一峯斎馬円作「鍾馗の節句幟」 江戸文化文政時代頃
縦二メートル×横一メートル 木綿地に墨と着色(最大値、著者蔵)
* ほぼ等身大の巨大な幟
一時期ほどではないが骨董はちょこちょこ買っていて、「これについて書けるな-」と思っても、調べるのが面倒でついほったらかしにしてしまうことが多い。そうすると日常的に使う物は別にして、飾る場所がない絵などはそのうちしまいこんで「あれ、どこにいったかな。ま、いっか」で忘れてしまう。骨董を買ったら必ず書くわけではないが、数年ぶりに押し入れを整理すると「あーこんなモノも買いましたね、書けたのに」と思うこともしばしばである。じゃあそこから書き出すかというと、もう熱が冷めていて書きにくい。まあ調べないといっても、モノを買った時に最低限のことは調べてはいる。それ以上の何事かを探査しようとするから書くのが億劫になるわけだ。
そこで今回はちょいと調べただけで書きます。学者じゃないですからね。モノは一峯斎馬円の節句幟。物書きの習性で一度ある対象について書いておくと、なんとなくその概略は記憶に残る。自分用の備忘録的エッセイなのですが、今は五月で五月五日のこどもの日の祝日もある。時期的にぴったりの骨董ですな。ただ巨大な幟なので飾るための壁がない。また額装すれば特注になるので幟の買値よりも高くつくだろう。今書かなければダンボール箱に丸めて放り込んで、押し入れに積み上げて忘れてしまうでしょうな。
一峯斎については木村黙老(安永三年[一七七四年]~安政三年[一八五七年])著の『京摂戯作者考』(刊行年不詳)に「大坂亀山町、後藤屋敷に住す、原東武の人(江戸の人)、葛飾北斎門人、始め馬遠と号し、後浪華(大坂)に来り、大岡喜藤次(公儀の絵図引也)の養子となり、馬円と改む、俗称大岡由平、後、藤次と更む、文化七八(一八一〇~一一年)のころ三月没」とある。まとまった伝記はこれだけである。当時の浮世絵師の社会的地位は低かったから、このくらいの資料しか残っていない者が多い。要するに元々は江戸の人で北斎に弟子入りして絵を学んだが、その後大坂に来て幕府の絵図引役人(地形や建物の図面を作る役人)だった大岡喜藤次の養子となったということである。
推測すると一峯斎は江戸の武士の家か比較的裕福な町人の出だったのだろう。武士だとしても次男坊以下の冷や飯食いだったはずだ。武家も商家も同じだが長男以外は家督を継げない。なんらかの職能を身につけるしかないので北斎に弟子入りして絵を学んだようだ。その後縁あって大坂の絵図引役人の大岡喜藤次の養子になったわけだが、大岡家も間違いなく下級武士である。武士の俸禄では食べられないので浮世絵師の仕事を続けたわけだ。
武士という一峯斎の肩書きはその画業にも影響していて、町人の浮世絵師ならほぼ誰もが手がけている艶本(江戸時代のポルノですな)は描いていないようである。当時の大衆小説であった『読本』などの挿絵が多い。挿絵画家としての読本の代表作は栗杖亭鬼卵(延享元年[一七四四年]~文政六年[一八二三年])との合作『勇婦全伝絵本更科草紙』である。戦国時代に毛利家に滅ぼされた後、お家の復興に努めた尼子十勇士の活躍を描いた物語である。武士モノですな。また勧進帳に代表されるように江戸っ子は判官贔屓というか、滅びゆく弱者が好きだった。『絵本更科草紙』は文化八年(一八一一年)から文政四年(一八二一年)にかけて刊行されたがそれを元に一枚刷りの浮世絵が作られ、京都南座で『絵本更科話』と題した歌舞伎にも仕立てられた。けっこう話題になったようである。なお鬼卵も元武士の戯作者で浮世絵師だったから、一峯斎とは馬が合ったのだろう。
