No. 109『特別展 きもの』
於・東京国立博物館
会期=2020/06/30~08/23
入館料=1700円(一般)
カタログ=3000円
コロナ騒ぎで美術館も閉館していたので、久しぶりの美術展時評です。この前書いたのは東博の『出雲と大和展』なので約五ヶ月ぶりですな。お店や映画館、劇場、美術館を開けることには賛否両論あるが、いつまでも閉じこもっているわけにはいかない。少しずつ日常が戻ってきたのはいいことだと思う。
東日本大震災など大きな災害の翌朝、首都圏では電車がダイヤ通り走っていないので駅に長蛇の列ができたりする。それを社畜だと批判する向きもあるが、必ずしも愛社精神で並んでいるわけではあるまい。一刻も早く日常を取り戻したいのだ。「また会社か、ヤダな-」と思っていたのが、大災害などが起こると人間は「昨日と同じ今日でありますように」と願うようになる。そういった希求が日常を取り戻してゆく力になる。とりたてて事件が起こらない日々は幸せなのだ。
もちろんコロナはワクチンも特効薬もない厄介な伝染病だから、お店や劇場などを開ければクラスターが発生したりする。ただそういった失敗から学ぶことで、より効果的な予防策を講じることはできるだろう。ほとんどのお店や施設、それに個々人は感染防止のための涙ぐましい努力をしている。ワクチンや特効薬に頼る前に、できる限りの予防策を講じなければならないのはほかの伝染病と同じである。
東博はネットで来館時間を予約する方式になっていました。各時間帯で入場者数に上限があり、それに達していないと当日券が買えるが予約しないと基本的に入れない。入場前にはサーモカメラで検温され、熱のある人は入れない二重チェックでした。コロナでなくても風邪で発熱している人は観覧できないのでこれもご注意を。
今回は、ちょっと前から文字通りうつうつとしている知り合いの骨董屋を誘って展覧会に行った。コロナ前からあまり出歩かなくなったので、僕の数少ないお遊びに付き合ってもらったのだった。前にも何度かいっしょに美術展に行ったことがあるが、骨董屋がいっしょだとなにかと便利である。展示物に関する具体的な解説が聞けるし、「これは末端価格でいくらかな」と尋ねると、「そうですねー、前に交換会で五千万で売れて一億で美術館に入ったから、最低七千万ですね」と答えてくれたりする。
当たり前だが美術品は美術館に入る前は市場にある。そして市場は新旧問わず贋作だらけだ。ある程度の値段がつく美術品には必ず贋作がある。そんな市場で真贋を見分け、身銭を切って物を買う骨董屋の目筋は真剣さが違う。ちょっとした言葉がとても勉強になったりするのである。
表着 白地小葵鳳凰模様二陪織物
一領 二陪織物(絹) 丈一七一・五×裄八三センチ 鎌倉時代 十三世紀 神奈川 鶴岡八幡宮蔵
今回の展覧会に出品された最も古い着物の一つが「表着 白地小葵鳳凰模様二陪織物」である。鎌倉時代初頭に後白河法皇が、鎌倉は鶴岡八幡宮の祭神の一人である神功皇后に奉納したという伝来がある。神様に奉納した宝物は「神宝=じんぽう・かんだから」と呼ぶが、神様にお使いいただくための奉納品なので当然未使用。神宝は時の最高権力者の寄進物だから当時の最高級品である。布地は傷みやすいので陶磁器に比べると残りにくい。奇跡的に土中から発見された出土品は別として、鎌倉以前の布織物は正倉院や由緒ある寺社に伝来した物以外は存在しないと言っていい。
古美術はだいたいそうだが「表着 白地小葵鳳凰模様二陪織物」といった厳めしい名前がつく。ただよく読めば物そのものの単純な説明である。経年変化しているが元は「白地」で「小葵鳳凰模様」が織られている。「二陪織物」は古い織物の名称で、室町時代以降に唐織として定着する織り方の原型である。「表着」はその名の通り一番上に着る着物のこと。
