No.115『与謝蕪村 「ぎこちない」を芸術にした画家』展
於・府中市美術館
会期=2021/03/13~05/09
入館料=700円(一般)
カタログ=2,750円
府中市美術館で開催された『与謝蕪村』展も会期中に美術展時評をアップするのが間に合わなかった。府中は横浜からは行きにくくて観覧するのが遅くなったからだが、その後すぐに緊急事態宣言で美術館が閉じてそのまま展覧会終了になってしまった。急いで書いても美術館は開いていないわけだ。やれやれである。
蕪村は大好きな絵師の一人である。江戸の画家で誰の作品が欲しいかと聞かれたら蕪村、大雅堂、浦上玉堂と答えると思う。大雅と玉堂はそうとう頑張らなければ入手できそうにないが、蕪村は小品ならと微かな期待を抱いている。ただ骨董屋で何点か贋作を見たことがあるが真作にはお目にかかったことがない。今回は蕪村の大作から小品まで展示された大規模展覧会だから胸躍らないわけがない。
展覧会は出品された作品も図録の写真もとてもよかった。でも図録解説は「んー」と思ってしまった。僕は展覧会に行って気に入れば図録を買う。律儀に頭から尻尾まで解説を読む方だ。古本で図録を買っても読む。寝る前に転がって読み飛ばすからあまり苦にならない。しかし薄い文庫本一冊くらいの文字量になるので頭から尻尾まで読む人はあまりいないのではないかと密かに思っている。
学芸員の方は僕などとは比較にならないほどの知識を持っておられるから、シロートに文章をとやかく言われたくないだろう。それは重々わかっているが、まあ律儀に解説を読んだ読者の感想文としてご容赦願いたい。
蕪村展のポスターには展覧会のサブタイトルになった「「ぎこちない」を芸術にした画家」というコピーが印刷されている。図録の帯にも「蕪村は本当にヘタだったのか?」というコピーがある。だいぶ前から軽い切り口で美術を紹介しようという試みが盛んに行われている。それはいいことだと思うのだが、「ぎこちない」や「ヘタ」が本当に蕪村絵画の本質に届いているのかどうかはまた別の問題である。観覧者を増やすためのキャッチーなコピーとは別に考えなければならない。
もっとハッキリ言うと、美術の知識の問題ではなく批評の書き方の問題だと思う。批評を書く際には対象を分析・紹介するための切り口が必要だ。短い文章なら軽いノリで書いてもアラが見えないし、切り口のアイディアも適当でいい。しかし美術展図録のように息の長い書き物になるとそうはいかない。
蕪村は江戸の人で有名画家なので今までさんざん論じられている。だからまだ比較的手垢のついていない「ぎこちない」や「ヘタ」を真正面に据えて、新たな切り口で大胆に論じようとなさったのだろう。それ自体は問題ないのだが、最初に設定した切り口にこだわり過ぎている。蕪村には超絶技巧作品もあるので感覚的切り口では論じきれない。もちろん南画や俳画の概念も援用なさっているが最初につかんだ切り口を手放さないのでそれを活かせていない。逆に最初のアイディアがそれらを押しのけてしまっている。
批評家が批評の独創性(オリジナリティ)にこだわる際には細心の注意が必要だ。最初に考え抜いて、最後まで一貫して批評対象を論じられるアイディア(切り口)を立てておかなければならない。また中核のアイディアは一つでいいが、長い文章になれば複数のアイディアが必要になる。優れた作品、作家は多面的だからだ。
『日本の素朴絵-ゆるい、かわいい、たのしい美術-』展(No.101)でも主催者は自分たちが新しい切り口と措定した「ゆるい、かわいい、たのしい」の批評的アイディアに固執していた。しかしそんな「ゆるい」感覚で江戸から近代までの古典的作品を論じ尽くせるわけがない。最近の文学批評と同様に美術界でも批評家のエゴが強すぎるのではなかろうか。批評家のオリジナリティの発揮方法が間違っていると思う。
「ぎこちない」や「ヘタウマ」は直感的感覚でありそれ自体が始まりであり結論である。だから読んでも印象に残らない。なぜ「ぎこちな」く「ヘタウマ」なのかを深掘りすればすぐに違う切り口になってしまうだろう。またいくら柔らかい切り口を提示してもそれによって興味を持つ人が増え来館者が大幅に増えるとは思えない。美術館に来る人の多くが「勉強したい」と望んでいる。間口は広く、中に入ればそれなりにタメになる解説が望ましいのではなかろうか。
