三田文學は慶應大学直属の慶應大学出版会から刊行されている大学雑誌なので、純文学系文芸誌とはいえ編集長や編集委員(だっけな)が変わると、かなり誌面が様変わりする。ここ数年三田文學は評論に力を入れている。評論重視自体はけっこうなことである。純文学系文芸誌はどこも評論の掲載に積極的ではない。もうだいぶ前に新潮が評論の新人賞を設置していたが、それもなくなってしまった。文芸批評家たちは書く場所がないわけで、三田文學が文芸評論のセンターになろうとする姿勢を見せていることには多くの人が「いいね!」と賛同してくれるだろう。問題はその質である。三田文學編集部に柄谷行人シンパがいることが手に取るようにわかってしまう。
『Dの研究』(二〇一五年・柄谷行人著)は、一見したところ、明快な論述であるという印象を与える。だが、実際には、著者の狙いを正確にとらえるのは容易ではない。読み手が言説の襞を、かなりの頻度で、伸ばしながら読む努力を強いられるからだ。また、〝柄谷式に飛んでいる箇所〟を埋めながら読むという頭の体操を強いられるからだ。私が、これまで、かなりの頻度で柄谷の「インタヴュー」での発言を引用してきたのも、実は、そのことと関係がある。このテクストに比べて、インタヴューにおける柄谷の発言は、はるかに理解が楽なのだ。『Dの研究』の連載に対する読者の反響が期待外れのものだったのも(中略)、過激に圧縮された文体につき合わされる読者の困惑が大きな理由の一つとしてあったに違いないというのが、難渋しつつ『Dの研究』を読み続けているわたしの見立てである。
(浅利誠「『Dの研究』を中心にした柄谷行人論(五)-後期フロイト認識の占める位置」)
浅利さんの評論に限らず、僕たちは何度このような内容の柄谷行人論を目にしてきたことだろう。浅利さんは柄谷さんの評論が抱えている問題というか欠陥を、ハッキリ正確に認識しながらそれでも柄谷評論に根気よく付き合っている。浅利さんはきっといい人なんだろうなと思う。
浅利さんが書いておられるように、柄谷評論が「明快な論述」という印象を与えながら、「著者の狙いを正確にとらえるのは容易ではない」のは今に始まったことではない。初期からずっとそうだ。なぜか。これも浅利さんが書いておられるが、「読み手が言説の襞を、かなりの頻度で、伸ばしながら読む努力を強いられ」「〝柄谷式に飛んでいる箇所〟を埋めながら読むという頭の体操を強いられる」からである。
30枚くらいの短い柄谷さんの評論を徹底的に分析してみれば、柄谷マジックというか、その衒学的な手法は誰にでもすぐわかる。柄谷さんの評論は哲学・心理学・社会学・遺伝子工学・文学などを自在に引用して書かれているが、引用箇所を取り除いてみると論理が一貫していない。引用を挟むたびに論理や論旨が変わり、あらぬ方向に連れて行かれてしまう。読者は「あれ?」とは感じる。空白や飛躍に気づくのだ。だから「言説の襞を伸ばしながら読む努力」や「飛んでいる箇所を埋めながら読む頭の体操を強いられる」。しかしそんな評論、真面目に読む必要があるのだろうか。
もちろん柄谷さんの評論が思想と呼べる力強い結論に達しているのならなんの問題もない。しかしこれも浅利さんが書いておられるように、柄谷評論の世界にどっぷりと漬かり、一所懸命にそれを読む人たちは、「難渋しつつ読み続ける」だけで終わる。結局「著者の狙いを正確にとらえるのは容易ではない」と嘆くことになる。理由は簡単で、柄谷評論には思想的結論がないのである。
結論がないのは考えてみれば当たり前だろう。柄谷さんは古今東西過去現在の優れた文学者や思想家たちの言葉を並べ引用する。一つだけ取り上げても本格的評論が書ける思想を次々に引用すれば、当然それらは相殺される。その相殺の力のうちに、幻のように浮かび上がるのが柄谷行人という批評家の特権的立場だ。
夏目漱石論でもなんでもいいのだが、柄谷さんの評論を読んで、評論で取り上げた対象の本質が掴めたという人がいたらお目にかかりたい。ちょっとした気の利いた箴言は書かれているが、どの評論も読み終えた後に印象に残るのは〝柄谷行人という特権的な批評家の幻〟だけである。柄谷論が〝柄谷は〟で終始するのがそれを証明している。フロイト論なら多かれ少なかれ、柄谷が論じた心理学思想そのものを検討することになるはずだが、なぜ判で捺したように「柄谷、柄谷」になるのか。そろそろ夢から覚めた方がいい。
柄谷さんの評論は、気楽な「頭の体操」として読むなら楽しい。しかし柄谷評論の迷路に入り込むと自家中毒を起こす。普通に考えれば柄谷の思想を誰にでもわかりやすく明らかにするのが柄谷論の目的だが、「やっぱり柄谷は難しいや」で終わるのがお決まりになっている。むしろ柄谷評論を書く人たちは、マイスター柄谷に忠実に、評論では結論を書いてはいけないと考えているのかもしれない。そうだとすると、病は深い。
