富山県立山博物館
富山県中新川郡立山町芦峅寺93-1
電話:076-481-1261
FAX:076-481-1144
常設展示=300円、特別企画展=200円、遙望館=100円、まんだら遊苑=400円(一般)
銅錫杖頭
明治四十年(一九〇七年)に鉄剣とともに剱岳山頂で発見
平安時代初期作 国指定重要文化財
コロナ警報発令中ですが、八月末にコソッと富山の実家に帰省してきました。感染リスクを考えると車の方が安全なのだが、今回は新幹線半額キャンペーンの誘惑に負けて行きも帰りも北陸新幹線。乗車率は低かったですな。隣り合わせに座っているのはカップルやご夫婦だけだった。みなマスクをして、咳やくしゃみをする人もおらず実に静か。去年帰省した時はガラガラの北陸自動車道でスピード違反で捕まったが、今回はそういう心配はありませなんだ。帰省している間、ご近所の人に石を投げられたりもしませんでしたよ。
今年は三泊四日の帰省だったが、もう四十年近く実家を離れていると、まあお客様のようなものである。墓参りなどの恒例行事を済ませ、足腰弱ったがまだ頭はシャッキリしているなと両親の様子を確認すると特にすることもない。例年なら近代美術館時代から通い慣れた富山県美術館に行くところだが、ここもコロナで企画展は中止。常設の瀧口修造コレクションを見ようかなと思ったが、どーも気乗りがしない。レイド・バック気味で現代美術を見る気分じゃなかったのだ。そこで前から気になっていた富山県立山博物館(立博)にぴよぴよと出かけた。
富山県は平野部と山岳地帯にはっきり分かれる。晴れた日に東京方面を眺めると、標高三〇一五メートルの大汝山を中心とした立山連峰が青々とした屏風のようにそびえ立っている。立山連峰から流れ出した土砂で広大な平野部ができたわけだが僕は平野の、しかも海側の土地の出である。学校行事でもプライベートでも立山登山はしたが、山岳部に親戚もいないので山の民の習俗にはうとい。海側は魚介が豊富にとれる土地柄なので、山側とはかなり生活様式が違うのだ。
富山は浄土真宗が非常に盛んである。親鸞を開祖とし、蓮如を中興の祖とする本願寺派が、室町時代から安土桃山時代にかけて絶大な力を有していたのは言うまでもない。大坂城も金沢城も元はといえば本願寺派の寺、というより軍事要塞だった。富山は加賀百万石の支藩だが、加賀一向一揆衆時代くらいから浄土真宗が深く浸透した。
どこの土地にもいろんなタイプの人が住んでいるが、富山県人の県民性は、人のことは言えないがかなり理屈っぽい。そして意外と諦めが早くあっさりしている。富山弁に「どうなるいね」という言葉がある。「どうにもならない、仕方がない」という意味である。何か困ったこと、手に負えないことが起こると富山県人は「どうなるいね」と口にする。深い諦念を心の底に持っているのである。
大学生の時にドストエフスキーの小説を読み耽ったが、その会話部分は富山県人のそれに近いと思った。理屈っぽいのだが底には深い諦念を抱えている。キリスト教と仏教では宗教の質が違うが、現世を相対化するような宗教観を持っていると会話は逆に露骨で猥雑になりやすい。妙に観念的でもある。僕とは詩のタイプは違うが、瀧口修造を読んでいると「ああ富山県人だな」と思う時がある。
こういった富山県人の浄土真宗的心性が、仏壇や葬儀など、生活の節々にまで表れていることには当然気付いていた。その典型例として立山信仰があることも知っていた。ただ僕はうまい魚を食っていればご機嫌な海の民である。たまに山側の庄川に鮎を食べに行くことはあるが、あまり山岳信仰には興味が湧かなかった。それではイカンと思い、海側の民は初めて山の聖域に足を踏み入れたのだった。
父親の車を借りて行ったのだが、一時間ほどだらだらの坂道を上ってゆくと両側に杉の大木が並ぶ山道である。背中に小猿を乗せた母猿が、ゆうゆうと車の前を横切っていったので「げっ」と思った。平野部で猿を見たことなど一度もない。山側の、その名も山田村出身の人が「朝起きて畑に行くと、ほかほかの熊のウンコがある」と言っていたが、このあたりは熊も出るのだろう。一時間半ほど車を走らせると立山町の芦峅寺に着いた。芦峅寺が聖域立山の玄関口である。
