前回露天商の「んとねぇ君」から買った針金細工の戦闘機などを紹介したが、ほかにも彼から買った物があるなぁと倉庫を探し回った。いちおう四畳半の壁際と部屋の真ん中に本棚を八台置いた書庫なのだが、東日本大震災の時にドタドタと本が落ち、整理はしたもののそれ以来カオスと化している。
そうそう、探し物はちょっと古い本なのだ。通路にも段ボールが積み上がっているので探す時は探検隊の気分である。書庫としてはほぼ機能しておらず、確かどっかにあったなぁと思っても、必要な本は図書館で借りる始末だ。
で、なんとか見つけました。んとねぇ君から買ったのは憲法普及会編『新しい憲法 明るい生活』、芦田均著『新憲法解釈』、同じく芦田均の『革命前夜のロシア』、蔵原惟人著『共産主義とは何か』の確か四冊である。終戦直後の昭和二十一年(一九四六年)から二十五年(五〇年)にかけて刊行された本である。これらの本は前回紹介した「尋常小学校の生徒が描いた戦争画」を保存していた埼玉の学校の先生の家からうぶ出しした段ボール箱に入っていた。先生は新憲法だけでなく共産主義にも興味があったようだ。本が詰まった段ボールが一箱あって、その中から欲しい本を選んで値段を聞いてみた。
「んとねぇ、じゃ全部で二千円」
「二千円でいいの? 古本屋ならもうちょっと高いと思うけど」
ま、二千円以上出すつもりはなかったが、こちらは本にはちょっと鼻が利く。この手の本を専門に扱っている古書店で買えば多分五千円くらいにはなるはずだ。ちょいと弱気じゃんと思ったのだが、そこはさすがヤリ手の露天商である。
「古本屋に持ってって売るより、今あなたに売る方が高いっすよ」
「あーそっか、それもそうだね」
「本は二束三文ですからね。段ボール一箱で千円にもならんっす」
骨董商は古書に冷たい。明治維新以降の活版本は人気のサイン本や稀書でも、古本屋の引き取り価格は売価の一割から三割くらいである。末端価格五千円なら古本屋の買値は五百円というところだ。んとねぇ君の言うとおり、だから二千円でもじゅうぶん高い。
これは古本の単価の低さが影響しているようだ。古本屋を経営して人一人が生活してゆくためには最低でも毎月三十万円くらいの利益が必要だ。月二十日営業して一日一万五千円以上の売上げですな。しかし売れ筋の価格帯は千円前後で万を越える本はなかなか売れない。売価千円の本を五百円で買っていたのでは商売にならないのだ。ショーウィンドウに飾るような高価な本はめったに売れないので、古本屋さんにとってはボーナスのようなものらしい。優雅な商売に見えるが古本屋の内実はなかなか厳しい。
それもあってか墨書類は骨董屋と古本屋が共通して扱うが、まず間違いなく古本屋の方が売り値が高い。客層が違うのはもちろん、古本屋さんは美術に属する軸に思い切った売価をつけないと商売のバランスが取れないようだ。以前骨董屋から五万で買った若山牧水の短歌軸を壁に掛けていたら、二年に一度くらい呼ぶ古本屋がじーっと見て欲しいと言ったので十万で売った。どーせ買わないだろうと思って「十万なら売るよ」と言ったら「買います」と即答されてしまったのだ。珍しく高値だねぇと思ったが、んとねぇ君と話していて腑に落ちた。あの軸は末端価格でいくらになったんだろうなー。
大学時代は古本屋街が近かったので、大学に行けば必ずぴよぴよと古本屋を見て回った。しかし今ではお出かけの際に古本屋を覗いてみるくらいで、わざわざ電車に乗って行かなくなってしまった。ネットで必要な本が買えるようになってからは新本屋に行く回数もめっきり減った。もちろん実際に本を見て、手に取ってパラパラ読んでみるのは大切である。「こんな本が出ていたのか」と驚かされることもしばしばだ。絶版本はなおさらでつい買ってしまう。しかしこれがビミョーなのだ。
もうだいぶ前になるが、ある先輩作家が「古本屋で本は買わなくなったな。スーブニール(お土産)感覚だから結局読まないことが多いよ。本は必要な時に買えばいい」と言っていた。確かにその通りで、自分の手をぢっと見てもいつか読もうと思ってそのままになった古本が多い。特に忙しくなり、本を読むのも仕事になってからはなおさらである。そんなに読書家でも蔵書家でもないが、必要に迫られて本を買ってから、以前古本で買っていたのに気づいたことが何度かある。
