No.112『もうひとつの江戸絵画 大津絵』展
於・東京ステーションギャラリー
会期=2020/09/19~11/08
入館料=1,200円(一般)
カタログ=2,300円
ちょいと美術展時評を書いている時間がなかったので、今回は東京ステーションギャラリーで開催された美術展を二本連続で。一本目はもう展覧会は終了してしまったが『大津絵』展。
大津絵は江戸初期から明治中頃まで、今の滋賀県大津周辺で大量生産され販売された土産物の絵である。大津は今や日本のどこにでもある地方都市だが、江戸から明治にかけては琵琶湖から船で輸送された様々な荷を京阪地方に運ぶための要所だった。トラックなどがなかった時代、大量の荷を運べる水路はとても重要であり、今とは違う形で町や村が栄えていた。大津はもちろん東海道と中仙道が交わる宿場町だった。武士や商人、庶民など大勢の旅人で賑わったわけだが、大津絵は旅人たちがほんのわずかなお金で買い求めることができた土産物の絵だった。庶民はちょっとした飾り物やささやかな楽しみのために大津絵を買ったのである。
今回の大津絵展はとても刺激的かつ画期的だった。大津絵は古美術の世界では比較的よく知られた民画である。民画は有名画家が手がけた絵ではなく無名の画家――多くの場合工房で大量生産された絵である。絵馬や護符の絵なども民画の一種だと言っていいだろう。ただし大津絵は近江国追分などの特定のエリアで三百年近くに渡って作られ、かつ一定の画風、つまりある決まった思想を持っているのが他の民画と違う。「なぜこんな絵が作られたのか」「なぜこんな画風になったのか」といたく興味をそそられる民画なのだ。
ただし大津絵の展覧会を美術館で開くのは難しい。ひっくり返っても国宝、重文指定されるような作品はないわけだから、今ひとつ話題性に欠ける。また東博のような広い会場で開催するには作品のバリエーションと文化的奥行きが足りない。中小の美術館にふさわしい対象だとは言えるが、なかなか手を出す美術館がない。そんな中で東京ステーションギャラリーは今までも独自の視点で企画展を開催してきた。大津絵のような民画は切り口が斬新でなければ、骨董好きのための古ぼけた愛玩品か、すっとぼけたかわいい絵で終わってしまう。
単独の大津絵展は十年、二十年に一度しか開催されないだろう。美術展には優れた美術品を来場者に見せる目的と、現在までの研究成果を広く知らしめるという二つの目的がある。今度の大津絵展はその両方をしっかり満たしていた。印象派展などはいくらでも図録があり、解説もさして目新しいことが書いてなかったりするが、今度の大津絵展は展覧会は終わってしまったが図録だけでも入手しておく価値がある。今後数十年に渡って今回の図録が大津絵鑑賞の一つの土台になると思う。
青面金剛
一面 縦五三・三×横二四センチ 柳宗悦旧蔵 日本民芸館蔵
大津絵でまず思い出すのは東京駒場の日本民藝館であり、創立者の柳宗悦である。柳には文献などを精査した著書『初期大津絵』(昭和四年[一九二九年])がある。大津絵に関する最初の研究書であり、柳によって大津絵は一般によく知られるようになった。柳は民画を「民衆の間から生まれる無名の絵画」と定義したが、大津絵がその代表である。大津絵というとすぐに民画が思い浮かぶのは柳の影響である。
『青面金剛』は柳の収集品であり『初期大津絵』にも図版掲載されている。柳は自身で四十点ほどを集めた。青面金剛は庚申信仰のご本尊である。ありがたい仏画だが簡素でどこかユーモラスだ。上部の○は日月を表すが、これは木版で押してある。下部の雌雄の鶏や金剛像の光背なども木版だろう。その上から手早く色を塗っている。このくらいの大きさの大津絵は和紙を二枚貼って作られている。また表装は江戸時代のオリジナルである。いわゆる貧乏表装で、軸は木の棒を削って墨で黒く塗ってあると思う。浮世絵の縦長美人絵などにも同様の貧乏表装がある。買った人は丸めて家に持ち帰ったのだろう。