専門家が読む紀要論文ではないので噛み砕く必要はあるが、美術愛好家は的確な事実とそれに基づく美術品の鑑賞方法を知りたがっている。「かわいい」は「この作品、実にかわいいですね」と付け足しで言えば十分だ。しかしプロの画家(専門絵師)が技巧的にはヘタに見える作品を残している場合は必ず理由がある。同時代人が評価した場合はなおさらだ。それをどう解説するのかが焦点だろう。以上妄言多謝。
さて、与謝蕪村は江戸中期の享保元年(一七一六年)に摂津国東成群毛馬村(現大阪市都島区毛馬町)で生まれた。蕪村は俳人としても知られ多くの文章を残している。文人らとも交流があったので同時代の専門絵師よりはその生涯の機微がわかっている。ただ幼年時代から二十代初めまでの人生はよくわからない。町人か農民だったのは間違いないが若い頃から絵と俳句に没頭しているので生家は裕福だったろう。同時代人の円山応挙も豪農の出である。江戸後期には豪商・豪農の子弟が文人・絵師として活躍するようになる。
まず俳人としての軌跡をまとめておくと、蕪村は江戸の俳人早野巴人(夜半亭宋阿)に入門した。蕉門で宝井其角、堀部嵐雪の弟子だった人である。最初の俳号は宰鳥だが延享元年(一七四四年)二十九歳の時から蕪村の俳号に改めた。元々の姓は谷口または谷と言われるがはっきりしない。が、宝暦十年(一七六〇年)四十五歳には与謝を名乗っている。名は信章である。
蕪村は巴人門の筆頭で明暦七年(一七七〇年)五十五歳の時に夜半亭二世を継いだ。大島蓼太、加舎白雄、三浦樗良、加藤暁台、炭太祇らが社中で太祇は蕪村の絵の弟子でもあった。いわゆる天明俳句で元禄の芭蕉(蕉門)以来の江戸俳句興隆期だった。
子規が蕪村を高く評価し子規派が別名蕪村派と呼ばれたのはよく知られている。子規は自分たちの俳句は「天明俳句を一歩先に進めただけだ」と書いているが、子規が提唱し虚子が確立した写生俳句が現代俳句の盤石の基礎になっている。つまり現代俳句の祖は蕪村天明俳句にある。
画業の方だが蕪村は元文二年(一七三七年)二十歳の時に江戸に出て宝暦七年(一七五七年)四十二歳の時に京に居を定めるまで江戸、結城・下館(現茨城県)などを遊歴した。各地で絵を描き残している。狩野派の桃田伊信に絵を習ったと言われるがそれだけはないだろう。蕪村の画法は多様であり様々な絵師あるいは絵手本から画法を習得していったと考えられる。
絵師としての名が高まったのは京に住んでからである。明和五年(一七六八年)五十三歳の時に当時の人気絵師番付を兼ねていた『平安人物誌』に初めて名が載った。それ以来上位に位置する人気絵師になっていった。ただ江戸時代に蕪村が全国に名が知られ競って買い求められるような人気絵師だったかというと、そうは言えない。京都画壇の雄は圧倒的に応挙であり、蕪村絵画は明治維新後にその評価が高止まりした。俳句に関しても同様で子規らが蕪村を再評価するまで俳句史の中に埋もれていた。
『山水図屏風』
六曲一双 各 縦一五八・五×横三四二センチ 江戸時代中期(十八世紀) 款記・朝滄子 印章(右双)嚢道、丹青不知老至/(左双)朝滄、四明山人 寧楽美術館蔵
『野馬図屏風』
絖本着色 六曲一双 各 縦一六六・八×横三六六センチ 宝暦十三年(一七六三年) (右双)款記・癸未秋八月写於三菓軒中 東成謝春星 印章・春星、謝長庚印/(左双)款記・東成謝長庚写於碧雲洞中 印章・謝長庚印、春星 京都国立博物館蔵
『山水図屏風』は蕪村が丹後地方(京都府)に滞在した宝暦三年(一七五四年)から六年(五六年)頃に描かれた。三十九歳から四十二歳頃の作で、画業全盛期には至っていない時期のいわゆる前作である。長々と絵のキャプションを転記したがこれには意味がある。まず基本的なことを説明しておきます。
蕪村は「与謝蕪村」として絵を描いたわけではない。また蕪村は本名ではなく俳句を書く際の俳号(雅号)である。俳句ではほぼ蕪村の雅号で通しており、絵の雅号が複数あって煩雑なのですべての絵を便宜的に蕪村作と言っているわけだ。また宗門人別改帳などの戸籍はあったが江戸時代には本名とは別に雅号をいくつ持っていてかまわなかった。