手当たり次第に本を読んで刺激を得る年齢を過ぎると、本は必要な資料をまとめ買いしてダーッと読んで書くことが多くなる。有吉佐和子さんは超のつく売れっ子で、次作の資料整理のために助手を雇っていた。その助手の方が有吉先生は資料を読んでいる時は超不機嫌で、書き始めると上機嫌になったと回想しておられた。有吉先生の足元にも及ばないが気持ちはわかる。物書きは書いている時が一番楽しいのだ。
先輩作家の言葉は腑に落ちたが、僕は今でもたまに古本屋で本を買う。ただ買っても読まないことが多いのに気づいてから、買ってすぐに少しは目を通すようにしている。でないと買ったことを忘れてしまう。有り体に言うとトイレの棚に積んでおいて雲古をしながらポツポツ読むのである。んとねぇ君から買った本は薄かったので一週間ほどの雲古タイムでじゅうぶん読めた。意外に面白かったので唯一分厚い『革命前夜のロシア』は机に座って読んだ。気合いを入れ直したわけではない。本がボロボロで、雲古の姿勢で手に取って読むと分解してしまいそうだったのである。
憲法普及会編『新しい憲法 明るい生活』
昭和二十二年(一九四七年)五月三日発行 発行者・憲法普及会 縦一四・七×横一〇・七センチ 三〇ページ 非売品
新しい日本のために―発刊のことば
古い日本は影をひそめて、新しい日本が誕生した。生まれかわった日本には新しい国の歩み方と明るい幸福な生活の標準とがなくてはならない。これを定めたものが新憲法である。
日本国民がお互いに人格を尊重すること、民主主義を正しく実行すること。平和を愛する精神をもって世界の諸国と交わりをあつくすること。
新憲法にもられたこれらのことは、すべて新日本の生きる道であり、また人間として生きがいのある生活をいとなむための根本精神でもある。まことに新憲法は、日本人の進むべき大道をさし示したものであって、われわれの日常生活の指針であり、日本国民の理想と抱負をおりこんだ立派な法典である。
わが国が生まれかわってよい国となるには、ぜひとも新憲法がわれわれの血となり、肉となるように、その精神をいかしてゆかなければならない。実行がともなわない憲法は死んだ文章にすぎないのである。
新憲法が大たん率直に「われわれはもう戦争をしない」と宣言したことは、人類の高い理想をいいあらわしたものであって、平和世界の建設こそ日本が再生する唯一の途である。今後のわれわれは平和の旗をかかげて、民主主義のいしずえの上に、文化の香り高い祖国を築きあげてゆかなければならない。
新憲法の施行に際し、本会がこの冊子を刊行したのもこの趣旨からである。
昭和二十二年五月三日 憲法普及会会長 芦田均
今さらだが日本国憲法は終戦の翌年の昭和二十一年(一九四六年)十一月三日に交付され、二十二年(四七年)五月三日に施行された。新憲法制定、それに天皇人間宣言(二十一年一月一日)を急いだのは戦後の混乱を最小限度に抑えるためだろう。
憲法普及会編の『新しい憲法 明るい生活』は新憲法施行に合わせて無料頒布されたようだ。物資難を反映した粗末なざら紙で、製本も一箇所だけのホチキス留めである。三〇ページの小冊子だが前半で新憲法の特徴を解説し後半に憲法全文を掲載している。表紙には「大切に保存して多くの人々で回読して下さい」と印刷されている。施行当時の熱気が感じられる。
憲法普及会の会長は芦田均(明治二十年[一八八七年]~昭和三十四年[一九五九年]、享年七十一歳)である。もし学校の同級生だったら、僕は間違いなく「だーきん」とあだ名をつけるだろうけど、第四十七代内閣総理大臣を務めた偉い政治家だ。昭和二十二年(一九四七年)当時は片山哲内閣の外務大臣で翌二十三年(四八年)三月十日に内閣総理大臣に就任したが、昭和電工事件で十月五日に辞職して短命に終わった。後を継いだのが吉田茂で二十四年(四九年)二月十六日まで続く長期政権になった。