柳の民芸は絵に限らず陶磁器や木器、仏像、織物や染色などにも及ぶ。ほとんどは作者がわからない庶民の芸術である。思想家でもあった柳の文脈に沿って言えば、民芸とは〝モノから時代の無意識の意識〟を読み取る試みだった。無名の作者が生活のために作ったモノには強い芸術的意図は込められていない。しかし時間が経つとそこには時代ごとの精神性が刻印されている。そんな時代の無意識をハッキリとした意識として読み解いた最初の人が宗悦だった。
またモノはその用途が失われて――わからなくなって初めて、モノそのものの美しさが際立つものである。実用品などはいつの時代でも使い勝手が良いように作られている。しかし時代が変わると道具も変わり、使いづらい不要品になってしまう。しかしその時初めて人間の目にモノそのものが持っている美しさが見えてくる。美学的に言うと柳はそんな古物に新鮮な目を向けて初めてその美しさを〝発見〟し紹介した。これも柳の専売特許のようになっている「用の美」である。現代のコレクターたちが大騒ぎして探し求めている多くの古物が柳によってその美を見出されたのだった。
ただ蒐集家にはどうしてもその人の癖――美意識が出てしまうもので、柳蒐集の大津絵は絵だけで詞書きのないものが多い。大津絵に書かれている言葉にはあまり興味がなかったようだ。そこに柳の姿勢というか思想が表れている。またそれが今にまで至る大津絵受容の基盤になっている。大津絵は安価で気楽な庶民の絵(美術品までいかない飾り物)であり、自由闊達だが雑でもあるその絵から、当時の人々の笑いや緩い信仰心などを読み取ることができるということである。教訓的な詞書きは柳にはむしろ不要だったのだろう。しかし柳的な民芸の文脈で展覧会を開いたのでは従来と同じ切り口になってしまう。
大津絵は欧米では今ひとつポピュラーではないが、幕末から明治にかけて浮世絵などが一大ブームを引き起こした。いわゆるジャポニズムである。遠近法のない抽象化された浮世絵(日本画)の技法や色彩が、印象派を始めとする画家たちに多大な影響を与えたりもした。欧米の画家や文化人たちは自分たちとは異なる文化基盤に基づく日本美術をカウンターカルチャーとして発見したのだった。これとは質が違うが明治維新以降の欧米文化の大流入が一段落すると、日本人もまた日本美術の特質や素晴らしさに改めて気づくという現象が起こっている。
柳は陸軍少尉で貴族院議員も務めた柳楢悦の子どもである。大学は帝大だが高校は学習院だったことからもわかるように当時のボンボンだ。若い頃は欧米狂いでロダンと文通して作品を手に入れたりしている。しかし二十代の中頃に日本美術の素晴らしさを〝再発見〟した。欧米的思想や美学に耽溺した後に改めて日本美術の特徴に気づいたのである。それ以降の柳は民芸運動――日本や東アジア美術の発見・再発見一筋になった。
この日本美術の発見・再発見は柳だけでなく、明治・大正の作家や画家に広く見られる。ステーションギャラリーの大津絵展はそれを新たな切り口としている。柳の『初期大津絵』の重要性は今も健在だが、コレクターとして大津絵を集めたのは柳が最初ではない。また今回の展覧会のための調査で、柳のように著作は残していないが、実に多くの文化人たちが大津絵の魅力に気づき作品を蒐集していたことが明らかになった。画家なのか物書きなのかによっても大津絵の集め方やその理解は異なる。
なお余談だが、今回の展覧会のポスターには「欲しい!欲しい!欲しい!何としても手に入れたい!誰がための画か―民衆から文化人へ」と刷られている。しかし僕はけっこう骨董屋を見て回っているが、質のいい大津絵にお目にかかったことがない。あっても大正・昭和以降の写し物が多く、骨董屋も「時代ですか? うーん、若いんじゃないですか」と気のない受け答えをする。値段も五万とか十万とか中途半端だ。
もちろん大津絵は大量生産の土産物なので、今のところ制作年がわかる基準作は発見されていないようだ。しかし長いこと骨董を見ていると紙質や絵の具などからだいたいの時代はわかる。モノの性格から言って市場に出ても三桁に乗る作品は滅多にないだろうが、質のいい大津絵の本歌は今ではかなり入手困難である。
