世紀 大阪 安福寺蔵
同 断面写真
一度実物を見てみたかったのが、『夾紵棺断片』である。これは聖徳太子の石棺の蓋だったと考えられている。例によって諸説あるが、まず間違いないだろうと推定されている。大阪府柏原市の安福寺庫裏の床下から昭和三十三年(一九五八年)に考古学者の猪熊兼勝氏によって発見された。
これも図版で見るとえらく地味なのだがとてつもなく手が込んでいる。四十五層もの薄い絹が漆を使って張り重ねられている。絹を漆で塗り重ねた棺蓋はこれ以外に存在しない。彩色などは最初からなかったようだが、貴重な絹を使った当時でも例外的な作例である。手に取ってみたい誘惑に駆られますな。意外と軽いのではなかろうか。
聖皇曼荼羅 一幅
尭尊筆 絹本着色 縦一六二・八×横一一五・七センチ 鎌倉時代 建長六年(一二五四年) 奈良 法隆寺蔵
出品物はどれもこれも貴重で面白い物ばかりなので何を紹介するのか迷うが、『聖皇曼荼羅』は聖徳太子没後の太子信仰の典型的遺物の一つである。曼荼羅は日本では本来、大日如来を中心とした仏の調和的世界を描いた宗教画、というより仏教の根本的世界観を表した絵だが、『聖皇曼荼羅』は阿弥陀仏の代わりに聖徳太子を本尊に据えている。
真ん中右端が太子でその横に太子の母・間人皇后、太子の妃・膳妃が描かれている。太子の母の上には父である用明天皇が、周囲には太子の十七人の王子や八人の孫といった血縁者や、蘇我馬子ら縁の深かった重臣や僧侶が描かれている。法隆寺聖霊院に伝わった。制作伝来の経緯がハッキリわかっている遺物である。
実在の、しかも宗教者ではなく為政者を中心に据えた曼荼羅はこれ以外にほとんど例がないだろう。鎌倉時代には太子信仰が盤石な形で成立していたことがわかる。その信仰は太子を優れた為政者であり、かつ仏の生まれ変わりの徳の高い高僧とみなしている。
聖徳太子および侍者像
木造、彩色・截金 像高八四・三センチ 平安時代 保安二年(一一二一年) 奈良 法隆寺蔵
聖徳太子像 X線透過画像
像内納入の蓬莱山上の観音菩薩像
像内納入の経巻
聖徳太子および侍者像も聖徳太子信仰をよく表した遺物だ。法隆寺聖霊院内陣に祀られる秘仏本尊である。まあ滅多なことでは間近に拝めない。聖徳太子像のほかに山背大兄王像(聖徳太子の子)、殖栗王(用明天皇第五皇子)、卒未呂王(聖徳太子異母弟)、恵慈法師像(聖徳太子の仏教の師)の四像も出展されていたが、図版掲載したのは展覧会のポスターにもなった聖徳太子像である。
X線透過画像からわかるように、聖徳太子像の胎内には太子が講説した法華・維摩・勝鬘経を収めた筒型容器があり、その上に亀の背中にそびえる蓬莱山と、その上に立つ観音菩薩像が安置されている。観音菩薩像の口がちょうど太子の口になっている。極めて精緻に作られた作品であり驚くほど保存状態もよい。秘仏でなければ彩色までこんなにキレイに残らない。仏像の胎内に経典などを納入することは奈良時代から行われていたが、この像も本来は俗人の太子を仏とみなした意匠である。
なお理由はわからないが、山背大兄王像らの侍者像四体はちょっととぼけた顔付きである。それに対して聖徳太子のお顔は厳めしい。一万円札にもなった法隆寺伝来の『聖徳太子二王子像』のお顔は柔和だが、時代時代の太子信仰のあり方によって太子の表現方法、そのお顔の表現などは大きく変わる。こういった厳めしいお顔から梅原さんの法隆寺怨霊鎮魂寺説などが生まれたのかもしれない。
蓮池図屏風 二曲一双
絹本着色 縦一八〇×横二四七・四センチ 鎌倉時代 十三世紀 奈良 法隆寺蔵
ちょっと地味な展示物が続いたので、最後にパッと見ただけで華やかな遺物を紹介しておきます。『蓮池図屏風』は法隆寺東院夢殿に安置されていた『聖徳太子勝鬘経講讃図』の北面に嵌められていた図だと言われる。『聖徳太子勝鬘経講讃図』はだいぶ剥落があるがこちらは製作当時の雰囲気を保っている。
色鮮やかで写実的な画法は中国北宋画の雰囲気である。宋に留学した鎌倉時代の僧侶で、法隆寺の再建事業に寄与した慶政が関わっているのではないかと推測されている。色鮮やかで写実的な絵画は北宋王朝宮廷画壇の特徴なので、当時の留学生が中国王朝中枢と深く交わり短期間に新たな画法を習得したことがわかる。聖徳太子像や絵は時代時代の最良の絵画や金工品で荘厳されたのだった。
絹本だから黒ずんでいるが元々は実に華やかな絵だったろう。蓮池図はたくさん描かれているがこれが日本最古の蓮池図である。
天人(金堂天蓋附属)
木造、彩色 [琵琶]高五三・七センチ [鈸子]高さ五三・六センチ 飛鳥時代 七世紀 奈良 法隆寺蔵
最初に図版掲載した法隆寺金堂安置の薬師如来像などの上には、天蓋と呼ばれる傘のような仏具が吊り下げられている。鳳凰や飾金具とともに天人の像も天蓋に取り付けられている。静謐さをたたえた面長の顔立ちでなんとも可愛らしい。こういった造形は飛鳥から奈良初期独特で、唐招提寺の化仏なども同じような雰囲気である。
なお天蓋は巨大で、その付属物一つ一つに歴史的かつ美術的な価値がある。法隆寺展は特に、何を知りたいのか、何を見たいのかによって鑑賞方法が違ってきますな。
明治維新直後の神仏分離令によって天皇家は神道の守護者というイメージが強くなったが、法隆寺遺物を見るとそれが歴史的には間違いだと言っていいことがわかる。仏教最大の帰依者で庇護者は天皇家だった。また外来宗教だが仏教は文字といっしょに伝来しただけでなく、仏を中心に据えた調和的世界観思想を日本人に教えた。現世は矛盾だらけだが、この仏教的調和的世界観思想がその後長らく日本の為政者の理想になった。
聖徳太子の時代は、言ってみれば古代的暴力が残存する政争の時代だった。それは太子時代直後に起こった大化の改新によって権力を握った天智天皇崩御あたりまで続く。ただ聖徳太子が推古天皇の摂政として生涯を終え、天智が長らく皇位につかず、皇太子として斉明天皇の名の下に政治を行ったのは示唆的かもしれない。
神聖不可侵の天皇(昔ながらの言い方をすれば国体)を温存したまま、有能な政治家が治政を行う政治形態は聖徳太子から始まったと言ってよい。平安摂関政治、鎌倉以降の天皇家と征夷大将軍との関係もみな権力の二重構造である。聖徳太子の美化と神格化は案外そんなところに理由があるのかもしれない。
現実問題として日本社会は天皇独裁、武家独裁ではない時代の方が安定している。権力の二重構造が平和な社会の政治形態だったわけだが、それゆえ歴史の闇に埋もれて実態がわかりにくい聖徳太子の御代が理想化され美化されたのかもしれない。
鶴山裕司
(2021 / 08 / 26 21枚)
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