総理大臣としてはさしたる業績を残せなかったが、芦田は戦前・戦中の一貫したリベラリストとして知られる。体制側の政治家だが、美濃部達吉が天皇機関説でスケープゴートにされた時は名誉回復のために尽力した。大戦翼賛会にも反対している。最もよく知られた芦田の業績は日本国憲法第九条の通称「芦田修正」だろう。芦田は衆議院帝国憲法改正小委員会の委員長だったが「戦争の放棄」として知られる第九条を現行文にまとめた。
【第九条初案】
国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛争の解決の手段としては永久にこれを抛棄する。
陸海空軍その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は認められない。
【現行第九条】
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
著書『新憲法解釈』で芦田は初案と現行条文の違いについて、「一言付け加えておきたいことは、衆議院においては政府の原案に対して、第九条第一項の冒頭に『日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し』と付加し、この第二項の冒頭に『前項の目的を達するため』なる文字を挿入して、戦争放棄、軍備撤退を決意するに至った動機がもっぱら人類の和協ならびに世界平和の念願に出発する趣旨を明らかにせんとしたことである。第九条の規定する精神は、人類進歩の過程において明らかに一新時期を画するものであって、我らがこれを内外に宣言するに当たり、日本国民が他の列強に先駆けて、正義と秩序を基調とする平和の世界を創造する熱意あることを的確に表明せんとする趣意にほかならぬのである」と書いている。
芦田の修正で軍備と武力行使の放棄は「正義と秩序」と「国際平和」を「希求」する「日本国民」の総意となった。「国の交戦権は認められない」が「国の交戦権は、これを認めない」としたことで、交戦権の放棄も日本国民の能動的選択になったのである。
第九条の交戦権と軍備の放棄は今の安倍内閣が最も改憲を望んでいる条文である。アメリカ(GHQ)は交付当時の世界情勢に鑑みてあっさり第九条を承認したが、朝鮮戦争後にしばしばマズかったなと頭を抱えることになる。経済力であれ軍事力であれ、力の強い者が結局は正義である残酷で理不尽な国際社会に即せば確かに現実離れした条文である。実際、新憲法施行直後から現実重視の政治家たちは繰り返しこの条文を中心に改憲を唱えてきた。しかし芦田は浮世離れした理想主義者だったから第九条修正を主導したわけではない。
『新しい憲法 明るい生活』序文の「発刊のことば」で芦田は「ぜひとも新憲法がわれわれの血となり、肉となるように、その精神をいかしてゆかなければならない。実行がともなわない憲法は死んだ文章にすぎない」と書いている。
芦田は第九条が維持し難い理想だと知っていた。実際、軍事力の放棄は自衛隊の創設で骨抜きになった。しかし交戦権の放棄は生きている。アメリカが現実には人種差別の不平等社会であっても自由・平等の理想的国是を捨てられないように、日本人は理想であるがゆえになかなか第九条を否定できないだろう。総理大臣の業績はほとんどないが芦田は戦後日本の大方針を規定した一人である。
芦田均著『新憲法解釈』
昭和二十一年(一九四六年)十一月一日初版印刷 同十一月三日初版発行 発行所・ダイヤモンド社 縦一八×横一二・六センチ 一〇〇ページ 定価七円
しからば、主権が天皇を含む国民にありとする場合に、国体の変更を来さないかという問題がある。これに対してはまず国体の語をいかに解するかが先決問題であり、政府は、国体とは憲法の基礎にあるところの、国家の基本特色を指すものと解するのである。すなわち我が国体は、天皇を憧憬の中心として、国民全体が結合し以て国家が組み立てられているところにあるというのであって、新憲法は我が国家存立の規定を変更するものでないから、これによって国体の変更を来すことはないと結論するのである。
(芦田均著『新憲法解釈』「第一章 天皇」)
