No. 111『特別展 桃山 天下人の100年』
於・東京国立博物館
会期=2020/10/06~11/29
入館料=2400円(一般)
カタログ=3000円
コロナは美術の世界にも甚大な影響を及ぼしていて、最近になってようやく公設・私設美術館の企画展が再開になったが、まだ従来のような質と規模になっていないと思う。入場制限せざるを得ない美術館もありお客さんを集めにくい――収益が下がること――も影響しているのだろう。また企画展は国内はもちろん海外の美術館からも作品を借りて展示することが多いわけだが、それも活発とは言えないようだ。
そんな中、日本のフラグシップ美術館の東京国立博物館が『特別展 桃山 天下人の100年』を開催したので早速行ってみた。入館は予約制でネットでチケットを買うシステムである。で、入館料が2,400円に値上げされていて「ゲッ」と思った。東博は消費税が上がるたびに100円単位で入館料を値上げして来たが、今回の値上げはちょいと極端だ。「2,400円は高いよなぁ~」と思いながら、美術展はまあほとんど僕の唯一のお遊びだからしょーがないと諦めた。これで固定されるのかな、ヤダなぁ。入館料はせめて映画館くらいに抑えてほしいものです。今映画は1,800円くらいだっけ。
んで『特別展 桃山 天下人の100年』というタイトルを見た時から、ちょいとイヤな感じはしていた。どう考えても茫漠とし過ぎている。室町末の戦国時代から日本史的には近世に入るわけだが、近世は長く、信長の天下統一から幕末まで約300年である。概ね前半と後半に分かれるわけだが、近世前半の社会システムや文化を形成したのは信長・秀吉の桃山時代、そして家康の江戸幕府初期である。江戸元禄時代が桃山文化の集大成と言えるようなところがある。後半になると元禄を基盤に様々な文化が江戸中心に華開いた。
ただ全員西の人である芭蕉、西鶴、近松、それに光琳らの元禄文化大爆発に至る桃山時代はとても複雑である。桃山時代最大の特徴は政治と文化が密接に関係していることにある。大きな戦争が立て続けに起こった時代だから主役は武士で、杓子定規に言えばその表芸の武具などがこの時代を代表するだろう。しかし武具は平時なら美術品だが本来は敵を倒すための実用品だ。文化より政治闘争の文脈で読んだ方がいい。
桃山時代の為政者は朝廷のお膝元にいた室町幕府の後継者を自認した。文化にも造詣が深くなければならないという不文律があったのだった。茶の湯が隆盛したのはそれゆえで、桃山を代表する文化は茶道だと言ってよい。もちろんこの時代、趣味の茶の湯ではない。武士の精神と密接に関係していた。障壁画などの絵画も同様である。
一方で後陽成天皇から後水尾天皇の朝廷は、武士の為政者と時に厳しく対立しながら独自の文化を育んだ。華道の成立は後水尾上皇のサロンと密接に関係している。そんな複雑な時代をザックリと『桃山 天下人の100年』で総覧できるんかいなと思ったわけである。茶の湯だけ取り上げても展覧会を開けば大変なことになりますからね。
東京国立博物館では、政治史の時代区分に基づいて安土桃山時代の時代表記を用いている。先に記した、天正元年(元亀四年〈一五七三〉)までを室町時代、江戸幕府開府の慶長八年(一六〇三)からを江戸時代とし、その間の三十年間が「安土桃山時代」にあたる。(中略)本展覧会でもその時代区分を用いている。一方、日本美術史の概論書では、美術史上の桃山様式が政治史上の安土桃山時代の期間でのみ発展し終結したのではなく、桃山様式の胎動がすでに室町時代後期頃からみられ、江戸時代初期の寛永年間(一六二四~四四)、あるいはそれより少し後の頃まで、美術の各分野に桃山様式の特徴がみられる。いうなれば、十七世紀の前半は、桃山様式が爛熟し、終結する「桃山美術」の総決算期にあたると考えて、より広い時代範囲で桃山様式を捉えるのが一般的になっており、政治史の「安土桃山時代」より範囲を広げた「桃山時代」が用いられている。文化は画然と切り分けられるものではない。緩やかな変化の時期を含んで美術史の時代区分は考えられている。
田沢裕貴「変革の時代の絵画」