ヨーロッパの、特に若い女性は中世以降、正装の際にどんどん肌を露出するようになるが日本は逆で、晴れの場では着物を着込む。典型的なのは平安貴族の十二単(唐衣装)で下着の小袖の上に袿を着て、その上に表着の大袖を着る。それだけでなく上半身に唐衣をまとい、長袴を着用するのが十二単の基本形である。正装とはいえ相当に重く暑かっただろう。平安貴族の肖像は、今ならちょっとメタボといった体型が多い。太って恰幅が良いことが富と権力を表していたわけだ。着物もそうで、庶民は寒々しい格好をしていたわけだから、着込めば着込むほど富が強調されたのである。
なお今回の展覧会は『特別展 きもの』と題されているが、着物は単に「着る物」という意味で、洋服に対して日本古来の衣装が着物=和服と呼ばれるようになったのは明治維新以降のことである。残っている物は少ないが、肖像画などを見ると奈良時代くらいには着物の原型があったようだ。ただし学術的に言うと、今の着物の原型になったのは平安貴族が着た小袖である。表着の大袖の下に着る下着が小袖で、当然大袖よりも一回り小さく、袖口が小さく縫い締められてるから小袖と呼ぶ。この小袖からどんな風に現代まで着物が変化し受け継がれて来たのかをたどるのが、今回の展覧会のストーリーである。
小袖 白練緯地亀甲檜垣藤雪輪模様
一領 練緯(絹) 絞り・描絵 丈一二七×裄五八・五センチ 安土桃山時代 十六世紀 京都国立博物館蔵
慶長から元和にかけての桃山、江戸初期になると着物はグッと華やかになる。長い戦国時代が終わり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康によって強靱な武家中央集権国家が形成されようとする時代である。ポルトガル、オランダ、イギリスなどのヨーロッパ諸国との交易も盛んで、鉄砲だけでなく様々な外国製品が輸入されて、それまで日本になかった模様などが着物や焼物に取り入れられた。また諸大名がこぞって殖産興業を奨励した時代である。そういった開放的な明るい時代と産業の振興が着物にも色濃く表れている。
「小袖 白練緯地亀甲檜垣藤雪輪模様」は練緯と呼ばれる絹織物で、肩に亀甲文、胴から下は縫い締め絞りや鹿の子絞り、裾は檜垣模様で染められている。また墨で幾何学模様や藤の蔓などが描かれているのが見て取れる。パッと見て「ああ桃山だな」とわかる着物である。この色合いは桃山時代以外の着物では出ない。ただし最初からこんな色合いではない。
左 小袖裂 紅萌黄片身替練緯地洲浜取草花模様
一枚 練緯(絹) 絞り・描絵 幅三八・五×長一三二・五センチ 安土桃山時代 十六世紀 東京 丸紅株式会社蔵
右 小袖裂 紅萌黄片身替練緯地洲浜取草花模様(復元)
一領 練緯(絹) 絞り・描絵 丈一二六×裄五九センチ 平成十一年(一九九九年) 東京 丸紅株式会社蔵
左の「小袖裂 紅萌黄片身替練緯地洲浜取草花模様」は京都国立博物館蔵と同手の小袖の一部である。右はその所有者の丸紅株式会社が設立五十周年を記念して全体を復元したもの。作られた当初は鮮やかな赤色が目立つ小袖だったことがわかる。
わたしたちは古い時代には衣装の色も古寂びた色だったと考えがちだが、それは誤りである。桃山時代に限らず、古代から、特に高位高官の衣装はド派手だった。織りや染めの技術が限定されていた時代ほど鮮やかな色で権威を荘厳していたのだった。
図版掲載した二点はいずれもいわゆる「辻が花」と呼ばれる着物(織物)である。ただしこの名称は明治以降のもので、桃山時代の辻が花は麻布で着物の上に羽織る帷子(単衣)のことだった。辻が花と呼ばれる染め物は作られた当時は「くくし」や「つまみ」と呼ばれ、墨を使った描画は「引き絵」と呼ばれていた。
着物に限らず絵でも時代が経つにつれ色が退色してゆくが、慶長元和期の染め物は実に魅力的な古寂びた色合いに変化する。今でも作り方がわからず、残存数が少なく(約三百点しか残っていない)同じような退色の仕方なので、辻が花と呼ばれて珍重されるようになったのだった。
小袖 染分綸子地鶴松花鳥模様