芦田が『新憲法解釈』で最もページを割いたのは、「第一条 天皇は、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と第九条「戦争の放棄」だった。この二条が日本国憲法最大の特徴であるのは言うまでもない。様々な問題を含むゆえに今に至るまでずっと議論され続けている。
「国体」は本来的には国のアイデンティティくらいの意味である。しかし太平洋戦争前から天皇が日本の国体(アイデンティティ)そのものであり、外国との戦争では天皇のために戦い天皇のために死ぬことが日本臣民の使命だという皇国教育が徹底して為された。そのため戦後は右翼以外は国体という言葉を使わなくなった。芦田は政権中枢の人だから国体という言葉に抵抗はなかったろう。しかし一方で理想主義者でもある。天皇陛下万歳という意味では国体という言葉を使っていない。
芦田は国体を「憲法の基礎にあるところの、国家の基本特色を指すもの」だと本来的な意味に戻して規定している。議論はあるだろうが極東裁判で早々と天皇の戦争責任は問われないこととなり、日本国憲法第一条でも「天皇は、日本国民統合の象徴」という文言が入れられたわけだから、これを戦後の日本社会に組み込まなければならない。芦田は国体(日本国のアイデンティティ)は新憲法に先行する日本国の基礎であり、「天皇を憧憬の中心として、国民全体が結合し以て国家が組み立てられている」と解釈したわけである。
この認識を敷衍して芦田は「天皇が国の首長として君臨される以上、それは君主制であるに相違ない。しかしその君主の意思に基づいて人民の輿論が政治の動向を決するものである限り、それは民主政治たることを失わぬ。換言すれば国体的には君主国であり、政治的には民主主義政治である」と書いている。
芦田の言うとおり、外国から見れば日本はイギリスなどと同様の君主制民主主義国家である。しかしほとんどの日本人は天皇について聞かれると、日本国の象徴であって君主とは微妙に違うのだと言いたがる。天皇を神聖不可侵の君主として狂気のような太平洋戦争に突進してしまったトラウマがある。
ただどう説明しても、象徴天皇制は実質的に君臨すれど統治せずの君主制民主主義国家体制と変わらない。そのため外国に置かれた日本大使館は対外的にははっきりと天皇を君主(emperor)としている。憲法制定に深く関わったのだから芦田は「象徴」の日本的ニュアンスを理解していたはずである。にもかかわらず日本は「国体的には君主国であり、政治的には民主主義政治である」と書いたのは彼流のラディカリズム(急進的かつ根源的姿勢)だろう。長い外交官生活で日本を外から見続けたことも影響している。
芦田均著『革命前夜のロシア』
昭和二十五年(一九五〇年)九月十五日印刷 同九月二十日発行 発行所・文藝春秋新社 縦一八・五×横一三・三センチ 四七四ページ 定価三六〇円
終戦から五年後に刊行された本だが表紙は赤黄黒の三色刷りで、僕が買った本は背中の糸綴じがほどけかけているが上製本だ。急速に資材・技術両面で日本が復興していたことがわかる。定価も三六〇円と終戦直後に比べれば高い。インフレが進行していた。
首相や大統領などの高位高官になった人が、公職を退いてから回想録を書くのは珍しくない。芦田も『芦田日記』や『第二次世界大戦外交史』を書いている。しかし『革命前夜のロシア』は少し性格が違う。
芦田は二十七歳の大正三年(一九一四年)四月に新米外交官としてロシアのサンクトペテルブルクに赴任し、七年(一八年)一月まで三年近く滞在した。一九一四年四月は第一次世界大戦が始まる四ヶ月前である。一七年にはロシア革命が起こりソビエト連邦が成立した。芦田は現場のヨーロッパにいて二十世紀初頭に起こった二つの大事件を目撃し、その体験を本にまとめた。
『革命前夜のロシア』はんとねぇ君の露天で大人買い(二千円だけど)しなければその存在を知らず、決して読むことのなかった本である。ネットでも調べてみたがこの本に対する言及はとても少ない。当然絶版。内容評価も低いようで再刊される気配はぜんぜんない。しかし面白い。一次大戦や、ロシア革命当時の諸外国の政治的動向がわかるから面白いわけでは必ずしもない。芦田のロシアの捉え方が根源的で刺戟的なのだ。
