新年一発目の言葉と骨董なので気合いの入った骨董エッセイ、ではなく、今僕の机の上に乗っている骨董で気楽に書いてみたい。人間誰しも快楽原理はあるもので、自宅でもキチンとした格好をしていたい人、グルメの人、車好き、ブランド好きなど様々である。骨董好きは身近に骨董があるとなんとなく嬉しい。ただ骨董も様々で、「なんでも鑑定団」で高額評価が出るようなものばかりではない。またそんな物は持っていないが超高額、つまり骨董として貴重な物を日常的に使うのはやっぱり気が引ける。普段使いにすると欠けたり壊れたりすることが多い。値段もそこそこで希少性もさほどではない骨董が机の上に乗っている。
江戸ガラス 鯛之福玉
手彫り切子ガラス 江戸時代後期
縦五・三×幅二・四×高三・五センチ(最大値) 著者蔵
一つ目は江戸ガラスの鯛之福玉でガラス製の根付である。江戸の人たちは着物だったからポケットがない。物を袂に入れると落としてしまうことが多いので、巾着袋や印籠、煙草入れなどを持ち歩いていた。帯からぶら下げていたので提げ物と呼ばれる。根付は提げ物から伸びた紐の先に付け、帯に挟んで固定するための留め具である。象牙製の物が有名だが金属やガラス製の物もある。超絶技巧で彫られた小さな象牙の根付は世界中に熱心なコレクターがいる。ただし一番珍しいのは江戸ガラスの根付である。
皿や鉢や盃を含めれば決して数が少ないわけではないのだが、江戸ガラスは高い。親しくしている骨董屋の専門の一つが江戸ガラスなので、物だけは今までたくさん見せてもらった。どこかの美術館に入ったはずだが、ガラスの表面にぎやまん彫りで龍を彫った珍しい硯屏も手に取った。しかしそんな品はとてもじゃないけど手が出ない。面白いので欲しいなぁとは思うのだが、前に紹介した金魚玉を含めて数点しか持っていない。
その骨董屋の店は都心ど真ん中にある。コロナが流行り始めた頃、一番感染リスクが高いとまことしやかに噂されたエリアだ。「骨董屋にもコロナの影響はあるの?」と聞いたら、「お客さんが少なくなりましたねぇ。それに売る人も骨董屋と接触したくないみたいで、物もあんまり出なくなりました」という返事だった。コロナは社会の隅々にまで影響を与えていますなぁ。
それでもある日お店に行ったら江戸ガラスを三点仕入れていた。一点は練り上げと呼ばれるマーブル模様の盃で、あとの二点はゲンコツと呼ばれる円盤型の根付、それに鯛之福玉の根付だった。練り上げの江戸ガラスが飛びきり高いのはわかっていたから迷わず値段を聞いてみた。はなっから買えない物の方が値段を聞きやすい。が、将来リッチになった時のために一応相場は知っておきたいのである。
「二五〇万ですぅ」
「あそ」
「でももう売れました」
「そりゃ景気がよくていいねぇ」
練り上げ盃は、江戸ガラスの世界ではよく知られたコレクターの社長さんが、見せたとたんにお買い上げになったのだという。気が楽になって「ほんじゃこれは?」とゲンコツと鯛の値段を聞いてみたら、意外にこなれていた。ゲンコツが一番安かったがなんの変哲もない円盤型で面白味がない。だんぜん鯛の方が魅力があるわけで「じゃ買う」と言って譲ってもらった。練り上げ盃が売れたので、ちょっと安かったかもしれない。落ち穂拾いのような骨董買いですな、社長さんありがとう。若い女の子に人気のファッションブランド、ヴィヴィアン・ウエストウッドの高いバッグくらいの値段である。それでもちっこい鯛に何万円も出すのは狂気のようだが、貯金が趣味の人でない限り人間何かにお金を使う。僕は骨董は買うがファッションやグルメにはまったく興味がない。
鯛は口に玉をくわえている。タイノエと玉の二説があるようだ。タイノエは鯛の口に寄生する寄生虫だが、玉のように見えたので江戸時代には縁起物とされた。もう一つの説は如意宝珠である。仏教で願いをかなえてくれる霊験あらたかな玉である。仏様が手に乗せている玉や龍が持っている玉、欄干や仏塔の上に乗っている玉はすべて如意宝珠だ。神社の御朱印にも使われることがある。インド・パキスタンの初期仏教の時代からあったが、中国でサンスクリット語が漢訳されて如意宝珠と表記されてから中国的ギョクの権威も加わった。中国歴代皇帝は金銀ダイヤモンドではなく玉を最上の貴石としたが、王の権威を象徴する玉という極めて漢字文化的な理解ゆえでもある。いずれにせよ鯛之福玉は縁起物の形である。