肝心の一峯斎作だという根拠だが、実は幟の上部に「一峯」という墨書があるという以外にない。墨書の下に縦九センチ×横九・五センチの大きな「一峰」の雅印(手描きかもしれません)も押してある。ただ調べ尽くしていない。少し図版などに当たったが一峯斎の一点物の肉筆画はまだ見つからない。どこかの美術館かコレクターが所蔵しているだろうが、基準作になるような作品と比べてみなければ完全には一峯斎作であるとは断定できない。ただ一峯斎以外の絵師が「一峯」と墨書するのは考えにくい。材質は木綿で縦二メートル、横一メートルと標準的な江戸の幟の大きさだが、経年劣化の茶色の退色から江戸後期の作でいいと思う。鍾馗という画題も一峯斎らしい。
画は間違いなく浮世絵師のものである。北斎流の堂々とした鍾馗様が描かれているが、手や足などの細部の描写は甘い。どんな絵師でも見る者の視線が集中する顔は丁寧に描くが、二流、三流の絵師は服や手や足の描写がおろそかになる。この作品も超一流の浮世絵師の作ではありませんな。
やや時代は下るが、一峯斎については斎藤月岑(文化元年[一八〇四年]~明治十一年[一八七八年])編の『増補浮世絵類考』(天保十五年[一八四四年]刊)に「一蜂斎馬円 読本の絵多し。もっとも筆は達者なれど下工也」という記述がある。「筆は達者なれど下工也」というのは、画は達者だが下請的な仕事をしていたという意味か、あるいはリップサービスを書いてはみたもののやっぱり下手だよね、というニュアンスだろう。
ただ一峯斎にも『絵本更科草紙』というヒット作はあったわけで、また腐っても武士だから、節句幟用に堂々とした鍾馗の画を依頼する人がいたとしても不思議ではない。大坂ではちょっとした名士だったはずだ。江戸の幟は比較的たくさん残っているが、絵師のサインが入ったものは少ない。目立つ「一峯」の墨書があるということは、一峯斎作がそれなりに価値があったということだろう。二文字だけだが絵より書の方が上手いかもしれない。
またこの幟は右上の方が四角に切り取られている。鋏は鍾馗様の髪の毛のあたりまで入っていて裏から補修してある。右上の方が痛んだので切り落としたのか、継ぎはぎのために切り取ったかどちらかだろう。江戸時代はどんな布でも貴重だったから、不要になった布は切って別の着物などに継ぎはぎしてボロボロになるまで使うのが一般的だった。下着まで質入れできた時代である。鍾馗様の頭が切り取られていなくてよかったよかった。
一峯斎は歌麿、写楽、北斎、広重、国貞のように有名な浮世絵師ではないが、これが一点物で肉筆だとすればそれなりに貴重である。刷り物の浮世絵と違って浮世絵師の肉筆は少ない。ごちゃごちゃ考えずに「江戸の幟旗でいいじゃないか」で済ますこともできるわけだが、骨董市場での値段はともかく作品の希少性などを明らかにしないと次の世代に正確に伝わっていかない。僕もいつか手放すわけですからね。もちろん一峯斎作でない可能性も残っているわけだが、それはまあしょうがない。骨董の世界では、制作年代は合っていても産地や作者を間違えることなどざらにある。勇気がなければ骨董など買えない。一番よくないのは贋作をつかむことではなく、物の真価を見誤ることである。こうやって情報を開示しておけば、もしかするとさらなる情報が得られる可能性もありますしね。
一峯斎の墨書と雅印
節句幟については「江戸の端午の節句幟」で一度書いたことがあるが、簡単におさらいしておきましょう。江戸時代から五月五日(旧暦ですが)は端午の節句だった。この頃に菖蒲が咲くので菖蒲の節句とも呼んだ。菖蒲=しょうぶは「尚武」や「勝負」と同音異義語なので、武家ではこの日に男の子の出世と健康を祈念する行事(祝事)が行われるようになった。江戸時代初期頃から端午の節句を祝う風習が定着したようだ。