鬼の念仏
一面 縦六〇・二×横二二センチ 山内神斧→小絲源太郎旧蔵 笠間日動美術館蔵
『鬼の念仏』は大津絵では最もポピュラーな画題の一つである。人間を食ってしまう鬼なので頭が大きく描かれているが、黒い法衣を着て勧進のための鐘と撞木を持っている。この画題には伝承がある。大津の強欲な僧侶が寺の修繕の名目で寄付を募って私腹を肥やしていたが、ある男が僧を懲らしめるために地蔵菩薩の面を被ればもっと寄付が集まると言って鬼の面を付けさせ勧進に出した。怖れ驚いた人々が石などを投げつけたので左の角が折れてしまい、僧侶はそれきり姿を消してしまったのだという。ただ伝承とは別に、この画を掛けておくと子どもの夜泣き封じになると信じられていた。庶民はそんな目的で買い求めたのだろう。大津絵では比較的初期に作られた優品である。
旧蔵者の山内神斧は大阪船場の材木商の息子で、上京して東京美術学校(現東京藝術大学)で日本画を学んだ。画家としては大成できなかったが大阪では最初の画廊「吾八」を開いた。明治になって初めて大津絵の展覧会を開いたのは神斧である。思いつきで大津絵展を開催したのではない。明治四十五年(一九一二年)の日本初の大津絵展では図録『大津絵集』も刊行している。神斧は最初に大津絵に魅了されたコレクターの一人だった。また神斧の画廊から小絲源太郎を始めとする画家らに大津絵の優品が行き渡っていった。柳と同様、神斧もまた欧米絵画や文化をよく知るインテリの一人だった。大津絵はそういったインテリ知識人によって〝発見〟されたのだった。
傘さす女
一幅 縦六二・四×横二三・二センチ 小絲源太郎旧蔵 笠間日動美術館蔵
長刀弁慶
一面 縦六五・三×横二二・三センチ 梅原龍三郎旧蔵 個人蔵
『傘さす女』は洋画家小絲源太郎旧蔵品で、『長刀弁慶』は同じく洋画家の梅原龍三郎旧蔵品である。浮世絵にも見られる構図なので江戸後期の作だろう。
大津絵について書き残した文章類はないが、小絲のコレクションは二十件三十二点にも及ぶ。蒐集点数は不明で現在は所有者も違うが、梅原もかなりの数の大津絵を所蔵していた。こちらは大津絵について「自分は大津絵を特種なものとして好くのではない、一つの立派な絵画として古今の傑作と同時に、同様に愛するのである。また自分の爲にはよく学ぶべき手本として考えられるのである」と書き残している。昭和三十七年(一九六二年)に渡欧した際にはフランスのギメ美術館に大津絵二点を寄贈している。日本を代表する絵画だという意識があったのだろう。
今回の展覧会で面白いのは、旧蔵者を特定して大津絵の名品を展示紹介していることである。小絲も梅原も、単なる骨董趣味ではなく、絵として参考になる作品を集めていた。『傘さす女』も『長刀弁慶』も、期せずしてと言わざるを得ないが闊達な線と色遣いである。同じ画題の作品を大量に量産したので線や色に迷いがなく素早く的確だ。二人とも線が流麗で色遣いが優れた作品を蒐集していた気配がある。
独自の魅力はあるが、佐伯祐三らを典型として、明治、大正、昭和の画家にはヨーロッパに憧れヨーロッパ絵画を模倣し、一定の成果はあげたが生涯ヨーロッパ絵画の影響から抜け出せない画家がたくさんいた。しかし小絲や梅原は洋画を日本独の表現にまで昇華した。とりわけ梅原の作品評価が高いのは、ルノワールに師事した欧米帰りの特権的画家であるにもかかわらず、これぞ日本の洋画と言えるような作品を描き残したからである。
大津絵の旧蔵者には益田鈍翁を始めとして、明治の名だたる旦那衆もたくさんいる。それは彼らが後に重文、国宝指定されるような名品ばかりを集めたコレクターではなく、安価でも的確に美術を見極める目を持っていたことを示している。ただ大津絵が今回の展覧会のタイトルになった「もうひとつの江戸〝絵画〟」と呼べるのは、小絲や梅原らの受容によってである。彼らは大津絵を優れた絵と捉え、その画法や精神を洋画―油絵の表現に取り入れマージしたのである。
