No.116『国宝 聖林寺十一面観音 三輪山信仰のみほとけ』展
於・東京国立博物館
会期=2021/06/22~09/12
入館料=1,500円(一般)
カタログ=1,800円
コロナが少しだけ落ち着いてきたので公設、私設を問わずようやく美術館が開館され始めました。見たい美術展を見に行っているだけなのだが、美術以外にこれといった楽しみがないので美術館が閉まるととっても困る。中規以上の美術館は入館予約制を取っていてちょいと手間だが展覧会が再開されたのは嬉しい。
今回は東京国立博物館開催の『国宝 聖林寺十一面観音 三輪山信仰のみほとけ』展である。奈良国立博物館からの巡回展だが、東博では本館特別室での展示なので比較的小規模な展覧会だ。本来は去年(二〇二〇年)の東京オリンピックに合わせて開催されるはずだったのだが今年に延期されてようやく実現した。聖林寺の十一面観音像が東都にお出ましになるのはこれが初めてである。
東大寺二月堂で毎年三月一日から十四日まで修二会(お水取り)が行われるのはよく知られている。修二会の正式名称は「十一面侮過」である。「十一面」とあることからわかるように二月堂のご本尊は二体の十一面観音像である。大観音と小観音で小観音は厨子に納められているのでかなり小さい。ただし絶対秘仏で一度も公開されたことがない。修二会を執り行う僧侶の練行衆ですらお姿を見ることはできない。
で、修二会(お水取り)で何をするのかというと、ご本尊の十一面観音像にこの世の罪業を懺悔(侮過)して清めていただくのである。修二会は二月堂前の若狭井から汲んだ水をお供えするところから始まるのでお水取りと呼ばれるようにもなった。古代日本では戦乱や飢饉、疫病はこの世の穢れで病気の一種だと考えられていた。それを清め癒していただくために国家行事として修二会が行われたのだった。
これもよく知られているが東大寺は天平勝宝四年(七四九年)の創建である。二月堂もその時建てられたが二月堂のあたりは東大寺以前から寺院があったエリアである。修二会は大仏開眼供養の年に初めて行われたとされているので、秘仏のご本尊は大仏様建立以前から伝わっていた可能性が高い。推測というか物事の成り立ちを考えれば、厨子に納められた小観音は金銅仏で大観音はそれを大きくした乾漆仏ではないかという気がする。
もちろん二月堂ご本尊の大小十一面観音像は今後も公開されることはないだろうからハッキリしたことはわからない。ただ今回展示された聖林寺十一面観音像は制作年代が二月堂大観音像に近い。日本で作られた最古に近い十一面観音像を拝観することができるわけである。また十一面観音像は疫病退散のご利益もあると言われているので、拝観するともしかするとコロナ除けになるかもしれませんよ。
聖林寺十一面観音菩薩立像
一軀 木芯乾漆造り、漆箔 像高二〇九・一センチ 奈良時代 八世紀 奈良 聖林寺蔵
昔のお寺(伽藍)の内部は暗く光は灯明くらいしかなかったので、古い仏像を見る時は背景は黒一色の方がいい。ところどころ金箔が残っていることからわかるように製作当初はキンキラキンだった。薄暗がりの中で金色に光っていたのである。座って拝む参拝者を見下ろす背丈だ。少しだけ前屈みで半眼だから、姿勢を低くするとじっと見られているような感じがする。西暦で言うと七〇〇年代後半に作られたと推定されているので一二〇〇年近く経っている。もちろん修復の手は入っているだろうが驚異的な保存状態である。聖林寺十一面観音像も長く秘仏として伝来した。