一領 綸子(絹) 刺繍・絞り・摺箔 丈一四四×裄六一センチ 江戸時代 十七世紀 文化庁蔵
桃山だ江戸だと時代区分を重視するのはだいぶ後世になってからで、当時の人々が時代区分に敏感だったはずがない。ただ江戸時代に入ると着物の色がずっと鮮やかなまま残り始めるのは確かである。ちょっと不思議だがパッと見ただけで江戸か江戸以前かはだいたいわかる。また着物は素材(糸)、織り、染め、刺繍、墨の描画や金銀の摺箔、裁縫(裁断)の組み合わせである。これらは桃山時代にほぼ出そろっていたが、江戸に入るとその組み合わせが一気に大胆に、複雑になる。
「小袖 染分綸子地鶴松花鳥模様」は寛永時代末、徳川二代将軍・家光時代の作と推定される武家の女性の着物である。綸子は厚手で上質の絹織物だが、これは舶来物の中国産を染めている。ド派手なのはもちろん、非常に優れたデザインである。丸みを帯びた山が二つ重なり、その中に松の木や桜、藤の花が描かれている。その間を目出度い鶴が飛び交う。また桜は稜線に沿って枝を伸ばし花を咲かせるので視線が下に導かれる。腰下あたりに檜垣が描かれているので山から里へ下りてゆく意匠である。日本画の山水図に基づいているが、染めや刺繍といった着物独自の技法を使い、日本画を着物ならではの方法で高度に抽象化して表現している。
桃山時代の着物は様々な染めや刺繍を施し、左右で違う織物を合わせたり、四等分して変化を付けることが多かった。しかし「小袖 染分綸子地鶴松花鳥模様」のように雪崩れるような斜めの線が現れるのは江戸時代になってからである。いわば〝傾いた〟意匠である。歌舞伎が娯楽として定着するのはまだ先だが安定した太平の世が逆に、世の中を斜に眺める江戸っ子の粋を生んだようだ。江戸時代になるとそれまでの辛く苦しい「憂き世」が享楽的な「浮世」と表記されるようになるが、底に強い無常観を抱えているから楽しくふわふわとした浮世である。
小袖 白綾地秋草模様
尾形光琳直筆 一領 綾(絹)、描絵 丈一四七・二×裄六五・一センチ 江戸時代 十八世紀 東京国立博物館蔵
今回の出品物の目玉の一つ、尾形光琳直筆「小袖 白綾地秋草模様」である。江戸時代は現代のような東京一極集中型社会ではなく、商業は大坂、文化は京都中心でその影響を受けながら新たな大都市・江戸の文化が花開いていった。その端緒になったのが江戸最初の空前の好景気に沸く元禄時代で、新たな活躍の場を求めて西から文化人が江戸にやってきた。尾形光琳や松尾芭蕉が代表的である。
光琳は言うまでもなく本阿弥光悦、俵屋宗達を祖とする琳派の大成者。琳派は狩野派のような世襲ではなく、琳派を公言すれば誰でも琳派の画家なので、その流れは幕末の酒井抱一、鈴木其一まで続く。光琳の代に店を畳むことになるが実家は京都の大店呉服商雁金屋で、現在まで伝わる雁金屋注文帳は桃山から江戸初期の京都中心の貴人の好みを知るための貴重な資料になっている。
弟は野々村仁清と並ぶ京焼の始祖・尾形乾山。それまでの陶工の社会的地位は低く、焼物に作者銘を入れることはまずなかった。いわゆる作家物として焼き物に銘を入れるようになるのは仁清、乾山が最初である。光琳と乾山の合作も残っているが、光琳はほぼ百パーセント、自分の絵付けに「法橋光琳」と署名している。光琳の絵付けが人気だったからだろうが強い自我意識の持ち主でもあったろう。
「小袖 白綾地秋草模様」は宝永元年(一七〇九年)に光琳が初めて江戸に下向した際に、深川の材木問屋・冬木屋の依頼で作った物である。今も昔もいわゆる日本画家の技術は高いが、光琳は絵の具でも漆でも、素材が布や陶器でも易々と光琳らしい絵を描いてしまう。骨董屋に「いくらで買えるかな」と聞いたら「億に届くでしょうね、日本国内で」という返事だった。ただ作られた当時でも、ひっくり返るほど高い対価だったはずである。現代人でも高いお金を出して買った物は使い道がなくなってもなかなか捨てられない。古い時代も同じである。現代まで伝わっている古物は値段を言えば作られた当初からもの凄く高かった物が多い。カネの話は下世話のようだが、物が残るために値段は大事である。