図録巻頭の「変革の時代の絵画」で、東博学芸企画部部長の田沢裕貴さんが簡便な桃山時代(文化)のレジュメを書いておられる。信長が天下統一を成し遂げた天正元年(一五七三)から江戸幕府開府の慶長八年(一六〇三)までの三十年が政治史上の安土桃山時代である。ただし桃山文化は江戸初期の寛永年間(一六二四~四四)までを含むという区分けである。もちろんそれも一つの説であり、田沢さんは「「桃山」という時代意識は、美術史家が作品を整理していくなかで作り出されたものであり、厳密には、人によって、その歴史観によって違っている」とも書いておられる。
確かに桃山文化を室町後期から元禄時代までにすると、いくらなんでも範囲が広すぎる。天正元年から寛永二十一年までを桃山文化とするのは特に今回のような展覧会の場合、妥当なラインだと思う。こんなふうに展覧会のアウトラインがキッチリ定義されているのが東博のいいところだ。実際、展示品はこの時代区分の中から選ばれていた。しかしやはり桃山文化を一回の展覧会で総括するのは範囲が広すぎる。複雑過ぎるのである。
陣羽織 黒鳥毛揚羽蝶模様
一領 麻、山鳥羽毛、錦 丈一〇二・五×肩幅四八センチ 安土桃山時代 十六世紀 東京国立博物館蔵
一の谷馬藺兜
一頭 兜鉢高一九・六 後立総高八一・二センチ 安土桃山~江戸時代 十六~十七世紀 東京国立博物館蔵
『陣羽織 黒鳥毛揚羽蝶模様』は溝口秀勝(越後国新発田藩初代藩主)が織田信長から拝領したと伝わる陣羽織である。揚羽蝶は信長の替紋である。パッと見てわかるように、豪華かつ奇抜な陣羽織だ。素材に高価な唐物(中国製)の布などを使っているのはもちろん、腰から上に蝶の紋が浮き立つように山鳥の黒羽根を縫い込んである。
前回東博で開催された『特別展 きもの』で僕はあえて「男の美学」――男の着物を取り上げなかったが、その理由は『陣羽織 黒鳥毛揚羽蝶模様』を見ればご理解いただけるだろう。大げさに言うと男の着物と女の着物は思想が違うのだ。女の着物は江戸などの過去の時代の〝裏面〟を教えてくれる。様々な制約があった時代に女性たちが何を望み、何に憧れ、制約をスルリと抜け出して何を楽しんでいたのかがわかる。それは男を含む時代の無意識の表現でもある。
これに対して男の着物には〝表面〟しかないところがある。つまり社会性が際立っている。信長公拝領の陣羽織に表現されているのは武家の棟梁の威圧感である。高位の武士で武力・知力に秀でた者しか着用できないことが、誰の目にもわかるように作られている。男の着物の逸品はそういう物しか残っていない(現在にまで伝わっていない)。町人が着用した着物でも傾く、つまりは表社会に背を向けた精神が表現されていることが多い。武具になるとさらに男の社会性表現は顕著になる。
『一の谷馬藺兜』は岡崎藩士志賀家の祖先が秀吉から拝領したと伝わる兜である。源平合戦の一の谷の合戦での、源義経鵯越を表現した兜だと言われる。見ればわかるように異様である。威圧を通り超して不吉ですらある。こんな兜を実際にかぶって本陣に陣取る大将はマトモには見えないはずだ。むしろマトモではいられない戦時の精神性をあからさまに表現していると言っていい。自己を奮い立たせ、見方の軍勢の精神をも鼓舞するための兜である。
江戸元禄時代を過ぎると武士はじょじょにテクノクラートになってゆくが、戦国・江戸初期まではではそうではなかった。平安時代の北面の武士以来の精神性が生きていた。簡単に言えば、武士とは死ぬのも仕事の内の戦闘集団である。信長、秀吉、家康は天下人にまで上り詰めたが、若い頃は先陣を切って敵に突っ込んでゆく猛将でもあった。武力、胆力、知力、そして運も味方してくれなければ戦国時代の棟梁にはなれなかった。
じゃあそういった戦国武将の精神性が今回の展覧会から見えてくるかと言うと、見えない。展覧会タイトルには『桃山』の後に『天下人の100年』とサブタイトルが付いているが、展示品を見ても誰が天下人だったのかがストレートには伝わって来なかった。信長、秀吉、家康と天下人は移り変わり、それぞれの治世には大きな違いがあった。その治世に関する方向性の落差(天下人の死)が思いきりのいい桃山文化の土壌になっているわけだが、天下人と文化の変遷がうまくリンクしていないのである。