日本各地で見られるが、山の麓には神社が多い。山で薪を集め、山草やキノコを採り鳥獣の猟などをする前に神社にお参りして安全祈願をするのである。僕の実家のある海側では漁に出る前に詣る神社がある。
芦峅寺には聖域の入り口を示す雄山神社が建っている。元は神仏習合の雄山神社中宮祈願殿で中宮寺と呼ばれていた。今はこじんまりしているが、明治の廃仏毀釈まではもっと大規模な施設だったようだ。日帰りで行ける場所ではなかったので登山者、というより立山参拝者は雄山神社に詣って宿坊に泊まった。三十三宿坊があったというが今残っているのは教算坊だけである。教算坊のすぐ横に立博展示館がある。
雄山神社中宮祈願殿
教算坊
立博は常設と企画展に分かれていて、常設に安政の大地震のパノラマや遺物が展示されていた。富山は比較的地震が少ないが、幕末安政時代に飛越地震があった。江戸で安政の大地震があったのは安政二年(一八五五年)だが、飛越地震は安政五年(五八年)である。マグニチュード7の大地震だった。飛越、今でいう富山と岐阜県境の跡津川断層がずれたのである。江戸と富山の地震は三年離れているが断層の動きが活発な時期だったのだろう。
海で起こった地震ではないので津波はなかったが、飛越地震で立山の鳶山が崩れた。それによって平野を流れる大河、常願寺川が上流で堰き止められ、余震で堰が決壊して平野部で洪水が発生した。
富山の平野部は川と運河だらけである。冬は立山連峰に四メートル五メートルもの雪が積もる。雪国なので夏は涼しいのかというとそんなことはない。東京並みに暑い。夏になると一気に立山の雪が溶け出すので、それが大河になり運河になり、そこから引かれた用水路になるのだった。
水が豊富なので富山の平野部では稲作が盛んだ。近県の新潟や石川、福井には原発があるが、富山にはないのは水力発電でじゅうぶん電気をまかなえるからである。飛越地震では平野部に網の目のように張り巡らされた川や運河が溢れた。
布橋
立博を出て、三面大型スクリーンで35ミリの映像作品を上映している遙望館に向かった。閻魔堂の前を通り、布橋を渡らなければならない。この布橋が奇妙だった。真っ赤に塗られ、床の左右に柱のような敷板が並んでいる。歩きにくいことこの上ない。
渡りきってさらに驚いた。墓地が拡がっていた。今もお参りに来る人のいる墓地だが、墓地の景観を含む公共博物館はあまり記憶にない。後から博物館が来て附属施設が整備されたのでこうなったのだろう。予備知識がなく驚いたので、墓石を見て廻っていつ頃から始まった墓園なのか確認するのを忘れてしまった。
後でパンフレットを読むと、布橋は江戸時代までこの世とあの世の境界の橋だった。当然下には川、つまり三途の川に擬せられた川が流れている。布橋は長さ二十五間で二十五菩薩を表象する。高さ十三間は十三仏、幅九尺は九品浄土、桁数四十八本は阿弥陀如来の四十八願、敷板百八枚は煩悩の数(または数珠玉の数)、欄干の擬宝珠六個は南無阿弥陀仏の六字名号(または六地蔵菩薩)、釘と鎹は三万八千八本使われていて、これは法華経の文字数に合わたのだという。ずかずかと渡ってしまったが、本当なら敷板百八枚を一つずつを踏みしめて煩悩を清めなければならなかったようだ。
江戸時代の立山はあの世だった。男は立山に入山すると同時に死者となり、現代よりも遙かに危険で苦しい登山(禅定登山)をすることで身を清め、下山すると浄土往生が約束された。登山が死んでから行う地獄巡りであり、それを先取りすることで浄土往生できると考えられたのだった。
ただ江戸時代から明治初期まで立山は女人禁制だった。立山には美女平という地名があるが、禁を破って入山した女性は石や樹木に変えられるという伝説があった。そのため浄土往生を願う女性たちは毎年秋彼岸の中日に芦峅寺に集まり、布橋灌頂会で浄土往生を願った。
女性たちはまず布橋手前にある閻魔堂で懺悔の儀式を受けた。布橋を渡ると男の禅定登山と同様にあの世の人である。橋の向こうには姥堂(姥は正確には女偏に田が三つ)があり、そこで天台系の儀式を受けて受戒した。それにより女性たちは登山せずに浄土往生が約束されたのだった。姥堂には姥尊が祀られていた。