蕪村の絵の雅号はたくさんあり若い頃から順に「四明」「東成謝長庚」「謝春星」「謝寅」などの雅号を使っている。江戸の絵は作者の雅号(款記・サイン)の下に印(印章・雅印)を捺すのが定式だが雅印も複数ある。「嚢道」「山水自清言」「丹青不知老至」「四明山人」「謝長庚印」「春星」など複数種類の雅印を捺している。蕪村のようにたくさんの雅号と雅印を使い分けた絵師の場合、どの雅号と印を使っているのかによっておおよその制作年代がわかる。
なお雅号は今で言うペンネームではないことは知っておく必要がある。雅号は基本的に本業とは別の仕事をする時に使う名前である。典型的なのは武士が絵や戯作本を描(書)いたり俳句短歌漢詩の詩を詠んだりするときに雅号(別名)を使う。本名を出すのがはばかられる場合に使うことが多いという意味ではペンネームだが、それだけではない。江戸時代には雅号を使えば別の人間(人格)の生(営み)と捉えるという暗黙の了解があった。これは江戸封建社会の反映でもある。
江戸は厳格な身分社会だった。家老の子は家老になり医者の子はいずれ医者になる。ただし一握りの若君は別として子供時代はいっしょに学問や武芸を学んだりする。遅くとも十五、六歳で元服(大人の仲間入り)するわけだがその際に名前を改めた。子ども時代の生から大人の生に切り替わるわけである。本人の社会人としての自覚を促すためでもあった。またそれにより周囲の大人たちも、たとえうんと年下であっても自分より身分の高い家の若者に対しては慇懃な態度に改めたのである。出世したり隠居する時にも名を改めた。雅号はこの封建改名システムに準じる。
蕪村が複数の雅号を使っていることは、改名の際になんらかの画境の変化があったことを示している。また蕪村は文人(物書き)でもあったから普通の絵師よりも文字とその意味に対してセンシティブだった。絵に捺してある雅印についてもその時々の蕪村の意志(意図)が込められていると言ってよい。
基本的な事柄の説明が長くなってしまったが、並べて図版掲載した『野馬図屏風』は宝暦十三年(一七六三年)、蕪村四十八歳の時の作である。屏風は六枚折りがワンセットで、これを二つ並べて一双で完結である。だから六枚折りだけだと半双になる。
『野馬図屏風』はだいぶ全盛期に近づいた時期の作である。ただ『山水図屏風』も『野馬図屏風』も七メートル近い作品で、縦に並べると全体像がわかりにくいし横に並べるとどうしても図版が小さくなってしまう。しかしパッと見ただけでも全然違う画風だとわかるだろう。
拡大図 右『山水図屏風』/左『野馬図屏風』
『山水図屏風』と『野馬図屏風』の拡大図である。『山水図』は水墨画でひょろりとした線である。それに対して『野馬図』は具象的だ。描線もきりっとしている。絵のタイプが違うのである。
『山水図』の方は水墨画というより南画と呼ばれることが多い。中国北宋時代の画壇では精緻な写実的絵画が流行した。そのため以後写実的絵画を北宋画と呼ぶようになった。これに対し宋が女真族の金(後の元王朝)に追いやられて南下して拓いた南宋画壇では、北宋画とは打って変わったラフなタッチの水墨画が流行した。写実にこだわらず画家の心の中の理想郷を描く絵で、やがて南宋画、略して南画と呼ばれるようになった。また蕪村の時代、長崎に来航した清の画家・沈南蘋から始まる具象的な南蘋画が流行していた。遠近法はまだ甘いがヨーロッパ絵画の影響を受けた画風である。残された作品は圧倒的に南画が多いが蕪村は北宋画と南宋画(南画、南蘋画)の技法を我が物としていた。
ただ写実的な北宋画(南蘋画)とラフな南宋画(水墨画・南画)の違いだけでなく、南画を描いても蕪村絵画は作品によって線の強弱や対象の捉え方が大きく違う。強い個性(自我意識)で一定の画風を作り上げる現代作家とはそもそも絵に対するスタンスが異なるのだ。そのためパッと見ただけで蕪村作だとわかる作品は少ない。筆癖などはもちろんサイン(款記)や雅印を調べないと確かなことは言えない。真作を見極めるには何点もじっくり本物を見るのが一番だが、画家たちのサインや雅印を集めた落款ハンドブックなどが出版されていて古美術商はそれを携帯したりする。
