No.101 特別展『日本の素朴絵-ゆるい、かわいい、たのしい美術-』展
於・三井記念美術館
会期=2019/07/09~09/01
入館料=1300円(一般)
カタログ=2000円
三井記念美術館は三井本館内七階にある。通り一本隔てて日銀なので、このビルの地下からトンネルを掘ったら日銀の金庫に辿り着くのかな、と不埒なことを考えてしまいました。初めて行ったような気がしていたが、よーく考えると前に三井家の茶道具展を見に来たような気がする。志野焼の名碗・卯花墻などを見たような。
それにしても美術館に辿り着くまでに迷ってしまった。お金の匂いにつられたのか、日銀の方角に歩いて行ってしまったのでした。日銀に預金してもマイナス金利ですけど。いやその前に口座を開設できないな。
あまり来ないのは理由があって、言うまでもなく三井記念美術館は三井家の美術品を展示するための私設美術館である。基本的には三井家所蔵の美術品を、切り口を変えて展覧会を行う。そのためよほど見たい物がなければ足が向かないのですな。
今回は特別展で、三井家以外の美術品が日本各地の美術館、博物館から集められていた。『日本の素朴絵-ゆるい、かわいい、たのしい美術-』展で思わず微笑んでしまうような作品が並んでいた。見てまわるだけならとても楽しめた展覧会だったが、図録を買って帰って解説を読んで、うーんと考え込んでしまった。〝素朴絵〟の定義はけっこう難しい。
今回の展覧会のメイン・キューレターは『日本の素朴絵』や『ゆるかわ日本美術史』などを出版しておられる跡見学園女子大学教授・矢島新さんである。図録巻頭に「素朴絵の系譜」も書いておられる。矢島さんの素朴絵の定義に沿って物が集められ展覧会が開催されたわけで、その切り口は新鮮で一般受けもいい。しかしあまり言いたくないが、やっぱりうーん、うーんなのである。
本展が取り上げるゆるく素朴な絵は、(西洋発の)ファインアートの対極にある。artlessとは〝技術がない〟ことを意味するが、ファインアートとしての技術を目指さないという意味でとらえるならば、素朴絵の訳語として案外的を射ているのかもしれない。
近代以前の日本美術の最大の特長は、西洋がいうファインアート以外の部分を、種類も量も豊富に発達させたことにある。北斎や広重の浮世絵は日本絵画の代表と見なされているが、それらはわずかな小銭で買うことができた庶民のためのアートであって、支配者のための威圧的なファインアートとは性格が異なる。表現もさることながら、その点こそを評価すべきではないか。本展が紹介する素朴絵も、庶民的なアートの重要な部分を占めている。その意味では、日本美術の核心に近いところに位置している。
矢島新「素朴絵の系譜」
「素朴絵」は矢島さんの造語だが、基本的には西洋のファインアートの対極にある絵のことだ。矢島さんによると、ファインアートは「権力者のための造形」で、「常に立派で偉大なもの」という定義になる。しかしこの定義、問題がある。
矢島さんの定義では権力者=金持ちが好んだ立派な絵がファインアート、お金のない庶民が愛した絵が素朴絵になってしまう。実際「浮世絵は日本絵画の代表と見なされているが、それらはわずかな小銭で買うことができた庶民のためのアートであって、支配者のための威圧的なファインアートとは性格が異なる」と書いておられる。
しかしゴッホなど生前に絵が売れなかった西洋画家はいくらでもいる。アンリ・ルソーは日曜画家だった。当たり前だが絵の金銭価値や、宮廷画家と町の画家(非宮廷・非アカデミー画家)の地位の違いで作品の評価が分かれるわけではない。またファインアートは西洋絵画史から生まれた概念で、それとは無縁に発達してきた日本の絵にそのまま当てはめることはできない。西洋ファインアート概念によって、日本美術が世界的評価を得た面もある。
明治維新以降に日本の画家(絵師)たちが最も驚いたのは、西洋画の強烈な自我意識表現だった。パトロン(コレクター)は強い自我意識(好み)に沿って絵を注文し、画家も強烈な自我意識でそれに答え時に反発した。簡単に言えば、この強い自我意識が西洋ファインアート概念の正体である。