ほとんど現物は残っていないが、実家が呉服商だったので光琳が絵を描いたりデザインした着物はたくさんあったようだ。光琳のデザインはその死後に「光琳模様」として大流行し「光林」というブランドになった。それを後押ししたのが「雛形=ひいながた、ひなかた」と呼ばれた板本である。
左 小袖 紅紗綾地雪芝垣梅模様
一領 紗綾(絹)、友禅染・摺匹田・刺繍・描絵 丈一三四・五×裄五一センチ 江戸時代 十七~十八世紀 愛知 松坂屋コレクション J・フロントリテイリング資料館蔵
右 当流七宝常磐ひいなかた
一冊(全四冊のうち) 板本 縦二六・三×横一九・二センチ 江戸時代 元禄十三年(一七〇〇年) 愛知 松坂屋コレクション J・フロントリテイリング資料館蔵
光琳模様のちょっと前に一世を風靡したのが京都の宮崎友禅が始めた友禅染である。宮崎友禅は元は扇絵師。「扇は俵屋」と言われた俵屋宗達と同じですな。幕末になるにつれ徐々に絵師(画家)の自我意識の主張も強くなってゆくが、江戸期を通じて絵師は画家で工芸作家でもあるのが普通だった。
友禅染が人気を呼んだのは、早くも天和三年(一六八三年)に発せられた幕府の奢侈禁止令の影響だと言われる。豊かになった江戸の町民は豪奢を競ったので、幕府は着物で惣鹿の子、縫箔、金紗(金糸)の使用を禁じたのだった。ただ江戸っ子はお上の言うことをへいへいと聞きながら、その後ろ頭をスリッパで叩くような抜け道を探すのが大好きである。鹿の子模様や金糸銀糸を使った見るからに豪華な着物ではなく、えらく手が込んでいるが染めだけの友禅を纏い始めた。
「小袖 紅紗綾地雪芝垣梅模様」は多色染めで実に豪華である。幕府の奢侈禁止令は幕末まで発せられ、取り締まりも厳しさを増していった。それに合わせて着物もおとなしくなってゆくわけだが江戸初期は禁止令にも関わらず十分に豪華である。
この「小袖 紅紗綾地雪芝垣梅模様」は元禄十三年(一七〇〇年)に刊行された「当流七宝常磐ひいなかた」の百三十番とほぼデザインが同じである。雛形本の最初は寛文六年(一六六六年)刊の浅井了意序文の「新撰御ひいなかた」だと言われる。着物のデザインブックといったところだが、いわばファッション誌として広く読まれた(眺められた)ようである。かなりの数の雛形本が刊行されたが江戸後期には下火になる。多色刷りで安価な錦絵(浮世絵)が普及したので、最新の流行は色つきの浮世絵から知ることができるようになったのだった。
浮世絵の三大柱は美人、役者、相撲である。現代ならグラビアアイドル、芸能人、スポーツ選手であり、いつの時代も庶民の好みは似たようなものだ。
小袖 紺紋縮緬地曳舟模様
一領 紋縮緬(絹)、白上がり・刺繍・描絵 丈一五一×裄六一センチ 江戸時代 十八世紀 東京 丸紅株式会社蔵
江戸後期になると着物はうんと地味になる。「四十八茶百鼠」と呼ばれた茶色と鼠色が増える。あまり現物は残っていないが浮世絵に描かれた町人の女性の着物を見れば一目瞭然だろう。明治維新まではまだ間があるが、幕藩体制の緩みと限界がじょじょに露わになるにつれ逆に社会全体の締め付けが厳しくなったのである。
「小袖 紺紋縮緬地曳舟模様」は典型的な江戸後期の着物である。江戸初・中期の豪華さには比べようもないが、庶民の女性が普段着にしていた茶鼠の着物とは一線を画する晴れ着である。普段着は残らず、後世まで伝えられるのは高価な晴れ着だけというのはいつの時代でも同じである。
パッと見それほど派手ではないが、地紋に胡蝶模様を織り出し下の褄模様に波と葦の間をゆく曳舟が白で染め抜かれている(白上がりという)。また小さな点のように千鳥が刺繍されている。すぐに視線が向かう上の方ではなく、裾の褄模様や裏地に凝るのが江戸後期の着物の特徴であり江戸っ子の粋だった。よく見ないと豪華さがわからないわけだ。この作品は浮世絵師の勝川春章の下絵だと伝えられる。確かボストン美術館に葛飾北斎筆の素晴らしい鍾馗様の幟旗が所蔵されているが、江戸後期には浮世絵師が絵師兼デザイナーとして各所で活躍するようになる。