木造姥尊座像(芦峅寺閻魔堂蔵)〈富山県指定文化財〉
遙望館
廃仏毀釈で姥堂は取り壊され、姥尊の多くも散佚してしまった。布橋も再建である。姥堂跡地に建てられたのが真新しい遙望館だ。ただこのあたり一帯は聖域なので、土地が持っている力は自ずと感じ取ることができる。僕が行ったのは昼間だが、夜は濃厚に他界を感じ取ることができるだろう。
遙望館では『立山990』と『新立山曼荼羅絵図』の二本の映画を見た。映画を見終わってつくづく思った。人々は立山信仰で浄土往生を求めたが、その原動力は地獄に落ちることへの恐怖である。図像的にも人々の心に占める割合でも浄土よりも地獄の方が遙かに大きい。ちょっと極端なことを言えば、実体は地獄(実在)信仰である。
富山県に生まれると、小中学校行事で大寺などに連れて行かれる。近場の観光スポットでもあるからだ。あまり有名ではないが、日本三大仏の高岡大仏もそうだ。台座の内部は回廊で地獄絵が展示されている。小学校の遠足で行った。浄土絵もあったはずだがほとんど記憶にない。やらたと地獄絵が怖かったことしか覚えていない。
こういう体験は心に残る。女性はいつまでも幽霊を怖がりホラー映画なども嫌うことが多いが、それは男より原体験に素直なだけだ。男は大きくなると理詰めで怖さを封印しているわけで、幼児体験を掘り起こせばやはり怖い。遙望館ではお母さんに連れられた五歳くらいの女の子が最前列に座って映画を見ていた。お行儀よくしていたが、大迫力の映画は地獄絵の紹介が多かったから「ひぇーっ」と怯えながら見ていただろう。
遙望館から姥堂基壇越しの立山の眺め
映画が終わると遙望館のスクリーンが巻き上げられ、外の景色が見える。姥堂が建っていた基壇越しの立山である。江戸時代までの布橋灌頂会では姥堂の扉を閉め切って儀式を行った。受戒が終わると扉を開いた。暗い堂の中から清々とした本尊の立山が見えるのである。遙望館のスクリーン巻き上げはこの儀式を模している。
『吉祥坊立山曼荼羅』
全四幅 慶応二年(一八六六年) 絹本着色 縦一二八・五×横一四七センチ(掛け合わせ内寸) 東京・個人蔵
同部分 地獄で母と再会する目連
『吉祥坊立山曼荼羅』は江戸幕府老中・本多忠民が江戸の絵師・光斎林龍と林豊に描かせ、完成後に芦峅寺の吉祥坊に寄進した四幅構成の掛け軸である。江戸後期には加賀藩の認可を得た芦峅寺宿坊衆徒によって、江戸でも立山信仰が拡がった。池大雅も立山に入山して絵を描いている。富士山ほどではないが、立山も聖地としてかなり知られるようになっていた。
『吉祥坊』本立山曼荼羅は時の老中の寄進だけあって、高価な絵の具を使った豪奢な作品である。この作品が芦峅寺宿坊衆徒による立山勧進に使われたかどうかはわからないが、『立山曼荼羅』は基本的に、芦峅寺宿坊衆徒が全国を廻って善男善女に立山詣でを勧める際に使った一種の絵解き図である。そのため携帯しやすい軸形式で四幅が主流だった。全盛期には宿坊が三十三もあったのは、芦峅寺宿坊衆徒の勧進活動のゆえである。立山曼荼羅は現在まで四十一点が知られている。
内容は「立山開山縁起」「立山地獄」「立山浄土」「立山禅定登山」の四部構成である。下部が現世、真ん中が地獄、上部が浄土だと言っていい。上部に浄土が描かれているのですがすがしい印象を与えるが、絵解きのメインはなんといっても地獄の描写だったろう。
拡大図は地獄で母と再会する目連である。釈迦十大弟子の目連(もちろん漢訳名)が天眼で亡母が天上界に転生しているのかどうかを観察すると、地獄の責め苦にあっていた。目連は釈迦の力を借りて亡母を天上界に導いた。その伝承を描いている。現世で功徳を積まなければ亡き人も自分も浄土往生できないということで、立山参詣の大きな原動力になったはずである。ただ立山曼荼羅は、曼荼羅としてはとても特殊である。