芦田は外交官としてロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世と皇后アレクサンドラに何度も謁見している。芦田自身は会ったことがないと書いているが、当時は怪僧ラスプーチンの時代だった。このシベリア出身の稀代のいかさま宗教家は、霊力があると吹聴して皇后アレクサンドラに取り入った。皇太子アレクセイは当時まったく治療方法のない血友病を患っていた。一人息子でロマノフ家唯一の継嗣を心配するあまり皇后は怪しげなラスプーチンの霊力に頼ったのだった。
もちろんラスプーチンは霊力など持っていなかった。が、その特異な洞察力で皇后が望む言葉を並べ立て信頼を勝ち取った。それを足がかりに宮廷内部深くに食い込み政治にも介入した。皇后と息子をこよなく愛するニコライ二世の優柔不断な態度が事態を悪化させた。西ヨーロッパ諸国は合理主義の近代に入っていたが、二十世紀初頭のロシアには濃厚な神秘主義的風潮が残っていた。ラスプーチン暗殺が期せずして十月革命(社会主義革命)の号砲になった。
また日露戦争敗戦後に起こったロシア第一革命で、ニコライ二世はドゥーマと呼ばれる議会を招集していた。形ばかりの民主政体を整えたのである。ニコライ二世は民衆の不満を鎮めるために、ほとんど挙国一致体制の盛り上がりだけを期待して第一次世界大戦に参戦したが、それがかえって経済を圧迫しさらに政情不安が高まった。
帝政が風前の灯火になったロシア議会では、貴族や大地主の中から皇帝を頂点に戴く本格的議会制民主主義を提案する者たちが現れた。しかし既得権に凝り固まった貴族階級がそれを阻んだ。その様子を芦田は外交官として得た情報や実際に交流があったロシア議会の政治家たちの言葉から描き出している。徳川幕府瓦解の時と同じように、政権内部から新たな体制を作ろうにも守旧派の力が強く、どうにもならない状態にロシアは置かれていたのである。
独り形態の上ばかりでなく、事実ロシアの寺院は革命までロシア神権政治の守護者であった。(中略)ギリシャ正教には教会は国家より優越なるべしという信条はない。ラテン、チュートンの欧州は精神上かつてローマに支配された。(中略)その結果、ラテン語を読み書きするインテリゲンチャと、文字なき下層階級との間に越ゆべからざる溝を築くもとになった。
ところが近代ロシアは純粋な国教を維持して、王権が絶対にすべての教会を指導した。(中略)コンスタンチノープルから来た正教の理論は「地上における神の表現者としてのツァーリ」を絶対に尊重した。ツァーリはアウグストゥス、およびコンスタンチノープルの相続者であり、ツァーリの意思は生きた法律であった。「一体にして不可分な国家、軍隊と官吏と牧師とによって支持せられる帝国」はギリシャ正教がスラブ人に教えた思想である。
ロマノフの帝政が倒れてロシア共和国が成立しても、正教の信仰が依然として勢力を振るう間は正教徒は何者かの影にか、自己のツァーリを見出そうとするであろう。それはしかし今日直ちに起こりえる問題ではない。
(芦田均著『革命前夜のロシア』)
わずか三年の滞在だが芦田はロシア的精神を的確に理解している。ロシアにおける正教の力は強い。ロシア皇帝ツァーリはローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの流れを汲む帝王であり、東ローマ・コンスタンチノープルの正統キリスト教継承者である。それがロシアが神に守られた特別な土地であるというロシア的優越思想を生んでいる。形は変わってもロシアは一種の神権国家である。
芦田が「正教の信仰が依然として勢力を振るう間は正教徒は何者かの影にか、自己のツァーリを見出そうとするであろう」と書いているのは面白い。芦田は革命が起こった際に人々が「共和制には賛成だが、良きツァーリを据えなければならない」と口々に言っていたと書いている。またレーニンの演説を聴いた農民は「なんという立派な男だ! あのようなツァーリがあればね」と言った。