左 太夫打掛 淡茶地鳳凰幔幕大太鼓模様唐織
一領 唐織(絹) 丈一六〇×裄六三・五センチ 明治~大正時代 十九~二〇世紀 京都 輪違屋蔵
右 遊女道中図
菊川英山筆 一幅 絹本着色 縦九六・六×横三三・三センチ 江戸時代 十九世紀 東京国立博物館蔵
庶民の着物は地味になったが、江戸後期にこれでもかというくらいド派手で豪華になったのが、幕府公認の遊里である江戸吉原や京都島原の花魁や太夫の着物だった。現物はほとんど残っていないが、「太夫打掛 淡茶地鳳凰幔幕大太鼓模様唐織」は京都島原の置屋・輪違屋に伝わった太夫の着物である。高価な唐織で、派手な鳳凰が全面に刺繍されている。オバマ大統領が正装した、ということはド派手なファッションのレディ・ガガにホワイトハウスで面会した後に「ちょっと怖かった」とコメントしたが、それに近いような威圧的な衣装である。
吉原と島原ではお遊びの仕方が少し違うが、客が馴染みの芸妓を寄越してくれるよう置屋に依頼して茶屋や揚屋で遊ぶのが基本である。花魁や太夫は芸妓のトップだが、彼女らを指名すると置屋から茶屋・揚屋に向かう際に花魁道中(太夫道中)が行われる。花魁や太夫を呼べるのはお大尽だけだから、普通の遊び人たちは「ほー」と口を開けて豪奢を見せつけるような花魁や太夫を眺めたのである。
菊川英山筆の「遊女道中図」は吉原の花魁道中を描いた一点物の軸である。絵を見ればわかるが花魁は帯を前で結ぶ。庶民の女性はやらないというか、やってはいけない結び方である。昨今ではコスプレが盛んで着物をレンタルして写真を撮ってくれるコスプレ館もあるが、若い女の子たちはたいてい帯が前結びの花魁や太夫の格好をしている。普通に着物を着れば帯は背中側でその柄などが見えないわけだから、花魁や太夫の着方は現代的なファッション感覚を先取りしていたと言えるかもしれない。
なお桃山から江戸期にかけて、特に女性の帯はどんどん太くなる。最初は十センチから十五センチほどだったのが、江戸後期になると三十センチくらいにまで太くなる。今回の展覧会では着物と帯の組み合わせには焦点が当てられていなかったが、帯が太くなるにつれ、着物にどんな帯を合わせるのかも女性たちの楽しみになっていった。
髪飾具
島原松扇太夫所用 一式 鼈甲・珊瑚・銀など 笄 長三〇・七センチ 江戸時代 十九世紀 京都国立博物館蔵
島原の松扇太夫が使用していたと言われる髪飾具一式である。豪奢にするには着物を着込むのと同様に、髪飾りもこれでもかというくらい頭に挿した。かなり重かったはずである。こういった髪飾りは明治大正まで作られていて遺品がたくさんある。骨董屋に「江戸と明治大正の櫛や笄を見分けるコツはある?」と聞いたら、「簡単です。江戸のは大きい。女性の髪が多かったから」と即答してくれた。うーん便利だ。
振袖 紅紋縮緬地束熨斗模様
一領 紋縮緬(絹)、友禅染・絞り・刺繍・摺箔 丈一五六・八×裄五八・五センチ 江戸時代 十八世紀 京都 友禅史会蔵
今回の展覧会は気楽に見ることができた。細かいことを言えばきりがないが、シックで古寂びた桃山時代の着物が江戸初期には驚くほど華やかになり、江戸後期になるにつれ、あからさまな豪奢は影を潜め手の込んだ地味派手とでも言うべき粋な着物に変わってゆく。ただ展覧会は五部構成で、後半の「男の美学」「モダニズムきもの(明治・大正・昭和初期)」「KIMONOの現在」はちょっと欲張りすぎかな。
「男の美学」のコーナーでは桃山から江戸の男の着物が展示され、信長・秀吉・家康所用の陣羽織などが展示されていて目に新鮮だった。ただ男の着物と女の着物は明らかにその筋というか、思想が違う。男の着物に流れているのは封建社会の抑圧とそれをはみ出すような力である。勧進帳の弁慶がどうにもならない社会制度に抑圧され、敗れ去るとわかっていながら強烈な荒ぶる力を秘めていたのと同じである。