言うまでもないが、曼荼羅には本来地獄の描写は含まれていない。空海を開基とする真言密教の曼荼羅は『大日経』と『金剛頂経』を根本経典とし、『胎蔵界』と『金剛界』から構成される。大日如来の上に釈尊(仏陀)が描かれ、その周囲を重要な仏が取り巻き、さらに外部に異教の古い仏が配置される。それによって仏を中心とした世界の構成を解き明かすのである。大日如来中心に世界が放射線状に拡がり、様々な仏たちがその周りを循環しているという世界観だ。しかし立山曼荼羅は現世から死後に地獄巡りをして、浄土往生するという直線的な構成である。
また日本の地獄のイメージは、比叡山横川の高僧、恵心僧都源信著の『往生要集』(永観三年[九八五年])によって確立された。原文漢文だが、口語訳も出版されているのでお読みになった方も多いだろう。まーこれでもかというくらい地獄の描写が多い。やり過ぎじゃないのと思うほど、微に入り細に入ってた描写である。本の世界にのめりこむと現代人でも怖い。
ただ源信は地獄は地下(地界)にあると書いている。その構造は複雑だが整然としている。また単に地獄の責め苦を経て天上界に転生できるわけではない。死者は閻魔王や十王によって生前の行いを審議され、どこに、どういう存在として転生するのかが決まる。人間として転生できるのは善人だけなのだ。浄土真宗のように、悪人でも南無阿弥陀仏を唱えれば、阿弥陀如来に救済されて浄土往生できるという思想はない。
能に『善知鳥』という曲がある。諸国遍歴の僧侶が立山で老人に出会い、自分の簔傘を妻子の家に届けて菩提を弔ってほしいと頼まれる。老人は生前猟師で海鳥の善知鳥などを多く殺したので、その殺生の罪で地獄の責め苦にあっている幽鬼だった。能楽らしく、猟師は僧侶の祈祷で成仏したのかしないのかよくわからないような内容――というより『善知鳥』が上演されるたびに幽鬼が舞台に現れ飽くことなく苦しみを語り続ける曲だが、中世には立山などの秘境に〝山中異界〟があるとされていたことがわかる。
この山中異界思想は仏教よりも古い。奈良の春日山を本尊とする春日曼荼羅などもその一つである。この日本の古い古い山中異界思想が、正統仏教経典を学んだ学僧・源信の『往生要集』と混じり合い、さらに浄土真宗の悪人正機説などとマージされてできあがっていったのが立山曼荼羅である。
伊勢神宮参拝(伊勢講)が神事であると同時に庶民の娯楽だったのはよく知られている。聖山・富士や立山詣でにも娯楽の側面はあった。しかし立山信仰は、北陸の根強い宗教風土を反映して幕末明治まで真摯な宗教色が強かった。また春日曼荼羅、富士(不二)曼荼羅と山を本尊にした曼荼羅はたくさんあるが、立山曼荼羅ほど緻密に地獄が描かれた曼荼羅はほかにない。
立山は休火山であり、中腹に硫黄混じりの熱水が湧き出る地獄谷がある。そういった地形的特徴が地獄のイメージによく合ったのだろう。立山は仏教的な名前のついた地名だらけである。地獄と浄土を具体的な土地に即して表しているのだ。『新約聖書』の地名は元々はキリストが属したエッセネ派の拠点があった死海あたりの、現代から見れば狭いエリアの地名だったという説があるが、それに近い感覚である。
また江戸や京都、大坂などの大都市から遠く離れた秘境だったので、立山には地獄と浄土があるというイメージが大きく膨らんだ。正統仏教経典を薄い下敷きにしているが、庶民の浄土往生を願う熱い思いが地獄の責め苦を経ての浄土転生という、直線的に上へ上へ――浄土へ浄土へ――と上昇するような曼荼羅を生んだのだろう。立山曼荼羅は正統仏教から見れば亜流の面があるが、庶民宗教の観点では極めて独自で完成度が高い。富山県が誇っていい仏教遺物でしょうね。
芦峅寺のスナップ
軽い気持ちで芦峅寺の立博に出かけたので、展示館と遙望館を見終わると夕方だった。しかし立博を中心とした公園はえらく広い。受付の人に聞いたら全部回ると二、三時間はかかるらしい。そこで今回は公園巡りをあきらめた。しかし芦峅寺の景観は魅力的である。冬はとても行く勇気の出ない場所だが、暖かい季節に再訪したら続編を書いてみようと思います。
鶴山裕司
(2020 / 09 / 15 17枚)
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