泰西王侯騎馬図屏風
四曲一双 紙本金地着色 縦一六六・二×横四六〇センチ 江戸時代 十七世紀 兵庫・神戸市博物館蔵
桃山文化最大の特徴は為政者と文化が密接に関係していることにあるが、それが端的に表れたのは茶の湯と南蛮文化――キリスト教文化――である。いずれの文化についても為政者たちは最初は庇護し、後に弾圧を加えた。だから平時に華開いた文化よりも、茶の湯と南蛮文化により強く時代のうねりを感じ取ることができる。
よく知られているように室町時代末の天文十二年(一五四三年)に種子島にポルトガル船が漂着して(この時日本人は初めて鉄砲を入手した)、西洋人が日本航路を発見した。それ以降、次々にいわゆる南蛮船が来港するようになった。バスコ=ダ=ガマがインドに到達しマハラジャからその目的を聞かれた際に「胡椒の獲得とキリスト教の布教」と答えたように、西洋人の目的は交易とキリスト教布教にあった。
ポルトガル、スペイン船が先に来港し、次いでオランダ、イギリス船も来航するようになったが、江戸初期までポルトガル・スペイン勢の力が強かったようだ。ポルトガル領(植民地)ゴアからフランシスコ・ザビエルが来日し、フィリピンを植民地化したスペインが交易船と共に多くの宣教師を日本に派遣した。
日本語にポルトガル語が多く残っているのはよく知られている。コップ、タバコ、コンペイトウ、カッパなどはポルトガル語が語源だと言われる。桃山のわずか三十年ほどの間に、いかにポルトガル文化(文物)が人々の生活に浸透していたのかがわかる。しかしその詳細は拭われたように闇の中だ。信長は南蛮交易を奨励したが秀吉はキリスト教を禁教にし、家康によって絶対的禁教になったからである。
『泰西王侯騎馬図屏風』は南蛮美術の名品としてつとにしられている。会津若松城に伝来し、戊辰戦争の際に落城前に持ち出された。なぜ会津に伝来したのかはわかっていない。西洋人が描かれているがキリスト教を前面に打ち出していないのが幸いして、豪華絢爛で珍奇な絵なので中央から離れた会津で秘蔵されたのだろう。
元は八曲一双で、今回の展覧会に出品されたのは神戸市博物館蔵の四曲である。神聖ローマ皇帝ルドルフ二世、トルコ皇帝、モスクワ大公、タタール王が描かれている。もう一方の四曲はサントリー美術館蔵でペルシャ王、アビシニア王、フランス王アンリ四世、それにイギリス王など諸説ある王様の四人が描かれている。
『泰西王侯騎馬図屏風』の画題は西洋だが、日本画の技法で描かれておりイエズス会のセミナリオで西洋画を習った日本人画家の作だと考えられている。中国での布教でもわかるように、イエズス会は世俗迎合的なところがあり、この作は歴史区分の桃山時代ではなく江戸時代に入ってから描かれたと推定されている。イエズス会が為政者の歓心を買うために、あえてキリスト教を排除して作られた絵の可能性が高い。しかし家康は政教分離的なイエズス会をも退けて、完全にキリスト教布教の意志がないと言明したプロテスタントのオランダのみを交易相手に残した。
西洋文化(南蛮文化)の影響は桃山から江戸初期の遺物を見ると非常に強い。西洋列強同士の鞘当てだけでなく、イエズス会と禁欲的ドミニコ会修道士たちとの対立もあった。その中で様々な南蛮美術が生まれた。しかし江戸初期の徳川幕府の絶対権力を恐れて多くの文物が失われてしまった。文書資料はさらに少ない。南蛮文化は桃山の華である。今回の展覧会では一つのコーナにまとめて遺物が展示されていたが、これも中途半端だったと言わざるを得ない。
黒楽茶碗 銘 禿
一口 陶製 高九×口径九・六×高台径五・三センチ 安土桃山時代 十六世紀 京都・表千家不審菴蔵
桃山文化のもう一つの華は茶道である。日本史でも珍しい権力者と文化人の衝突が起こったのもこの時代ならではである。利休は信長と秀吉の茶道だが単なるお茶の先生ではない。正親町天皇から利休号を賜ったことからもわかるように、堺衆の利権を代表するフィクサーであり隠然たる権力を持つ政治家でもあった。「利を休めよ」の号は、利休が相当な切れ者だったことを示唆している。