ガラスの起源は古い。最も古いガラスは紀元前後にシリアやエジプトあたりで作られたローマングラスだが、経年変化で今手に取るとプラスチックのようである。ただヨーロッパに製法が伝わると格段に材質と技法が進化して、中世にはヴェネチア中心に実に精巧なガラス製品が作られるようになった。ヨーロッパが工芸品で得意としたのは金や銀器、ガラス器である。その代わりのように焼物作りには熱心ではなかった。僕らからすれば、保温性の低い金器銀器でよく食事するなぁと思ってしまうのだが、近世のピューターの時代までヨーロッパ人は好んで食器に金属器を使った。優雅なのか野蛮なのかわかりゃしませんな。
日本は焼物大好きの国だが、ヨーロッパとは逆にガラスの生産は遅かった。弥生時代から細々とガラス製品は作られていたが大量生産されることはなかった。日本にヨーロッパのガラスが入ってきたのは例によってポルトガル船の種子島漂着(室町末の天文十二年[一五四三年])以降である。ルイス・フロイスの『日本史』には、ぱあれでフランシスコ・カロラルが近眼で眼鏡をかけていて、それを見た日本人が「ぱあでれには目が四つある」と大騒ぎになり連日ぱあでれを見に人々が集まったという記述がある。
昔から日本人は物見高かったわけだが、今に至るまで無類の舶来物好きでもある。桃山時代の屏風などにはガラス製品が描かれているが、これは輸入物だろう。日本で本格的にガラス生産が始まったのは江戸初期の延宝年間だと言われる。まず長崎で生産が始まったようだがやがて京都、大坂、荻、薩摩、江戸でも作られるようになった。一概には言えないが、初期の方が色つきガラス製品が多かったようである。これらは「びいどろ」と呼ばれた。ポルトガル語でガラスを意味する「Vidro」である。やがて透明ガラスが主流になりそれらは「ギヤマン」と呼ばれた。ポルトガル語の「Diamante」、あるいはオランダ語の「Diamant」だ。色ガラスよりも透明度が高いので、ダイヤモンドがなまってギヤマンになった。
江戸ガラスにはヨーロッパの徳利や盃を模した物が多いが製法はぜんぜん違う。簡単に言うと中国伝来の製法で鉛を使う。ヨーロッパのガラス職人に言わせると「へっ、そんなんでガラスが作れるの?」といった難しい製法だった。当然江戸ガラスを作るには熟練の技が必要で製法は秘伝とされた。明治維新後に政府の肝いりで興業社が設立され、ヨーロッパ式のアルカリ石灰系の材料でガラスが作られるまで、日本の職人たちは難しい鉛ガラスで製品を作り続けたのだった。
鉛ガラスなので、ぎやまん、つまり透明な江戸ガラスでもうっすらと色がついている。そして手取りが重い。難点は鉛ガラスは脆いことである。練り上げの盃を買った社長さんと話す機会があったが、お茶碗にできそうな江戸ガラスがあったのでぬるま湯を入れてみたら「見事にパリンと割れちゃった」と豪快に笑っておられた。値段を考えると背筋が寒くなるような話だが江戸ガラスは脆いのである。徳利だろうと盃だろうと金魚玉だろうと決して実用で使ってはいけない。そーっと保存しておくしかない。
ただ作られた当初の江戸ガラスは実用品だった。ということは年々脆くなっていることになる。ガラスに含まれる鉛が劣化して器体が脆くなってゆくのだろう。そのため江戸ガラスは数百年後にはみな粉々になってしまうのではないかと言う人もいる。鯛の根付だってガラスを型に入れて成形したあと、鏨などで表面を磨き目や鱗や尻尾を彫っている。そんなに脆かったはずがない。しかし今はちょっとした高さから落としただけで割れてしまうだろう。まあ僕が生きている間に自然に粉々になってしまうことはないだろうけど。
江戸ガラスの魅力はその柔らかい水っぽさにある。幕末になるにつれて切り子の技法が上がってヨーロッパのようなキッチリとした製品が増えてゆくが、相変わらず水っぽくふにゃふにゃした作品も作られている。鯛の根付にしても砂糖菓子のような雰囲気だ。こういったところに日本文化の特徴が出る。江戸ガラスの最上級の作は薩摩切子に代表される完璧な製品だが、最も日本的な特徴が出ているのはふにゃふにゃガラスの方だろう。
ハラハラしてしまう骨董だが、もしかすると数百年後の人たちが図版などのヴァーチャルでしか見ることのできない江戸ガラスを持っているのはちょっと贅沢かもしれない。このままの状態で伝来させるには箱にしまい込むのが一番だが、金魚っぽい鯛で間抜けな可愛さがあるので長いこと机の上に乗っている。
古伊万里 鯉の滝登り文染め付け筆筒
江戸時代後期
口径五・三×下径七・七×高九・八センチ 著者蔵
机の上に乗っている二つ目の骨董は古伊万里の筆筒である。江戸後期天保頃の作だと思う。
江戸時代の文人の必須教養は漢籍で必然的に中国贔屓だったから、文房具も中国舶来品を使うことが多かった。いわゆる文房具四宝は筆、墨、硯、紙だが、水滴や筆筒なども中国製品を使った。幕末になると伊万里だけでなく瀬戸でも磁器の生産が始まって大量の磁器製品が市場に溢れるが、皿や碗がほとんどで文房具は意外なほど少ない。また伊万里製の硯や水滴、筆筒は中国製品と比べると小さい物が多い。