なお蕪村に限らないが、画集の写真では洋画よりも日本画の方が圧倒的にその魅力がわかりにくい。最近では少なくなったがカラー印刷が珍しかった昭和五十年代頃にはB4版とかA3版のバカでかい豪華本画集が盛んに刊行されていた。重くてかさばるので今では嫌う人が増えて古本でも安くなっている。しかし日本画を写真で見るときはそういった大判画集が一番いい。
『採薬図』
紙本墨画淡彩 一幅 縦一二八×横四四・一センチ 江戸時代中期(十八世紀) 款記・東成謝長庚 印章・謝長庚、春星氏(白文連印) 個人蔵
『富岳列松図』
紙本墨画淡彩 一幅 縦二九・六×横一三八センチ 江戸時代中期(十八世紀) 款記・蕪村 印章・長庚、春星(白朱文連印) 愛知県美術館(木村定三コレクション)蔵
蕪村展の図録でこれはいいアイディアだと思ったのは、床に掛けた軸の写真が掲載されていることだった。谷崎潤一郎が『陰影礼賛』で書いているように掛け軸は日本間の床に飾られた時が一番美しい。江戸までの日本画は座敷や床、花入れや違い棚などの部屋の調度と調和するように描かれている。作品一点で個性を主張するかのような洋画とはそこが決定的に異なる。茶席が典型的だが御道具類を揃える時に一番大事なのは調和である。軸もそれ中心に鑑賞するときは床に飾る花入れや花を絵に合わせるのが望ましい。
『採薬図』は世捨て人の仙人が弟子の童を従え、採ってきた仙薬を手に持って家路につく姿を描いている。『富岳列松図』はこれはもう蕪村全盛期の作品で松林から覗く白富士を描いている。よく知られた名品で重文指定されている。上手いか下手かはほとんど問題にならない。こういった絵を見てそこに画家の高い精神性を感じ取れなければ技術もなにもあったものではない。
最後の南画家と呼ばれた富岡鉄斎が「南画は学者が心の中の理想郷を描く絵だ」と言ったように、写生(デッサン)で動植物の姿を捉える訓練はするが南画家の描く絵は現実に存在するとは限らない。またその探求は江戸時代までは集団的営為だった。
池大雅、浦上玉堂、田能村竹田ら江戸後期を代表する南画家の作品は似た雰囲気のものがかなりある。画家の個性を発揮するより精神的理想郷を探求する方が大事だったのである。
この理想郷を蕪村は様々な方法で探求した。近代以降の画家がその強い個性で画風を一定の形式に絞り込んでゆくのに対し、蕪村はある意味自我意識を棄てて様々な対象に理想郷を追い求めている。蕪村絵画が多様な画法を持っている理由である。
最近になって伊藤若冲、曾我蕭白、長沢蘆雪が「奇想の画家」として大変な人気である。彼らは明治近代に先駆けて強い自我意識を持って絵を描いた。その意味で現代画家に近しい心性の画家たちだった。若冲、蕭白、蘆雪の名作がアメリカボストン美術館など海外に数多く収蔵されている理由もそこにある。欧米人は鋭い感覚で早くから彼らの個性的表現を高く評価していた。
しかしつい最近まで京都画壇の絵師で最も高く評価されていたのは応挙だった。江戸時代は言うまでもない。若冲、蕭白、蘆雪らの自我意識絵画と、南画を含む日本的理想精神を表現しようとした応挙や蕪村らの絵は質的に違う。良い悪いの問題ではなく江戸後期には近代的自我意識を先取りした絵と、江戸時代では主流の非自我意識的な絵が存在した。それがはっきりわたしたちの目に見えて来たのはつい最近になってからである。この認識(パラダイム)が定着すれば、やがて入れ替わるように再び応挙らの絵が評価されることになるだろう。
なお蕪村は応挙や大雅と親しかったことが知られている。しかし家が近かったのに若冲と交流した証拠は見つかっていない。蕭白、そして応挙の弟子だった蘆雪との交流も確認できない。恐らく偶然ではないだろう。蕪村が交流した画家たちは文人画家が多かった。しかし若冲、蕭白、蘆雪らは画家で文人ではなかった。反りが合わなかったというより違うタイプの絵師で、交流しても得るものがなかったためではなかろうか。
『「又平に」自画賛』