この仏像は木芯乾漆造りという技法で作られている。平安時代になると仏像のほとんどが木を削った木造になるが、奈良時代から平安初期の仏像は漆を固めて作ることが多かった。扱いにくい漆を何万回も塗り重ねて厚い層にして、そのうえで仏様の複雑な顔や着物の形に成形してゆくのである。よくこんな方法で仏像が造れるなぁという技法である。仏教熱盛んな時期には製作に手間とお金がかかる技法の方がありがたみが増すように感じられたのだろう。技法は大別して脱活乾漆造りと木芯乾漆造りの二種類がある。
簡単に言うと脱活乾漆造りは中が空洞で布と漆だけで表面が造られている。土型の上に布と漆を張って表面を造り、その後土型を取り除くのである。ただそれでは強度が足りないので中に木を組んで補強している。しかしこの技法は大変なのでやがて木心乾漆造りが主流になった。木心乾漆造りでは太い木を削って大まかな仏像の形を作り、その上に布と漆を乗せて細部を作る。漆は乾くとほとんど収縮しないが木は年月が経つと痩せて割れたりするので、背中に内刳りという四角い穴を開ける。そうすると木が縮んでも内刳の穴がそれを吸収してくれる。
古墳から飛鳥時代にかけては日本と朝鮮との交流が最も密だった時期である。仏教が朝鮮半島経由で伝来したのはもちろん、仏像や経典も朝鮮から輸入された。当時の日本には仏像を造る技術がなく船で運べる小さな金銅仏を朝鮮から輸入していた。東博の法隆寺宝物館に行けば飛鳥時代の金銅仏を見ることができる。法隆寺宝物館を観覧すると古い金銅仏などいくらでもあるように錯覚してしまうが現実には存在しない。法隆寺などに伝わったモノだけしか残っていないと言っていい。
仏教が定着しお寺も大きくなり参拝者が増えると当然大きな仏像が必要になる。乾漆仏はそういったニーズに応えるために製作された。技法は中国伝来のもので遣隋使・遣唐使によって移入された――というより遣隋使・遣唐使が中国から仏師を連れてきたのだろう。飛鳥時代の仏様は朝鮮仏だなぁと感じるものがけっこうあるが、奈良時代も末になると中国様式に和様が加わるようになる。
脱活乾漆造りと木心乾漆造りでは中が空洞の脱活の方が古い。だから聖林寺十一面観音像は最初期の乾漆仏ではない。しかし厳しくも実に優美なお姿である。東大寺の工房など大和政権中央の一流仏師の作だと考えられている。
わたしたちは仏像を見慣れているので最初はどれもこれも同じように見えてしまう。しかし漫然とであれ数を見てゆくと飛鳥、奈良(天平)、平安、鎌倉となんとなく当たりがつくようになる。さすがに飛鳥・奈良仏ではそんなことはないが、平安時代に入ると中央作と地方作にかなりの差が出る。平安時代には地方豪族も豊かになったので盛んに寺を建て仏像を造った。ただなかなか腕のいい中央仏師は来てくれない。製作年代は古くても「うーん、田舎仏だね」という作品になってしまったりするのだ。
聖林寺十一面観音菩薩立像 頭部
同
十一面観音像が十一面観音である理由は頭の上に十一個の小さな面(頭)が乗っているからである。前の三面は穏やかなお顔の菩薩面(慈悲相)で、像の左側三面は怒っているような瞋怒面(瞋怒相)、右側三面は口の両端から牙が上に向かって飛び出している牙上出面(白牙上出相)、真後ろの一面は笑っている大笑面(暴悪大笑相)、そしてこの十個の面(頭)の上に乗っているのが頂上仏面である。十一面のうち八個が製作当初のまま残っている。
仏典は観音様はいろいろなお姿で地上に現れると説いているので、頭部の十一面は観音様の変化のあり方を示している。慈悲も怒りも笑いのお姿もあるわけだ。ぐるりと頭を取り巻いているのですべての方向にお顔を向けて衆生を救済してくださるということでもある。