天正十九年(一五八五年)の秀吉の命による利休自刃は、秀吉的なるものと利休的なるものの明確な対立の結果である。それがどんなものだったのかは、やはり秀吉の勘気を恐れて歴史から抹消された節がある。多くの小説家などが興味を惹きつけられてきた由縁である。
為政者として見ると秀吉という人にはかなり問題がある。実子に恵まれなかったので次々に後継者を立て、晩年になり息子秀頼が生まれると、後継者だったはずの関白秀次を蟄居切腹させてしまった。身内びいきも含め、その人間臭いところがいつまでも秀吉が愛される理由だが、利休との関係では最初利休に師事し、後には利休を乗り越えようとした節がある。
『黒楽茶碗 銘 禿』は、利休が聚楽第の朝鮮人瓦職人だった長次郎(楽家初代)に焼かせたと言われる名品中の名品茶碗である。ただ最初に見た人はこの茶碗がなぜ名品なのかわからないだろう。茶道具の多くは経年変化で古寂びて見えるが、長次郎の作品は最初からカセたような肌合いである。釉薬が溶けきっておらず、ガサガサの肌に見えるのだ。しかしそれが利休の美意識だった。
この利休の美意識が、堺衆と文禄・慶長の役で豊臣政権内で力を持つようになった博多衆との政治的対立だけでなく、茶道でも黄金の茶室を作ったりするようになった秀吉と対立するのは半ば必然である。長次郎作の茶碗は「今ヤキ」(最近作られた物)と呼ばれたが、利休自刃の理由の一つに、利休が今ヤキ茶碗を法外な値段で諸大名に譲ったことがあると言われる。利休の茶道具は無価値の価値である。権威好き、黄金好きの秀吉が怒ったのも無理はない。
桃山時代の茶道具の名品には、物が権力者同士の闘争や和合を伝えているものが非常に多い。文書情報は抹消されていても、物がその経緯を伝えていることもある。利休遺愛品はその最たるものである。
また利休遺愛品にはまったく桃山南蛮文化の影響が見られない。室町東山文化的茶道をさらに推し進めた境地である。秀吉に否定されたが家康によって千家復興が許されたのも利休的茶道の普遍性を物語っている。今回の展覧会では比較的多くの茶道具が展示されていたが、残念ながら権力者との関係が見えるほどの質量ではなかった。
伊賀耳付水指
伊賀 一口 陶製 高二〇・五×口径一五・二~一六・二×高台径二一・三センチ 安土桃山~江戸時代 十六~十七世紀 京都・表千家不審菴蔵
もう一つ、為政者と文化の軋轢を端的に示す出来事に古田織部自刃がある。織部は美濃の小大名だったので、利休とは違う公人である。信長、秀吉、そして関ヶ原以降は家康に仕えた典型的な戦国大名の一人だった。大名ながら利休正統後継者として徳川二代将軍秀忠の茶道となり茶人として大きな影響力を持ったが、大坂夏の陣で豊臣方との内通の嫌疑をかけられ家康の命で切腹した。「申し開きも見苦し」と言い残し腹を切ったと伝わる。戦国大名らしい最期である。
織部が指導して作らせた陶器に桃山志野・織部陶がある。また文禄の役で秀吉に扈随して肥前名護屋城に逗留した際に、唐津焼きを指導したこともほぼ確実である。伊賀焼に関しては、当初好みの作品を茶道具として取り上げていたが、やがて伊賀陶工を指導するようになったようだ。図版掲載した伊賀耳付水指は、織部が指導して焼かせた(もちろん織部配下の陶工が現地に赴いたのだろう)作品だと推定される。
織部陶ほど桃山時代の対外的に開かれた自由な精神を端的に表した遺物はない。「ひょうげもの」と呼ばれたように、織部陶は今にも動き出しそうなダイナミズムを持っている。また模様などに南蛮文化の強い影響を受けている。しかし織部自刃と同時にやはり織部の記憶は文書資料などから抹消された気配がある。
京都には桃山から江戸初期にかけて三条界隈に「せと物や町」があった。そこから近年の発掘調査で大量の織部様式の陶器が出土した。その多くが完成品で、美濃の生産地から京都に運ばれてきた物だった。織部自刃の報を聞いた町人たちが、徳川様を恐れて織部陶を処分したのだと推測されている。
初期の徳川幕府にとって、豊家と深い繋がりのあった大名を可能な限り排除するのは政権安定のために必要不可欠だった。織部茶道(茶道具)の革新性は、徳川幕府には一顧だにされなかったわけである。実際魯山人の陶工だった荒川豊蔵が昭和五年(一九三〇年)に志野古窯を発見するまで、志野織部はどこで焼かれたのかすらわからなくなっていた。織部もそれまで忘れ去られた人であり、志野古窯発見から急速にその業績の再評価が始まった。