西洋ではパトロンと画家、時には画家同士が強烈な自我意識を闘わせるから絵は堂々として確信的表現になる。また西洋画を牽引してきたのは宗教画である。神聖な全能の神を描くには高い技術が必要だ。神意を形にできる者として芸術家が社会で特権的存在にもなった。矢島さんの言う権力・金・技巧が結びついた西洋ファインアート概念は、神の似姿である人間存在概念、つまり唯一無二の人間の自我意識を重視する西洋思想から生じている。権力・金・技巧は現世的頂点である。
政治経済から衣食住に至るまで欧化主義が吹き荒れた明治時代に、日本人画家たちが西洋画のあり方を正しいと考え、強いコンプレックスを抱いたのは当然だった。日本の画家たちは、基本的には過去作品の技法と画題を引き継いでいた。オリジナリティが高く評価されることはなく、パトロンの要望に添いながら、わずかにその個性を発揮してきたのである。
しかしこの日本人のコンプレックスは、早い段階からほかならぬ西洋人によって否定され始めた。西洋ファインアートは権力・金・技巧の単純な三位一体に留まるものではなかった。今日では世界的に一般化した概念となっているように、ファインアートは民族や宗教を越えた〝純粋美〟を評価できる奥行きを持っていた。
日本が開国すると同時にヨーロッパではジャポニズムブームが起こり、実際に西洋人が来日して日本美術を買い求めるようになった。日本の権力者たちが好んだ高級品だけでなく、廉価で俗な浮世絵や、それまでは美術と見なされていなかった仏教遺物や禅画なども高く評価されたことに日本人は驚いた。日本的に言えば、仏教遺物や禅画が単なるアートではないのは現在も同じである。寺院所蔵の仏像を美術館に貸し出す時には僧侶による法要が行われる。どんなに滑稽な内容の禅画であっても、禅者の思想を理解しなければ正確に鑑賞できない。
ただ日本人は西洋人によって、封建的な身分の貴賤、画題の聖俗、強烈な自我意識の有無などが、必ずしも美術の評価と関係がないことを教えられた。柳宗悦らの民芸運動は言うまでもなくその延長線上にある。矢島さんの素朴絵もまた、基本的には柳の民芸運動を拡大解釈したものだ。しかしその定義は恣意的で抑制が利いていない。
素朴絵をふんわりと「ゆるい、かわいい、たのしい美術」と定義するならなにも問題はない。美術館を訪れた人が作品を見て「ゆるキャラだね」「かわいいね」と言うのはかまわないのだ。しかし学者さんが美術界に一石を投じる試みとして「素朴絵」を定義するなら、もっと厳密な思考が必要である。
矢島さんがその著書や今回の展覧会で集めた素朴絵は、古代から明治時代にまで及ぶ。中には名品もあり、素朴絵とは別の解釈で評価されてきた作品もある。しかし素朴絵論には既存の評価・解釈を越える説得力がない。西洋ファインアートなど様々な対立概念を持ち出しておられるが、論理が恣意的ですり替えも多い。矢島さんが「これは素朴絵」と言えばどんな作品でも素朴絵になってしまう。主観で素朴絵が選ばれているわけで、それでは学問とは言えない。
もちろん美術の世界では作品がメインである。美術館を訪れる人はもちろん、美術本を買う人だって大半がちゃんと解説を読んでいない。美術は人間の感性に訴えかける芸術であり美術本は漫然と眺める絵本なのだ。一般の美術愛好家は作品に安らぎや癒しを求め、創作者は作品からインスピレーションを得ようとする。
矢島さんの素朴絵論は美術論としては賛同できなくても、本などにまとめて掲載された作品は一定の影響を与えるだろう。このあたりが美術の面白いところで、かなり強引だが既存の美術セオリー(ジャンル分類、個別評価etc.)を脱構築なさったわけだ。それは評価されるべきだが、理論的な不備はやはり指摘しておかねばならない。