こういった筒状の古伊万里は線香立てや箸入れがほとんどだが、これは間違いなく筆筒である。鯉の滝登りは言うまでもなく登竜門で出世の象徴だからである。いわば「頑張って学問して偉くなりなさいよ」の意匠である。今のファッションやデザインでは色や形などの感覚的要素を重視するが、江戸時代は文様の意味が色や形と同じくらい大事だった。花や動物などの文様が描いてあればそこにはほぼ必ず意味がある。探すとなかなかない物だが値段はたいしたことはない。幕末伊万里ですからね。
鯛の根付と共通している点はやはり水っぽいことである。中国磁器に比べると伊万里は柔らかい。湿度の高い日本の磁器という感じがする。文様もおおらかというかアバウトで、呑気そうな鯉が描かれている。激流を遡って鯉が龍になったという中国の伝説とはほど遠く、水浴びしているような感じだ。造形の厳しい中国文房具に慣れた文人の好みには合わなかったでしょうな。江戸の文人は用途に応じて様々な筆を使ったので、当時の画を見ると大きな筆筒に柄の長い筆が何本も挿してある。伊万里の硯や水滴、筆筒が小さいのは、もしかすると子供の手習い用だったからかもしれない。
ただ今になると小さめの筆筒の方が使いやすかったりする。僕は二〇世紀半ば過ぎの生まれだから、学生時代にはパソコンはもちろんワープロもなかった。手で書くのでそれなりに文房具に凝った。いい万年筆や原稿用紙を使えば素晴らしい作品が書けるのではないかと思って分不相応なペンを買ったこともある。しかし今はパソコンでほぼすべての原稿を書く時代である。この筆筒に挿してあるのは赤と黒のボールペン、それに太字と細字のシャープペンだけだ。メモなどで使うには必要十分である。文房具に凝るのは骨董と同じような趣味の時代になりましたな。
李朝八角筆筒(または小物入れ)
竹に彫刻 李朝時代後期
縦七・六×横五・六×高六・八センチ(最大値) 著者蔵
三つ目は李朝の八角筆筒である。小さくて背も低いので印などを入れる小物入れかもしれない。朝鮮の両班が使っていた文房具の一種でいいと思う。手がかりは文字である。「呑雲吐汽」が凸彫りで彫られ、両側には「寿」が彫られている。陶磁器製の本歌の李朝筆筒は、李朝末でも「ううっ」と唸ってしまうような値段だが、竹や木製だと比較的安価である。李朝もまた中国の圧倒的な影響下にあり、当時の支配階級である両班たちは日本の文人と同様に中国製文房具を好んで使った。だから李朝の文房具――特に陶磁器――も数が少ない。竹を彫った上から透明な透漆が塗ってある。
ただ「呑雲吐汽」はちょっと頭をかしげる。「呑雲吐霧」じゃなかろうか。「雲を呑み霧を吐く」で仙人が雲を飲み込んで霧を吐くこと、つまり霞を食うだけで十分な栄養(鋭気)を得られる仙術の奥義を表している。中国は南北朝時代の文人沈約『郊居賦』の一節で、そこから仙境に達した人の精神を表す成語になった。文人たちの憧れの境地ですな。「汽」は湯気の意味だから「霧」に通じる。しかし本家中国では「霧」を「汽」と表記することはないだろう。職人が彫り間違えたのか、もしくは「霧」は画数が多くて彫りにくいので勝手に「汽」に替えてしまった可能性がある。意味は同じようなものですからね。
李朝には「いい加減な繊細さ」があり、こういった間違いなのか簡略化なのかよくわからないような表記も魅力の一つである。中華街などに行けばわかるが、現代中国人が好むのはピリッと完璧な製品である。具体的には清朝乾隆帝時代の焼物や玉製品などが中国人の理想である。完璧で一分の隙もない。しかし日本人が好むのは水っぽく、どこか不完全で緩いガラスや陶磁器だ。李朝は中国製品に比べればうんと緩い。この小さな李朝筆筒(小物入れ)には付箋を入れている。本を読んでもノートにメモなど取っていられない。ちょっとメモを書いて付箋をバンバン貼ってゆくのが一番効率的なのだ。
産地は違っても、江戸ガラスと古伊万里、李朝の筆筒に共通するのは縁起のいい文様や文字、造形だということである。今も昔も人々の生活は悩み苦しみの連続だから吉祥文や文字が喜ばれたのだろう。こういった吉祥文の豊かさは日本、中国、朝鮮の東アジア文化圏にしかない。音だけでなく目で理解する表意文字の漢字は絵や立体造形と地続きだから、ほとんど無尽蔵に吉祥文様が生み出されていったのではないかと思う。
鶴山裕司
(図版撮影 タナカユキヒロ)
(2021 / 01 /26 15枚)
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