帝政崩壊後に社会主義のソビエト連邦が生まれ、ペレストロイカを経てロシア連邦になったわけだが歴代共産党書記長や大統領は実質的にロシア皇帝ツァーリである。現大統領のプーチンは終身大統領制を目論んでいるわけだからなおさらのことだ。
長い歴史を持つ国の国家的アイデンティティ(精神性)はそう簡単には変わらない。芦田が国体は新憲法に先行するとして天皇制を擁護した理由もそこにある。太平洋戦争で露わになったように、社会情勢によっては天皇制は今も危険な装置になり得る。しかし国家的アイデンティティは何らかの形で必ず存在するのであり、天皇制以外の代替は恐らく見つからない。権力者はいつか権力の座から去るが、それとは別に国家的アイデンティティの求心力は残すというのが日本国憲法の象徴天皇制の理念である。戦争の放棄と同様に、この理念を守るには努力が必要だ。芦田がロシア革命でまざまざと見たように、権力者と国家的アイデンティティが一体化していれば権力交代の際に大きな混乱が起こりやすい。
母国であれ外国であれ、芦田のように現政体ではなく国家的アイデンティティを基盤に一つの文化・民族共同体の本質を捉える姿勢は重要である。井筒俊彦はイスラーム哲学者だがロシアに強い興味を持ち、その唯一の文学評論集『ロシア的人間』を書いた。井筒もまたロシア的精神を原理から捉えツルゲーネフやドストエフスキー、トルストイ、チエホフ文学などを論じた。芦田と井筒は二十七歳も年が離れていて仕事のフィールドも政治と哲学と異なるが、共通点もある。芦田は日本国憲法第九条は「人類の高い理想をいいあらわしたもの」だと胸を張った。井筒東洋哲学もそれまでにない独自のものであり、彼の高い学問的理想の結実である。
前回理念としては間違っていなかったが結局は軍部の侵略戦争に利用されてしまった大川周明の大東亜共栄圏構想について書いた。英語版からの重訳だが大川は『クルアーン』を最初に日本語訳した人でもある。また大東亜共栄圏構想に共鳴して来日したアラビアの非合法独立闘士を自宅に住まわせたりもした。井筒は大川からアラビア語の書物を借り、大川の家で初めてアラブ人に会って生のアラビア語で話したと回想している。
井筒は政治とはまったく無縁で、イランで研究生活を送っている時にホメイニー師によるイラン革命が起こって国外退去せざるを得なくなったが、それについてもあまり書き残していない。大川周明についても確か司馬遼太郎との対談で「大川さんはロマン派ですよ」と発言したくらいだと思う。ただ井筒の「ロマン派」という規定は一般に流通しているように浮世離れした夢想家という意味ではない。ゲーテの『ファウスト』は詩であり物語であり神話であり舞台で上演できる戯曲だった。ロマン派は本質的に総合文学を目指していた。
大川は思想家で宗教家で政治活動家だった。不起訴だがA級戦犯に問われたことで大川の思想家としての活動は実質的に終わった。しかし大川は知の巨人である。政治との関わりを嫌ったのか大川についてほとんど発言しなかったが、若き日の井筒がまったく大川の影響を受けなかったとは考えにくい。
井筒の東洋哲学は本質的に無の哲学である。井筒は地球上のあらゆる文化は根源的エネルギー総体としての無を基盤に言語を含む現実存在を生み出すと考えた。それを禅や密教などの仏教はもちろん、ヒンドゥー教、イスラーム神秘主義、ユダヤのカバラ、キリスト教神秘主義などにも見出した。井筒の無の哲学はユングの深層心理学をも援用した人間精神の根幹に迫る原理的なものである。
井筒は自らの東洋哲学について、それは東洋思想の共時的構造化なのだとも語った。井筒の東洋哲学は極東日本から中国、インド、中東、ヨーロッパのユーラシア大陸全域を視野に入れている。それは――極端なことを言うと思われるかもしれないが、井筒による知の大東亜共栄圏構想である。間近で見た大川の失脚や敗戦の衝撃が、無謀とも言えるユーラシア大陸全域の知の共時的構造化というアイディアを井筒に与えた。