なお観音様はお身体から光を放っているので、造られた当初は背中に光背と呼ばれる板状の飾りが取り付けられていた。いわゆる後光である。聖林寺十一面観音の光背は残念ながら今は残欠しか残っていない。正確な形はわからないが、光背を含めると背丈が四メートル近くになるようだ。天井の高い大きな伽藍に安置されていたことになる。
三輪山絵図
一幅 紙本着色 縦一七九×横一二七センチ 室町時代 十六世紀 奈良 大神神社
感覚的に「これ好き、嫌い」と言えるような近現代絵画などと違って、仏教美術では多かれ少なかれそれが伝来した背景の理解が必要になる。仏教遺物は当時の美意識、技術、宗教精神、政治などの総合だからである。
『三輪山絵図』はだいぶ時代が下って室町時代の作である。奈良の三輪山は古代から、というよりほとんど日本人の発生と同時に神の山として崇められていた。三輪山をご神体して宗教施設が造られていったのである。
絵図上部に描かれているのが三つに盛り上がった三輪山である。三輪山の下、向かってやや左の一番大きな建物が大神神社、その左に檜原神社、右に平等寺(神宮寺)、真ん中左に大御輪寺などが描かれている。広大な敷地だったわけだがその中に神社と寺院が点在しているのがわかるだろう。このエリアは大神神社を中心とした初期神仏習合の複合施設だった。
なおこういった絵図は寺院曼荼羅の原型である。春日曼荼羅が代表的だが寺社の配置そのものを神聖なものとして参拝するのである。実際に寺社に足を運べない人が拝んだだけでなく、貸し出されて衆生に寺社の縁起を説く際にも使われた。
三輪山の始まり(縁起)だが『古事記』に大国主神の前に大物主大神が現れ、国造りを成し遂げるために我を祀れと要求したとある。そのため三輪山はご神体だが、それと同時に大物主大神を祀る大神神社が造られた。大物主大神は荒ぶる神であり疫病を流行らせることもあるとされた。大物主神の荒魂を鎮めるためにお祀りする必要があったのである。
奈良時代になり仏教が大和政権に根付くと本地垂迹説があらわれ、神社の中に寺院が建設されるようになった。日本の神々の本来の姿は仏教の仏であるという思想で神仏習合とも呼ばれる。まず大神神社の敷地内に大神寺が建てられた。神社の中のお寺を神宮寺と呼ぶので大神寺が最初の神宮寺である。平安末から鎌倉初期の頃には平等寺が建立されこれが大神神社の神宮寺の位置付けになった。また鎌倉時代に大神寺は大御輪寺と名称が改められた。
十一面観音像は大神神社当初の神宮寺である大御輪寺(旧大神寺)に長く秘仏として安置されていた。願主(注文主)は天武天皇の孫の智努王(出家後の名は文室浄三)と推定されているので、浄三没年の七七〇年以前に完成していたと思われる。皇孫の発願仏だから完成度が高く朝廷の庇護も厚かったわけである。
大御輪寺に安置されていた十一面観音が現在の所有者である聖林寺に移されたのは明治になってからである。明治元年(一八六八年)に神仏判然令(いわゆる廃仏毀釈令)が通達され、神道と仏教を明確に分離することが厳しく求められた。この時十一面観音像だけでなく、大御輪寺に十一面観音と並べて崇拝されていた地蔵菩薩像(平安初期[九世紀]作)も聖林寺に移され、さらに法隆寺に移された。同寺所蔵の平安時代中期(十~十一世紀作)作の不動明王座像は玄賓庵に移され、同じく平安中期作の日光・月光菩薩像は正暦寺に移された。
廃仏毀釈令は今振り返ると天下の愚策で、この時日本各地の寺社で千年以上守り受け継がれて来た多くの仏像や経典、仏具などが破壊され民間に流出した。ただどこの国でも国家の存続が危機に瀕するとあっという間に強烈な国粋主義が勃興する。機能停止に陥った幕府と虎視眈々と植民地化を狙う欧米列強の狭間で、社会を一新して新たな国家を作ろうとした明治維新期に神道を至上として外来仏教を排斥する廃仏毀釈運動が吹き荒れたのはある程度は致し方ない。