桃山時代で一番人々の興味を惹きつけるのは信長、秀吉、家康の天下取りである。多くの小説や映画、ドラマになった通りである。ただ文化にスポットライトを当てると表舞台の武将たちは主役ではなくなる。絶対専制君主に翻弄された文化の軌跡を物から辿るのがメインになる。南蛮文化、利休、織部がその代表になる。これらは残された物からしかその機微を推測できない。しかし今回の展覧会は総花的でいずれのポイントについても深みに欠けていた。
四季花鳥図屏風(右隻)
狩野元信筆 六曲一双 紙本金地着色 各縦一六二・四×横三六〇・二センチ 室町時代 天文十九年(一五五〇年) 兵庫・白鶴美術館蔵
檜図屏風
狩野永徳筆 四曲一双 紙本金地着色 各縦一七〇×横二三〇・四センチ 安土桃山時代 天正十八年(一五九〇年) 東京国立博物館蔵
雪中梅竹遊禽図襖
狩野探幽筆 四面 紙本墨画 各縦一九一・三×横一三五・七センチ 江戸時代 寛永十七年(一六三四年) 愛知・名古屋城総合事務所蔵
今回の展覧会では、狩野派の絵は唯一まとまって鑑賞できた。狩野元信は実質的な狩野派の始祖。足利将軍家に仕えたが、中国絵画を手本とした室町水墨画に着色の大和絵を取り入れ狩野派画法の基礎を築いた。元信らしさは水墨の方がよくわかるところがあるが、『四季花鳥図屏風』(右隻)は室町末の天文十九年(一五五〇年)作で、金地の豪華な花鳥図が時代の変化をよく表している。これが孫の永徳の代になると障壁画となり表現が一気に大胆になる。
永徳は信長、秀吉に重用され愛された絵師である。安土城、聚楽第、大坂城などの障壁画は永徳率いる狩野派によって描かれた。ただ残っていれば永徳代表作となったであろう作品は、落城炎上でその多くが失われた。『檜図屏風』は八条宮家の障壁画だったと考えられている。実子が生まれなかった秀吉は正親町天皇の孫智仁親王を猶子としたが、鶴丸が生まれたので関係を解消して八条宮家を創始した。宮家御殿を飾ったのが永徳障壁画でそのいくつかが今に伝わっている。これでもかというくらい幹の太い檜の描き方は永徳ならではだ。権力者の威光を思いきり前面に押し出した堂々たる画風が永徳様だった。
探幽は永徳の孫に当たる。徳川家の信頼厚く、幕末まで続く狩野派全盛をもたらしたのは探幽である。探幽的な大胆さは陰を潜め、元信的な室町絵画と探幽の着色画の斬新さをほどよく調和させたような画風である。展覧会では代表作に近い狩野派三巨頭の作品が展示されていたのでその変遷を辿りやすかった。
桃山文化は複雑で、権力者と足並みを揃えた文化を追えば狩野派中心の絵画になる。時に権力と対立し弾圧されながら、後世に大きな影響を与えた文化に南蛮文化や茶の湯がある。今回の展覧会では刀剣から着物、絵画、南蛮美術、茶道具、小判や鏡などまで展示されていたが、ちょっと雑多な感じがした。桃山時代に限らないが、手を広げすぎるとかえって全体像がぼやけることが多い。何かに焦点を合わせないとその時代の特徴(本質)が見えて来ないのである。
もちろん桃山文化にまったく馴染みのない人が今回の展覧会を見れば、それなりに得るものはあるだろう。桃山入門編としてはほどよい展覧会だったかもしれない。物自体は宗達・光悦合作の『鶴下絵三十六歌仙和歌巻』や光悦『舟橋蒔絵硯箱』、千代姫『初音調度』など、「へぇぇぇっ!」と驚いてしまうような超一級品が展示されていた。しかしそれら名品にスポットライトが当たっていたという感じがしなかった。ちょっともったいない。一つ取り上げてもそれ中心に展覧会が開けるような名品である。
美術館の展覧会は権威がある。日本のフラグシップ美術館の東博企画展ともなればなおさらだ。でもまあはっきり言って、毎回素晴らしい展覧会が開催されているわけではない。ストレートに言えば、今回の桃山展はコロナ禍の最中の苦し紛れの展覧会という感じがちょっとした。でもま、次の展覧会も見に行きますですぅ。
鶴山裕司
(2020 / 10 / 17 22枚)
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