自虐的な響きがあるかもしれないが、日本は敗戦国であり日本人は敗戦国の国民である。フランスは戦中ほとんどドイツに占領されており、ソビエトは漁夫の利を得ただけだと言いたくなるが戦勝国である。それは歴史であり変えられない。敗戦はそれを経験した人々にとっては恐ろしい傷だった。勝っていればよかったという意味では必ずしもないが、親族や友人・知人の無残な戦死は無駄になった。集団催眠にかけられていたような時代だとはいえすべての努力は水泡に帰した。ただ戦後日本が民主主義国家として再出発する際に、その深い傷を高い理想を掲げて乗り越えようとした人々もいた。
芦田は日本国憲法に守り維持するのが難しい理想を込めた。井筒は世界的普遍者の言葉として用語から論理的思考方法まで二十世紀の標準となった欧米的思考方法を使い、特殊で局所的だと考えられていた東洋哲学をユーラシア大陸汎用の世界哲学にまで高めた。井筒東洋学は極めて特殊であるがゆえに普遍的である。それが日本の最良の戦後思想、戦後文学である。この遺産は現在に至るまで色あせていない。
蔵原惟人著『共産主義とは何か』
一九四八年(昭和二十三年)七月三〇日発行 発行所・暁明社 縦一八・六×横一二・五センチ 八〇ページ 定価四〇円
んとねぇ君から買った四冊目の本は蔵原惟人著の『共産主義とは何か』である。天皇制否定論者らしく奥付表記は西暦の「一九四八年」。不思議なのは戦後だから非合法出版ではないはずなのに、表紙にタイトルと著者名が印刷されていないことである。そのためなにやら怪しげな雰囲気だ。当時は検閲の関係で印刷日と発行日をズラして表記していたが、この本の奥付には発行日しかない。もしかするとGHQの検閲をすっ飛ばしたのかもしれない。
蔵原惟人は明治三十五年(一九〇二年)生まれで平成三年(一九九一年)に八十九歳で没した左系の評論家である。ナップの機関誌「戦旗」を刊行したことで知られる。治安維持法で特高に検挙されたが転向しなかった筋金入りの共産主義者だ。戦後、中野重治とともに新日文を創立した。東京外語のロシア語科卒でロシア文学の翻訳も手がけた。戦前から戦後にかけてロシア文学、ロシア思想を重視する時代があった。
本の装丁は怪しげだが内容はごくまともである。「共産主義の歴史」「共産主義の理論」「共産主義の実践」の三部に分けて『共産主義とは何か』をわかりやすく説明している。当時は世界中の共産主義者がソビエトに熱い視線を送っていたから、第三部「共産主義の実践」にソビエトへの大きな期待が表れているのは当然である。蔵原は「ソビエト同盟に社会主義が建設されて、それが共産主義に向かって進展しつつあるということは、人類の歴史における文字通りに画期的な事実である。ここに人類は原始共産主義の崩壊いらい数千年にわたる階級的搾取ののちに、ふたたび階級なく搾取のない時代にはいろうとしている」と書いている。
ソビエト連邦の崩壊、中国の開放政策、ベトナムの資本主義化と社会主義体制は失敗に終わったというのがわたしたちの現在の共通認識である。しかし現代では世界中で極端な富の集中が起こっている。貧富の格差は多くの資本主義国が抱える問題で、それはさらに拡大して深刻さを増しつつある。
映画『ジャッキー・コーガン』でブラッド・ピットがテレビでオバマ大統領の演説を見ながら、「アメリカの正式名称は〝ユナイテッド・ビジネス・ステーツ・オブ・アメリカ〟で金だけが多様な人種を結びつけてるんだ」と言っていた。しかし超資本主義国のアメリカですらアンケートを取ると、若年層の過半数が新たな政治体制に民主社会主義を望んでいるという結果が出る。トランプが当選した先の大統領選挙で、民主党候補者争いでバニー・サンダースがヒラリーに善戦した理由である。
あらゆる社会政治体制は永久不変ではない。『共産主義とは何か』という問いかけにも、まだじゅうぶんに消化されていない二十世紀の遺産がある。
鶴山裕司
(図版撮影 タナカユキヒロ)
(2020 / 07 /29 29枚)
■ コンテンツ関連の本 ■
■ 鶴山裕司さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■