しかし奈良時代にすでに神宮寺という形で神仏習合が行われていたことからもわかるように、日本文化の発展から仏教を排除することはできない。確かに神道は仏教以前から存在した日本最古の宗教(信仰)である。しかし文字以前の宗教なので神道には明文化された根本経典は存在しない。文字(漢字で後に平仮名を生むことになる)はもちろん思想も仏教によって日本に流入した。今日わたしたちが神道をある程度明確に把握できるのは文字があるから、つまりは仏教との比較によってである。日本文化発展の実質的原動力は仏教(文字と思想)だった。
また東大寺・興福寺のあるあたりは奈良時代の仏教の中心地だった。そこから少し離れた三輪山は神道の聖地(ご神体)だったわけだが、そこにまず神社が造られ、次いでお寺(神宮寺)が造られたのはこの時代の神仏習合(本地垂迹説)の影響力の強さをよく表している。大神神社に神宮寺が造られたということは朝廷が神仏習合をオーソライズしたということであり、それに倣って全国の神社に神宮寺が造られるようになった。
その影響力は神道の本拠地伊勢神宮にも及び、一時期神宮寺が造られたがやがて廃された。まあ当然でしょうね。伊勢神宮も奈良時代初期にその基盤が整えられたわけだが、『日本書紀』に書かれている伊勢神宮の場所選定の経緯は別として、仏教センターの奈良から遠く離れ影響の及ばない実に絶妙な場所に造営されている。
(左)『十一面神呪心経』
一巻 紙本墨書 縦二五・八×長四八四・一センチ 奈良時代 八世紀 大阪 四天王寺蔵
(右)『大般若経』巻第七十
六百帖の内(折本) 紙本墨書 縦二五・一×横七センチ(巻十一の寸法) 平安時代 十二世紀 奈良 大神神社蔵
『十一面神呪心経』は十一面観音菩薩の神秘的呪文とその威力を説いた経典である。現在は大阪の四天王寺蔵だが経典巻末に「大御輪寺経蔵」とある。永正年間(一五〇四~二一年)の書き込みなので、室町時代には確実に大御輪寺の経蔵にあったことがわかる。恐らくそれ以前から十一面観音像とセットで信仰されていたのだろう。
『大般若経』は仏教の基本経典で六百巻にも及ぶ。大神神社には巻物ではなく折本に仕立て直された『大般若経』全六百帖が伝来している。巻末に「大和国三輪社」の墨書があり、遅くとも鎌倉時代後期には大神神社所蔵になっていたと考えられている。
経典も仏教美術には付きものだが、数も種類も多いのでなにがなんだかという感じになりやすい。もちろん文字なのだから意味があり、また仏前で読む(お経を唱える)ためのものでもある。ただじっと文字を見ているだけでも時代精神は感受できる。
『十一面神呪心経』は八世紀の字で『大般若経』は十二世紀の字である。最低でも三百年強は時代を隔てているわけだが、眺めていると左側の『十一面神呪心経』の方がピリッとしていて字が丁寧だとわかるだろう。いわば気合いの入り方が違う。
残っているものは少ないが、奈良から平安時代にかけて何千万巻という経典が書写された。それにつれて字(漢字)の書き方が緩くなってゆくのである。また中国漢文と日本語では文法が違う。漢文経典を読み下すためにヲコト点と呼ばれる符号が生まれ、そこから平仮名が生み出された。仏教経典は日本語表記の原点でもある。
奈良県桜井市 山ノ神遺跡出土品 酒造りに関わる土製品(ミニチュア)
古墳時代 五~六世紀 東京国立博物館蔵