小絲や梅原の旧蔵品のほかにも今回の展覧会では浅井忠や星野空外、北野恒富、山村耕花、長野草風、田村春暁、長谷川仁、麻生三郎らの画家たちが所蔵していた大津絵も展示されていた。古美術愛好癖はあったのだろうが、創作のヒントになるから大津絵を購入したのだろう。顔が完全に欧米に向きがちな前衛画家は含まれていない。洋画家でも日本的な作風を追い求めた作家が多い。
大黒
一面 縦三一・七×横二二・七二センチ 富岡鉄斎→小絲源太郎旧蔵 笠間日動美術館蔵
明治維新後の欧化主義の嵐の後に日本的絵画を〝(再)発見〟した流れのほかに、今ひとつ「もうひとつの江戸〝絵画〟」と呼べる系譜がある。南画や俳画である。富岡鉄斎は最後の南画家と呼ばれた学者で儒者である。もちろん欧米絵画の影響は受けているが、その骨格は江戸の南画家そのものである。
『大黒』は鉄斎が所有していた『古筆大津絵』画帖の中の一枚である。元は折本で十三枚が貼られていたが、現在は一枚ずつ額装されている。鉄斎死後に売り立てられて小絲の所蔵になった。『大黒』には詞書き(道歌)が書かれている。
うへを見ずかせぐ
うち出の
小づちより
よろづの
たから
わきいづる
なり
大黒ハ福をやらふとのたまへど
もらふやうなる人ぞすくなき
「富貴の人をうらやまず、勤勉に働くことが打ち出の小槌から宝を生み出す秘訣である。大黒様は福をやろうと言うけれど、もらった人は少ないではないか」といった教訓的な内容である。鉄斎旧蔵の十三枚の内、『藤娘』を除く十二枚すべてに道歌が書かれている。鉄斎は詞書きのある大津絵を好んだのだろう。
鉄斎は南画は儒学を修めた学者が描く絵画であり、「わたしの絵は賛から読んでほしい」と言った。鉄斎の絵には道学的なものであれ、戯れ歌であれ、必ず賛(詞書き)が書かれている。写実的であっても南画の本質は儒者の心を表現する絵画であり、学問的探求の一つだからである。
もちろん大津絵は庶民が気楽に楽しんだ工芸的な絵だから、江戸時代最高のインテリだった儒者の描く南画とは質が違う。しかし鉄斎蒐集品は、鉄斎が貪欲に大津絵を参考にしてそこから学んだことを示している。
ヨーロッパ古典絵画もそうだが、日本や中国の古い絵画には意味がある。意味で満ちていると言ってもいい。しかしヨーロッパの画家たちが画面にはその意味(文字)を書かなかったのに対し、日本や中国には書画一体の作品が多い。絵画はもちろん文字(書道)もまた絵の一種であり、それが伝える意味も大事なのだ。絵の意味は明白で文字に書かれすべて解題されているとしても、それを超えた意味が書画一体の画面から感受できるのが優れた東洋絵画というものである。
大津絵はこの書画一体の東洋絵画を最も単純かつ原始的に表現している。鉄斎がある意味江戸時代の南画家よりも高い評価を得たのは、その作品が〝上手い〟を通り超した〝稚拙〟の域にまで達しているからである。それは明治・大正時代を生きた遅れてやって来た南画家、鉄斎による江戸南画の相対化でもあった。この境地は大津絵に通底するところがある。
五人男伊達(雁金五人男)
二曲一双 各五九・五(縦)×二〇・五(横)センチ 山本爲三郎旧蔵 アサヒビール大山崎山荘美術館蔵
『五人男伊達(雁金五人男)』は朝日麦酒(アサヒビール)初代社長の山本爲三郎蒐集品。歌舞伎の『白浪五人男』で有名になった若衆全員が描かれた大津絵を屏風に仕立ててある。よく知られているように『白浪五人男』は二代目河竹新七(黙阿弥)作の当たり狂言で、文久二年(一八六二年)江戸市村座初演。ただし五人男の事件自体はもっと古い。元禄十五年(一七〇二年)に、今でいう半グレのような大坂の若者たちが騒動を起こして捕まり獄門になった。雁金文七が若者たちのリーダーだった。以降それが歌舞伎や浄瑠璃の題材になり、黙阿弥の大ヒット狂言で定着したのだった。