主観的選択基準を無視すれば、素朴絵は無作為にそうなった絵と作為的に制作された作品に大別される。制作者は大真面目でも、技術が未熟で素朴な絵になってしまった場合などが無作為の素朴絵である。無心だから美しく見えるものがある。たいていは作者名もわからない。このカテゴリーは柳宗悦の民芸にすっぽり含まれる。しかし作家が作為的に稚拙な表現にした作品の内実は複雑で、簡単には総括できない。
作為的な素朴絵が増えるのはおおむね江戸後期以降である。たとえば江戸の浮世絵は技術的に洗練を極めていた。廉価版以外に豪華な大判錦絵シリーズや限定版も販売されていた。葛飾北斎を筆頭に絵師としての高い矜恃を持つ者もいた。しかしあえて稚拙な絵を販売したこともある。
近年評価がうなぎ登りの歌川国芳は、天保の改革時代に「むだ書き」(今でいう落書き)シリーズを作った。奢侈禁止令の一環で役者絵や美人画が禁止されたので、描写も構図も飛びきり上手い絵師だったにも関わらず、国芳はあえて庶民が壁に落書きしたような平板な役者の似顔絵などを装ったのだった。ただし大上段の権力批判ではない。権力のうしろ頭をスリッパで叩くような江戸っ子の諧謔だ。国芳は用心深く知的な人だったことがわかる。
これ以外にも江戸後期には禅僧らの自由奔放な禅画が増えた。俳画や南画にはわざと技巧を捨て去ったような作品がある。本職の画家が時にユーモアや諧謔を交えたサラリと簡素な絵を描いた例は枚挙にいとまがない。意図して描かれた稚拙な絵は無作為の素朴絵とは質が違う。
後になってから昔の無名の人たちの素朴で素直な表現を喜ぶ民芸とは違い、同時代に作家があえて稚拙に崩した作品が社会に受け入れられるためには、人々の繊細な感性と高い知性が必要だ。江戸時代後期にははっきりとそういった土壌が形成されていた。それが日本文化のどこから生じているのかは興味深い問題である。モノを遡ってゆけば室町時代くらいまではその源泉を辿れる。
『墨書人面土器』
土器 径一五・五×高九・二センチ 奈良~平安時代 京都市蔵
『墨書人面土器』は京都に遷都して都が定まる前の、長岡京の祭祀遺跡から実に五八四個も出土した。土器や甕の胴体に墨で人面が描いてある。マンガのようなとぼけた感じだが、描いた人は大真面目だったはずだ。絵は擬人化された疫病神という説が有力で、土器に人面を描いた後に息を吹きかけ、紙で蓋をして河川に流したのではないかと考えられている。
この時代、土器も墨も紙も貴重だった。貴族でも食器類は白木の木器が主流で、漆塗り製品を使える貴人はほんの一握りだった。一箇所の発掘調査だけで五八四個の出土は、人々がいかに疫病と死を恐れていたのかを示している。また文字をともなう人面土器は発掘されていなので、この風習(祭祀)は仏教以前のアニミズム的なものだったろう。
『墨書人面土器』は発掘品だが、手から手へと大事に受け継がれて来た奈良から鎌倉時代の伝世品もそれほど多くない。寺社仏閣などに所蔵され、残るべくして残った物ばかりである。中には今日の目から見ると素朴でユーモラスな作品もあるが、技術的問題でそうなっている場合がほとんどだ。
この状況は室町時代初期、おおむね南北朝時代頃になると大きく変わってくる。社会が豊かになって人口が増え、様々な生活用品が大量に作られ消費されるようになったのだ。出土品も伝世作品も飛躍的に増え、その種類も多岐に渡るようになる。最も重要なのは文字情報の飛躍的な増大である。
絵入本『かるかや』部分
紙本着色 二帖 各縦三二・二×横二三・三センチ 室町時代(十六世紀) サントリー美術館蔵
日本文化の基礎となった平安・鎌倉時代、そして群雄割拠した戦国時代から様々な文化が開花した江戸時代と比べると室町時代は地味である。しかし中世室町が古代から近世への転換期だった。柳田国男は民族学的に伝承や物(遺物)を追っていっても、鎌倉時代以前の庶民の生活はわからないと言った。それはまったくその通りで、室町に入ってようやくたくさんの庶民芸術が確認できるようになる。