そういった男の思想はもちろん女の着物にも表れている。「振袖 紅紋縮緬地束熨斗模様」が典型的でこれは婚礼衣装である。日本の社会は戦前まで長男を中心とする家長制で、女が他家に嫁に行くともはやその家の人という了解があった。
この花嫁衣装は豪商の父親が娘の花嫁衣装として作ったものだろうが、熨斗模様は熨斗をつけて娘を差し上げます、あるいは若い嫁は最高の贈り物ですといった意味としか解釈できず、現代のフェミニズムの文脈ではどう転んでも批判は免れそうにない。ただ男の文脈の女の着物は例外的で、女たちが好んだ着物は別の思想に属していた。
将軍・大名家の姫君の嫁入り道具はもちろん、裕福な商人の女の着物に多いのは『伊勢物語』や『源氏物語』から採った文様である。平安王朝文学の粋だが、封建社会制度から言えばいずれも不義密通の大罪を含む。しかし江戸の女性たちは『伊勢』や『源氏』を好んで読み、浄瑠璃や歌舞伎の心中モノに熱狂した。社会の表側のルールは封建身分制度だが、それをなし崩しにするような愛の世界を女性たちは好んだのである。またそれは男社会にも強い影響を与えている。ただ男の着物と女の着物に流れる思想は基本的に対立しており、両者を追うと焦点がぼやける。
「モダニズムきもの(明治・大正・昭和初期)」と「KIMONOの現在」が、現代にまで続く着物の流れを捉えようとした展示だということはわかる。しかし明治以降のメーカー物、作家物の着物は江戸までの着物とは質が違う。江戸以前の着物は残存数が少ない。砂浜が波で洗われ、キレイな石だけが残ったような感じである。まだそれほど時間が経っていない明治以降のメーカー物の着物を筋道立って展示するのは難しい。どうしても恣意的展示になってしまう。
またいわゆる古美術として時代の無意識が意識化されて残った江戸までの着物と、作家の自我意識の発露である作家物の着物の質が違うのは言うまでもない。「KIMONOの現在」の最後はX JAPANのYOSIKIさんプロデュースの着物の展示だったが、Xのファンが見に来るんでしょうかね。見にくるんだろうなぁ。
下着 白木綿地立木模様更紗
一領 木綿、手描更紗 丈一三七×裄六五・五センチ 江戸時代 十九世紀 愛知 松坂屋コレクション J・フロントリテイリング資料館蔵
最後に「男の美学」の展示物からとても面白かった着物を紹介しておきます。「下着 白木綿地立木模様更紗」はその名の通り下着なのだが、おしゃれな遊び人の男性が着用していた物。インドから輸入された更紗で作られている。すごく高価な生地だったはずだ。
たまたま男性用の着物になっているが、太古の昔から日本人は舶来物に弱い。それまでにない珍しい舶来品が届くと、手に取れる物であれ思想であれ後先考えずに飛びつく。しばらくはそれに夢中になるが、十年も経つと何事もなかったかのように昔ながらの文化に新渡来の舶来物や思想を折衷させてしまう。江戸時代では金唐革や更紗模様がその代表格である。
さて、美術館を出たのは夕方で、骨董屋と早めの夕食を食べようと精養軒に行ったがコロナの影響で三時でレストランを閉めていた。うーん困ったと不忍通りまで歩き、亀屋か伊豆栄に入ろうとしたがいずれも五時からの開店。しかたがないので目に入った韓国料理屋でビビンバとチジミを食べた。これがうまかった。久しぶりに骨董屋と出かけたのでちょっとご馳走しようかと思っていたが、定食に近い夕飯になり、しかも僕も骨董屋も大満足だった。ま、客と商人とはいえ、時にはゴミみたいな古物に目を輝かせる遊び友達だから当然か。われらいつまでもお子ちゃまだな、グルメじゃないなーと思ったのでした。
鶴山裕司
(2020 / 07 / 21 26枚)
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