紙本墨画淡彩 一幅 縦一〇三・四×横二六・四センチ 江戸時代中期(十八世紀) 款記・蕪村 印章・長庚、春星(白朱文連印) 逸翁美術館蔵
蕪村は俳人でもあり俳画もたくさん描いた。俳句は元々滑稽諧謔の表現でそれを芭蕉が文学にまで高めた。しかし江戸を通して洒脱な滑稽表現は俳句の大きな特色だった。江戸時代まで和歌は武士や貴族のもの、俳句は庶民のものという不文律的区分けがあったがそれは俳句が下世話な笑いをも含む表現だったからである。
蕪村の自賛は「みやこの花のちりかゝるは(土佐)光信が胡粉の剥落したるさまなれ」の詞書きの後に、「又平に逢ふや御室の花さかり」の句が書かれている。
浮世又平は伝説的浮世絵師で土佐派の宮廷絵師・土佐光信の弟子。又平は庶民の土産物用の大津絵を描く下々の絵師で光信とまみえるはずもなかった。しかし光信の前で奇蹟を起こして「又平光起」の名を与えられ、その嬉しさで舞いを舞ったと浄瑠璃『傾城反魂丹』に描かれている。
賛の意味は「京都の桜の散る様子は雅な光信の絵の胡粉が剥落する時のように美しい」で、その後に桜の名所で有名な「御室の花盛りに又平に逢った」という句が書かれている。絵の解釈を加えると花見で酔っ払って千鳥足の又平に逢ったことになる。聖(光信)と俗(又平)を対比させた見事な俳画である。又平の身体はサラリとした線で描かれているが迷いは見られない。
ほうたんやしろかねの猫こかねの蝶
心太さかしまに銀河三千尺
をちこちをちこちと打つ砧かな
狐火の燃えつくばかり枯尾花
狩衣の袖の裏這ふ螢かな
いばりせし蒲団干したり須磨の里
閻王の口や牡丹を吐かんとす
乾鮭や琴に斧うつ響あり
蕪村の絵師としての骨格が胸中の理想郷を描く南画家にあるのは確かだが、その自在さは俳句を読むとよくわかる。子規は『俳人蕪村』で蕪村俳句が蕉門以降で最も自由自在だと書いた。季語は入れたが蕪村は必ずしも五七五の定型を守らなかった。しかし俳句を読んでそれに気づく人は少ない。自在かつこなれているのだ。また子規は蕪村派の俳句を集めた『続明烏』を読んでいると、蕉門の『猿蓑』などよりも「物がはっきり活き活きとして見える」とも書いている。それは引用した俳句を読んでもわかるだろう。いずれの句もある情景がくっきり目に浮かぶ。
美術批評家は蕪村を絵師として捉え、文学者は俳人として捉える。しかし両者は密接に関係している。蕪村の絵師としての表芸は南画だが俳句に基づく俳画がその自在な画風のエッセンスを遺憾なく表している。蕪村のように絵と俳句がともに突出したベレルに達している作家は少ない。マルチジャンル作家だったわけだがなぜ絵と俳句を両立できたのか、そこにどんな関連性があるのかを考察しなければ蕪村像の本質には迫れない。蕪村の絵と俳句を切り分けるのではなく総合的に捉える必要がある。
『「春の海」自画賛』
紙本墨画淡彩 一幅 縦一一七・三×横三五センチ 江戸時代中期(十八世紀) 款記・夜半翁蕪村 印章・謝長庚、春星氏(白文連印) 個人蔵
展覧会には川端康成旧蔵で国宝の大雅との合作『十便十宜図』や晩年の傑作『鳶烏図』(重文)も展示されていた。ただそれらよりも『「春の海」自画賛』の前で足が止まりしばらく動けなくなった。この作品は初見だった。上の方の余白に蕪村代表句の一つ「春の海終日のたりのたりかな」が書かれサイン(款記)は「夜半翁蕪村」である。
絵は少しだけ青を使っているがほとんど墨である。波の形も具象的とは言えず、人によっては何が描かれているのかわからないと言うかもしれない。しかしなんと魅力的な絵と文字だろう。蕪村絵画の分類では俳画ということになるが、理想を描く南画と言ってもいいと思う。自信と勇気がなければ絶対に描けない絵だ。まじまじと解説を見ると「個人蔵」とある。多分どこかの大店骨董屋が所蔵している作品なのだろう。「ああ欲しい、持って帰りたい」と思った。じっと見ながら将来大金持ちになるまで売れませんようにと、埒もないことを考えてしまった。
鶴山裕司
(2021 / 06 / 09 22枚)
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