屏風の左端には蜀山人こと太田南畝の狂歌「浪速江のあしき友にも/まじハれは/いつしかそまる/いつつかりかね」の墨書が貼ってある。解説がないので判然としないが書跡は南畝である。ただし南畝は文政六年(一八二三年)没なので、当初から南畝が賛を加えた屏風だとすると文政六年以前の作ということになる。黙阿弥『白浪五人男』以降の大津絵だとすると数寄者が大津絵に南畝狂歌を取り合わせたことになる。最幕末の作とは思えないので前者ではなかろうか。いずれにせよ南畝の狂歌はこの大津絵屏風によく合っている。
狂歌の源流が室町時代に発生した俳諧連歌にあるのは言うまでもない。鎌倉時代以降に定着した、現世を冷たい裸眼で見通すような禅宗の精神が浸透した影響で、平安時代までは雅だった和歌が、殺伐とした現世の本質を描くような俳諧へと変化していったのだった。
芭蕉に「大津絵の筆のはじめは何仏」(元禄四年[一六九一年])があるのはよく知られている。元禄時代にはすでに大津絵があったわけだ。今回の図録解説、田中晴子さんの「近代における文化人大津絵愛好の前夜―江戸期の展開」によれば、大津絵が文献に初登場するのは万治四年(一六六一年)の浅井了意の仮名草紙随筆『似我蜂物語』なのだという。柳宗悦は『初期大津絵』で大津絵は慶長年間(一五九六~一六一五年)まで遡れると書いているが、その可能性もある。近世的な俳諧連歌と大津絵の精神は連動していると言っていいからである。
俳諧の定着と同時に、江戸時代にはこれも「もうひとつの江戸〝絵画〟」と呼べる俳画が盛んに描かれた。下手くそだが芭蕉も自作の俳句に俳画を添えたりしている。その巨人が南画家でもあった与謝蕪村である。この俳画と大津絵は密接に関係している。蕪村で俳画と南画が交わったとも言える。
芭蕉「古池や」に代表されるように、俳句は極端に、限界まで切り詰められた言葉で何事かの本質をズバリと表現する芸術である。その絵画的応用が俳画だった。単純極まりない線と色で、人間や自然風物の本質を的確に表現する。この人や物事の本質をズバリと表現する俳画と大津絵はとても近しい。どちらが先だとは言えない。俳画と大津絵は同時発生的だと言っていいだろう。
現物は特定できないが、山東京伝を始めとして江戸時代にも大津絵を集めた文人はいた。明治時代には子規門の水落露石が熱心な大津絵コレクターだった。俳句や戯作と大津絵の表現は近しい。もちろん俳句や戯作は――今とは少し質が違うが、特定の作家による自我意識表現である。しかしだからこそ、江戸から明治・大正時代に至る文人たちは大津絵を愛好したのだとも言える。
大津絵には基本的に教訓的な道歌が書かれている。時代が下るほど絵と道歌の組み合わせが定番になってゆく。しかし杓子定規でしかつめらしい教訓が書かれている――描かれているとは言えない。大津絵では絵の表現が文字表現を微妙に裏切っていることが多いのだ。
女に騙されるな、酒に呑まれるなという道歌が書かれていても、絵では美しい女を描き、楽しそうに酒を飲む人や鬼を描いている。意図的ではない。それが庶民の精神である。社会秩序は守らなければならない。それがルールである。しかし楽しいことは世に満ちている。人間はそんなアンビバレントな精神を抱えて現世を生きている。その矛盾するようでいて、まったく矛盾を意識しないで平然と生きている人々の心が大津絵に表現されている。そんな意識以前のおおらかな現世肯定を、自我意識表現に生きる文人墨客たちは鋭く嗅ぎ取って大津絵を愛したのだろう。
こけし、土人形、幟旗など、作られた当初は安価でチープな飾り物だったので、今ではその原初をたどりにくくなった物はとても多い。しかしその一つ一つが日本的精神を体現している。時間が経たないと物が表現している精神性はハッキリと人間の目に見えてこないということでもある。
美術展ではピリッとした名作を並べないと展覧会を開きにくいだろう。しかしささやかな庶民の遺物には、それをじっくり見て読解する楽しみがたくさん秘められていることが多い。
鶴山裕司
(2020 / 12 / 13 21枚)
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