端午の節句では武具などといっしょに幟旗も飾った。飾り物の種類を細かく言い出すときりがないが、幟旗は元々は合戦の時に敵味方を見分けるために武士が背中に挿す旗幟(旗印)のことで、基本的には家紋が入った幟である。戦のための幟だから、幟旗を屋外に立てられるのは当然武士だけだった。江戸では旗本にしか許されていなかったようである。
ただこんな楽しい行事を江戸っ子が見逃すはずがない。家紋の入った幟は旗本の特権だったが、下級武士や町人はそれとは別に節句幟や鯉幟(江戸の鯉幟は小型の紙製で明治後半に綿製品が現れ、昭和三十年代に合成繊維製品が売り出されて大型鯉幟が一気に全国に普及した)を屋外に飾った。江戸の町人パワーはすさまじい。節句幟は豪奢と粋を競うようになり、龍虎、鯉の滝登り(登竜門)、金太郎、桃太郎、鍾馗、源平合戦等々の合戦モノなど様々な画題のものが作られた。また幟の大きさもどんどん大きくなっていった。節句幟には屋外に飾る外幟と屋内に飾る内幟(座敷幟)があるが、裕福な町人は当然見栄を張る外幟にお金をかけた。江戸だけでなく京、大坂の三都はもちろん全国の都市で節句幟は流行した。
鍾馗様は元々は中国の道教の神様だが邪気を払うと信じられていた。また疱瘡(天然痘)除けの神様としても信仰されていて、疱瘡除けの鍾馗様は赤一色で描くのが通例だった。ボストン美術館が所蔵している北斎の見事な鍾馗様の節句幟はこのタイプである。江戸時代は乳幼児の死亡率が高かったので誰もが我が子の健やかな生育を願ったのである。江戸後期になると、特に文化面での武士と町人の境目が少し緩くなるが、豪奢な節句幟は基本的には町人のものである。まれに土佐派の絵師作ではないかという作品もあるが、たいていは浮世絵師が描いたもののように見える。鍾馗様の画題が定着したのは江戸中期頃からのようだ。
【参考図版】歌川広重作「名所江戸百景 水道橋駿河台」
大判錦絵 安政四年(一八五七年)作
広重作の「名所江戸百景 水道橋駿河台」は鯉幟が描かれた浮世絵としてよく知られている。遠くに幟旗や鍾馗様の節句幟も見える。ただしこの画も広重的誇張が施されている。江戸の鯉幟は紙製だから巨大な鯉幟は少なかったはずだ。広重の安藤家は元々は江戸常火消屋敷同心職で、御家人で武士の端くれだった。家督を譲ってから浮世絵師として活躍するわけだが、彼の浮世絵も元武士という出自のせいかおとなしい作風のものが多い。ただ広重のずば抜けた才能は構図にあった。画面構成が実に上手いのである。大胆な誇張は広重の独断場と言っていいところがある。
しかし数は少ないが残っている広重の肉筆画を見るとガッカリする。まー言ってみれば彼は今でいうデザイナーなのだ。肉筆は冴えないが構図はずば抜けている。それを版画に起こすと絶大な効果を発揮する。北斎は広重に異様なまでのライバル心を抱いていたが、腕の冴えから言えば「なんで広重ごときの画が流行るんだ」と思ったのはゆえなきことではない。北斎の一点物の画はほとんど神筆と呼びたくなるほど素晴らしい。特に晩年までその画力が衰えなかったのは驚異的だ。