大神神社周辺には古墳時代頃の祭祀遺跡が数多くある。神社もお寺も文字もない時代から三輪山を祀る祭祀が行われていた証拠である。山ノ神遺跡出土品には酒造りに必要な道具のミニチュア土製品(土師器)が含まれている。『万葉集』では「味酒」が三輪山の枕詞だがそれを裏付けるような遺物である。三輪山周辺では古代から酒造りが盛んだったわけだが祭祀と酒(陶酔)の関係も見えてくる。
原始的製品しか作る力がなかった古墳時代から、仏教が伝来した飛鳥時代を経て聖林寺十一面観音菩薩立像のような完成度の高い仏像を製作できるようになるまでおよそ二百年強である。古い時代には世の中の変化が遅かったと思われがちだが古墳、飛鳥、奈良朝初期の遺物を丹念に見てゆくと、この時代の文化移入力、吸収力が凄まじいものだったことがわかる。古代社会は急激に変化していた。
味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見さけむ山を 情なく 雲の 隠さふべしや
額田王『万葉集』巻一(十七)
額田王の「味酒」長歌は『万葉集』巻一収録、ということは最も古い時代の古代歌謡である。額田王は天武天皇の妃。長歌は言うまでもなく短歌以前の歌謡だ。
天智から天武天皇にかけての社会は動乱が多かった。皇太子時代だが天智天皇は中臣鎌足と謀って大化の改新を断行した。また百済救済のために朝鮮に出兵して白村江の戦いで新羅軍に惨敗してもいる。崩御すると皇統争いが起こった。
天智は皇子(息子)の大友皇子に継がせたかったが天智の弟の大海人皇子との間で壬申の乱が起こり、大海人皇子が勝利して天武天皇に即位した。裏付けはないが額田王は天武に嫁する前に天智に寵愛されていたという伝承がある。
長歌の大意は「うま酒の 三輪の山を 青々と美しい 奈良の山が 山の端に 隠れてしまうまで 道が折れ曲がり折れ曲がりしても じっと 見てゆきたいと思うのに 何度も何度も 遠くに見ながら行きたいのに 無情にも 雲が 隠してしまうのですね」ということになる。天智天皇が飛鳥から近江に遷都した際に詠んだ長歌だと伝わる。
住み慣れた飛鳥宮を去る心細さを詠んだというのが字義通りの解釈だが、繰り返し繰り返し思いを表現する長歌の特徴もあって、飛鳥宮に残った思い人への恋慕を歌った長歌ではないかという解釈もある。具体的には天智の命で飛鳥宮を離れたわけだが、天武(大海人皇子)のいる宮を振り返らずにはいられないということになる。
額田王は聖林寺十一面観音が作られた時代より百年以上前の人である。長歌から彼女の時代にはすでに三輪山が朝廷の人々にとって精神的ランドマークになっていたことがわかる。『万葉』には三輪山を歌った歌がかなりある。大神神社を中核とする三輪山宗教施設は文学とも強い関連性を持っているのである。
ちょっと前まで仏教というと、まあ言葉は悪いが葬式仏教のイメージだった。普段はほとんど意識に登らない辛気くさい宗教のイメージである。しかしそれもじょじょに変わってきたように感じる。
これは僕の身体感覚だが、二〇〇〇年前後に日本文化は本当に欧米文化と肩を並べて相互影響を与え始めたように思う。それと同時に過去の日本文化や思想の捉え方が変化し始めたようにも感じる。仏教は宗教としてだけでなく、日本文化全般に甚大な影響を与えている。その道筋が以前よりもハッキリ見えて来たように感じるのだ。
東博は日本の博物館・美術館の頂点に立つ施設だけあって、仏教系の展覧会がかなり頻繁に開かれる。その切り口も今後少しずつ変わってゆくだろう。仏教美術を見る人たちにとっても以前より遙かに考えるヒントが多い展覧会になってゆくのではないかと思う。
鶴山裕司
(2021 / 07 /07 19枚)
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