『かるかや』は平曲(『平家物語』の朗唱演奏)から生じた説経節(語りモノ演芸)の一つである。ストーリーだが筑前国の武士が妻子を残して突然出家した。妻子は父を追って高野山まで来る。母は病死するが子は父に再会できた。しかし父は父親だと名乗らない。二人は親子と知りつつも出家して修行に励み、同日同時刻に亡くなって浄土に向かった。現世の家族関係よりも来世の結縁を重視した典型的な仏教説話である。
絵入本『かるかや』は文字を読み書きできる人が口誦『かるかや』を文字に起こして絵を付けたものである。詞書きも絵も素人臭いが、それがかえって絵入本の原初型を示している。娯楽が少なく版木による大量生産もできなかった時代には書物は筆写するしかなかった。絵入本『かるかや』は読んで楽しむ冊子のための筆写用原本だったのかもしれない。いずれにせよ回し読みされたのは確実である。江戸に入ると説話を含む絵入小説は草双紙と呼ばれ大量出版(印刷)されるようになる。
平安時代には『古今和歌集』を嚆矢に和歌文学が開花し、和歌を母体に『源氏物語』などの物語文学が生まれた。『源氏』は仏教思想をバックグラウンドにしていたが、より直接的に仏教的教訓を説く『日本霊異記』『今昔物語』『宇治拾遺物語』などの説話集も数多く生まれた。鎌倉時代には戦記物を代表する『平家物語』が成立した。全国を遊行する琵琶法師が語り謡う娯楽だったが、その詞書の高い修辞的洗練から言って知識人貴族が作ったのは間違いない。
つまり平安・鎌倉の物語・説話文学はほぼすべて貴族や僧侶などの知識人によって書かれた。しかし庶民の間ではより平易で俗な形で様々な物語、説話が語り伝えられていたはずで、それが室町時代になると一気に噴き出してくる。また庶民文化と貴族文化が分離していたわけではない。貴族文化が平俗化されたのと同時に、庶民文化は時に貴族や高級武士の芸術にまで昇華された。たとえば滑稽・諧謔中心の歌舞だった猿楽が雅な能楽に発展している。
また古代から存在していた仏画を除けば、平安・鎌倉時代の絵は絵巻がほとんどだった。『源氏物語絵巻』や『鳥獣戯画』が代表的である。いずれも天皇に近い宮中で制作されている。しかし室町時代には絵巻のほかに絵入冊子が現れた。華麗な色絵を軸や屏風にして鑑賞し、その反対に地味な墨一色の水墨画を珍重するなど、画題も絵の形態も一気に増えた。
その最大の理由は社会が豊かになったからだが、具体的には知的階層の人々が大幅に増加してそのレベルが上がったからである。鎌倉・室町時代に五山が開かれ、大寺院が一大学問センターになったことなどが大きく影響している。僧侶は知識人だった。江戸になるとそれに儒者が加わる。日本では院体画や水墨画を始めとする新しい絵画はすべて、漢籍が読める知識人僧侶によって中国から移入された。絵の意味(意義)がわからなければ、ある画風が一世を風靡するはずがない。絵画の発展は文字情報(知識)の発展と歩みを同じくしている。いつの時代でもどの文化圏でも同じだが、文字を拠り所にした哲学的思想の発展がなければ絵画はずっと原始的なままだ。
また高度な技法が確立されているのにあえて稚拙な絵が描かれ、それを喜ぶ人々が現れるにはさらに高い文化的成熟が必要である。室町初期の文化はまだ古代的稚拙さを残しているが、後期になるにつれ文化はどんどん洗練されてゆく。江戸に入るとそれが爛熟と呼んでいいほどの完成度を見せることになる。
白隠慧鶴筆『隻手布袋図』
紙本墨画 一幅 縦四二・七×横五八センチ 江戸時代(十八世紀)
池大雅筆『布袋図』
紙本墨画 一幅 縦三三・二×横四五・七センチ 江戸時代(十八世紀)
耳鳥斎画『水や空』部分
紙本木版墨摺 三冊のうち一冊(上) 縦二二・三×横一六センチ 江戸時代・安永九年(一七八〇年) 大屋書房
意識的に技巧を排した絵は禅画、南画、戯画の三つに大別できる。
禅が雪舟以来の水墨画の伝統を持っているのは言うまでもない。白隠禅師は江戸中後期の臨済宗の高僧の一人で、わかりやすく禅の教えを広めるために数多くの書物を書きユーモラスな絵を描いた。自身の修行と布教のための絵だから巧拙を気にしない。ただ学問と宗教心に裏付けられているので堂々とした絵である。また賛が添えられている場合はそれを読まなければ絵の意図を理解できない。もちろん禅の教えや社会道徳などが書かれている。