骨董好きは一度は通る道だろうが、僕も短期間だが浮世絵を集めていた時期がある。歌麿、写楽、北斎らの作品は買いたくても買えないが、英泉に興味を持ってその作品を集めた。渓斎英泉はすこぶる評判が悪い。元武士だというが出自ははっきりしない。また一峯斎や広重らが元武士の矜持を失わなかったのに対し、英泉は〝浮世絵師に堕ちた〟といった無頼な生活を送った。晩年には女郎屋も経営した。英泉作品は多様だが枕絵(ポルノ)が多いのが特徴である。渓斎白水、淫乱斎と自虐的というか、破れかぶれの雅号を名乗ったこともある。ただそれが面白い。江戸後期の頽廃を一手に引き受けたような浮世絵師である。一定の文章能力を持つ知識人の端くれではあり、為永春水のゴーストライターの一人という説もある。春水は筆が遅かったと伝わるので、じゅうぶんあり得ることである。
しかし板刷りの浮世絵は、少なくとも僕は飽きた。美術館では定期的に浮世絵展が開催されるが、あれは美術館で見るもんじゃないなー。小さいから何が描いてあるのかよくわかりゃしない。人が群がる美術館ではなおさらだ。江戸後期になると風景画(名所絵)も加わるが、浮世絵の三大画題は初期から一貫して美人と歌舞伎役者と相撲取である。今で言えばグラビアアイドルと芸能人とスポーツ選手だ。形は変わっても人間の好みは本質的には普遍ですな。僕が浮世絵に飽きたのは、なんだかグラビアの切り抜きを額に入れて飾ってあるような気がしてきたからである。自分で買って画に顔をくっつけて見ると、描かれている内容だけでなく紙質や色など様々な情報が読み取れて面白い。しかし遠目で見てもねー、といった感じだ。画の内容だけを鑑賞するなら図版の方がよくわかる。
だから浮世絵展で本気で見るのは絵師の肉筆画である。版画と違って図版で見るのと実物を見るのとでは全然違うからだ。肉筆を見れば絵師本来の力量がはっきりわかる。歌麿、北斎が非常に腕の冴えた絵師だったのは言うまでもない。僕のご贔屓の英泉はというと、まあ彼らしいと言えるが浮世絵も肉筆画もあまり差がない。顔も着物もデロリとした頽れた女を得意とした。広重の肉筆がガッカリなのはもう言ったが、広重を例外として、浮世絵師として大活躍できなかった絵師には一点物を描かせた時の画力が落ちる者が多かったのではないかと思う。写楽なども恐らくそうではないか。新奇な画風好きで商売熱心だった版元の蔦屋は別だが、名だたる同時代の浮世絵師が写楽をライバル視した気配は一切ない。本の挿絵もない。戯作者からお声がかからなかったということは、様々な絵を描き分ける器用さを持ち合わせておらず、物書きの間でも写楽の評価が低かったということだ。肉筆を見ればいわゆる画家なのか図案家なのかの差がはっきりわかるところがある。
で、今回取り上げた一峯斎馬円の肉筆はというと、アベレージ。いわば浮世絵師としては可もなく不可もない平均点である。ただ歌麿や北斎らの有名絵師に一点物を頼むと画料が高かったから、浮世絵師に幟や着物、漆器などの絵付けを依頼するとしても、二線級、三線級の絵師が多かっただろう。なるほど幟の多くは一峯斎あたりのランクの浮世絵師が描いていたのだなということがよくわかる。
また浮世絵師を含む江戸の文化人は、今より世間がうんと狭かったのでどこかで繋がっている。北斎と一峯斎は繋がるし、一峯斎と栗杖亭は繋がっている。また黙老『京摂戯作者考』には一峯斎没年は文化七、八年(一八一〇~一一年)とあるが、栗杖亭との『絵本更科草紙』の刊行年などから言って、文政七、八年(一八二四~二五年)の誤記ではあるまいか。今回取り上げた鍾馗様の幟も文化末から文政年間の、約二百年前の作ではないかと思う。記憶に留めておけばほかにも様々なことがわかるだろう。まあこうやって骨董で遊びながら、僕は書くネタを集めているわけである。
鶴山裕司
(図版撮影 タナカユキヒロ)
(2021 / 04 /20 15枚)
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