『りょんさんのときどき集中連載』『世相をわらう9―中日・木下投手のご冥福をお祈りします』をアップしましたぁ。先日27歳の若さでお亡くなりになった中日ドラゴンズの木下雄介投手を悼みながら、コロナ関連の統計データについて論じております。今のところ因果関係ははっきりしませんが、木下投手はコロナワクチン接種後に急逝なさいました。
で、コロナに関してはテレビや新聞などの大メディアだけでなく、ネット上に無数の情報が氾濫しています。YouTubeでもたくさんの関連情報が発信されている。情報が隠されるよりは遙かに良いことなのですが、どの情報を信用していいのか、信頼性があるのか、今ひとつ見えて来ません。そのあたりのことを論じておられます。
ほんとに物の見え方、判断っていうのは、その対象との距離感、立ち位置というか、角度によってまったく異なってくる。利害関係とか社会的立場とか、そういうのが関わってくれば逆にわかりやすいんだけど、誰もそんな計算なんかしてないつもりでも、なんであのとき、あんなふうに思ったんだろう、そう見えたんだろうってこと、あるよね。
りょん
りょんさんが書いておられる通り、データは集計のまとめ方、分析の仕方によって違う結論が出たりします。コロナについても同じで、罹患者が増えているのは間違いありませんが、ワクチンの効果やリスクなどについては時間をかけてデータを均して、これは確実と言えるような結論を見つけてゆくしかないでしょうね。
石川は大多数の方と同じように、人様に迷惑かけちゃいけないので、マスクしたりこまめに手洗いしたり大規模会合を避けたりしています。ただ文学金魚で積極的にコロナ関連コンテンツを掲載してゆくつもりはありません。
もう多くの人が忘れかけていますが、東日本大震災以降に「大震災で文学は変わる」「3・11以降の文学」といった特集が文芸誌で組まれ、単行本を出した作家もけっこういます。でもそんなに簡単に世の中変わらなかった。またその後、東日本大震災に匹敵する規模の熊本大地震が起きましたが、「熊本大地震以降の文学」といった特集や本は出なかった。つまり一部の文学者にとって、東日本大震災は震災被害ではなく原発事故が興味の焦点だった。簡単に言えばある種の文学者たちに原発事故=アポカリプス(世界の終わり)という無責任な幻想を抱かせたわけです。
こういった幻想がなぜ生じるのか。非常に言いにくいですが、もうやることがない、書くことのない文学者が、いっそ世の中滅びてしまえばいいのに、といった暗い願望を抱えているからではないかと思います。石川、そういった文学者をまったく信用していません。それは現代社会がとても捉えにくいので、文学者が何をしていいのかわからないことを示しているだけだと思います。また文学者の社会的役割は、本質的には政治批判や施政批判にはない。文学者の中にはネガティブ情報ばかり集めたTwitterがけっこうありますが、それは彼らの閉塞感を発信しているだけのように感じます。
世の中はどんなに声高に騒いでもそう簡単に大きく変わったりしません。結局は落ち着くところに落ち着く。りょんさんがデータについて、「どこかで無意識的に、結論ありきで編集してるってことはあるだろうね。だから論文っていうのも、実はあんまりアテにならない、長い時間だけがそれを検証していく、って言われる所以なんだろう」と書いておられるとおりだと思います。誰にとっても必要なのは未来に伸びる的確なヴィジョンです。今現在目の前にある事象に振り回されるのは、たいていの場合、暇つぶしにしかなりません。
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