南画は基本的に、儒教を学んだ学者が手がける絵である。室町中期頃から描かれるようになったが最盛期は江戸後期である。池大雅は与謝蕪村らと並ぶ江戸後期を代表する南画家である。着色の大作も描いたが『布袋図』のような略筆作品もある。洋画が油絵とデッサンに分かれてしまうのに対して、日本画では緻密な着色画と簡素な墨画両方が完成し独立した表現になり得た。南画家に限らず狩野派などの絵師たちも禅系の水墨画を学んでいた。宗教者ではないが、南画家が水墨画を描く際は世界を達観したような作品になることが多い。人や自然の本質を最低限の筆で描くのである。もちろん簡素に見えても容易に真似できないプロの作品である。
戯画は浮世絵が代表である。耳鳥斎は浮世絵全盛期から半世紀ほど前に活躍したが、浮世絵師としてはちょっと特殊である。役者の似顔絵などで人気があったが耳鳥斎ほど簡素な似せ絵はほかに例がない。役者本人が見たら嫌がるほど誇張し簡略化した戯画を面白がる人たちがいたわけである。耳鳥斎の生涯の機微はわかっていないが生活に困っていた気配はなく、大坂の高等遊民の一人だったようだ。耳鳥斎本人を含む滑稽諧謔を好むサークルからその絵の面白さがじょじょに拡がっていったらしい。
禅画、南画、戯画は無技巧に見える絵の代表格で素朴絵的な作品の宝庫だが、そこにははっきりとした文化的背景がある。感覚的に無技巧そうな絵を素朴画とするなら、あらゆる時代からどんな作品でも選ぶことができる。しかし実際には時代が下るにつれて、無技巧的な絵は強い意志的表現になっている。
南天棒筆『雲水托鉢図』
紙本墨画 対幅 各縦一二二・五×横二九・五センチ 大正時代
軽い気持ちで眺めるだけの図録(絵本)に南天棒こと中原鄧州の水墨禅画が含まれているのは楽しい。しかし楽しいという最初の敷居を越えてしまった者は、なぜこんなに簡単で誰でも描けそうな絵が面白いのか、迫力があるのか、目が記憶してしまうのか、名品と呼ばれているのか考え始めるだろう。それをきっちり説明し読者に納得させるのが美術批評本来の役割である。南天棒が極めて熾烈で剣呑な性格の持ち主の禅者だったのは言うまでもない。その反語表現として禅画がある。
絵は絵だけで成立しているわけではない。美術批評を含む哲学思想の発達とあいまって、じょじょに複雑で洗練された美を表現できるようになった。なるほど絵は感覚的なものだが、優れた絵を見分ける目を持つにも優れた絵を描くにも知性が必要だ。
たとえば毎年のようにゆるキャラグランプリが開催されている。ゆるキャラ制作者は、まずはゆるキャラの前提となるテーマを認識し、その制約の中で具体的テーマを抽象化してゆく。テーマそのものの表現であっては面白味がないし、離れすぎていてもいけない。ある本質がピタリと表現されている作品が理想である。
意識的な素朴絵(技巧を排した絵)の構造も優れたゆるキャラと変わらない。人や自然、動植物の本質を簡略化した筆でピタリと絵にする。そんな絵を評価し、あるいは制作できるようになるためには、考えること――つまり文字を媒介とした知性と目の感覚との相乗効果が必要である。感覚的芸術を感覚のみで了解したつもりになっていたのでは限界がある。
美術批評が読まれないのは本当のことである。実際、音楽や映画批評と並んで美術批評は最も売れない本だと言われている。しかし美術批評家は、当たり前だが読者が読んでしまうような文章を書こうと努力しなければならない。理想は図版がなくても読まれる美術批評である。単なる絵の鑑賞説明を越えて、読者が得るものがあると感じなければ読んでもらえない。美術批評の質ということで言えば、図版の力に頼り切った美術本は失格ということである。
鶴山裕司
(2019/08/07)
■ 素朴絵関連の本 ■
■ 鶴山裕司さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■