どんな場合でも、批評家は対象を相対化しなければ優れた批評を書けない。柄谷行人という批評家の創作コンプレックスを指摘する批評家が現れないのは不思議なことだ。中上健次と親交のあった柄谷の創作コンプレックスは根深い。柄谷批評はポスト・モダン批評の先駆けと言われるが、文学史的に見れば作家の実人生に即した文芸評論に対するアンチテーゼとして日本のポスト・モダン批評は始まった。一九八〇年代に僕らが柄谷さんや蓮實重彦さんの評論をよく読み、彼らの批評が一世を風靡したのはそれが〝状況的〟なものだったからである。
蓮實さんの文芸批評はモロに冗談といった軽さがあったが、柄谷さんの批評は深刻な顔つきをしていた。どんなに読んでも柄谷さんが何を言おうとしているのか、読者には絶対にわからないように書かれている。それは一種の〝創作〟である。
柄谷さん自身はそのような手法で書いた評論によって、特権的批評家という立場を不動のものにした。それに続く批評家たちは、柄谷さんに倣って〝創作批評〟を書こうと悪銭苦闘している。小説や詩に従属し、創作よりも下位の文学と捉えられがちだった批評を、決して結論がなく読み解けない創作のような表現にして自己満足を得ようとしている。しかしこの手法、もう限界が来ている。
今号では「特集 江藤淳・加藤典洋」という、なんだかよくわからない特集も組まれている。先頃亡くなった批評家加藤典洋さんの追悼に、三田が誇る小説家で批評家だった江藤淳さんをドッキングさせたのだろう。
江藤さんはある新人作家に対する批評で、「雨が降っているなら雨が降っていると書け」と言った。江藤さんの文芸評論は確実な資料に基づいてはいるが、ときおり彼の妄想というか大胆過ぎる推論が入り交じる奇妙なものではあった。しかし結論には達していた。
「柄谷批評は難しい」で始まって「やっぱり難しい」で終わる柄谷論は書くだけムダだ。江藤さんのような評論の方が長い目で見れば優れている。結論があるのだから、読者が間違っていると結論づければ思考は別の方向に進む。迷路に閉じ込められることはない。
三田文學が文芸評論のセンターを指向するのはけっこうだが、それならまず批評家たちが知恵を出し合って、屈辱的な柄谷エピゴーネンのポジションを捨てることをお勧めする。でなければ柄谷さんの評論を連載して、柄谷さんへのインタビューを定期的に行った方が話は早い。どうせわからないのなら、本家の方が迫力がある。
今の時代、「わからん」評論を長々と論じて「わからん」で結論づける評論は読まれない。読まれるわけがない。社会は大きく変動しつつあり、誰もが一定の結論を求めている。批評家として勇気があるのなら、「わからん」ではなく、「である」の肯定的思想を明確にしなければ、いくら文芸評論をフィーチャーしても読者が戻ってくることはない。
「あの戸袋のシミが、女のあそこに見えるって言うんだ」
由加子は戸袋ではなく夫の顔をまず見てしまった。さっきの息子のときと同様にショックを受けていたが、今は口調というより言葉そのものだった。「女のあそこ」などという単語を夫が口にしたことはこれまでなかったが、彼はそのことに気づく余裕もないというように妻の顔を見返そうとはしなかった。
戸袋というのは雨戸のそれだ。茶色の鉄製で、たしかに真ん中辺りに何の作用なのかわからないが塗料が剥げたようなシミができている。今までは日よけがあったせいで気がつかなかった。だが気づいたところで、ただの経年劣化としか思わなかっただろう。
(井上荒野「あたらしい日よけ」)
井上荒野さんの「あたらしい日よけ」は、東京郊外で夫といっしょに小さな定食屋を営んでいる由加子が主人公である。去年の台風19号を題材にした短編で、由加子の家でも二階ベランダの日よけが吹き飛んでしまうという小さな被害が出た。ただ問題はあらぬ方向から起こった。
向かいのマンションに住む男女の住人が、窓から由加子の家の戸袋が見える、そこについたシミが「女のあそこ」に見えてしまい不愉快でしょうがない、子供たちにも悪い影響を与えるのでなんとかしてもらいたいと苦情を言いに来たのだ。
由加子たちは驚くが、見なければいいでしょう、気の持ちようでしょうとなだめても、男女はなんとかしてくれと言って聞かない。夫は新しい日よけを注文するが、配送が遅れてなかなか届かない。由加子は夫に黙ってホームセンターに行き、ペンキを買ってシミの上から塗ったというのが「あたらしい日よけ」のおおまかなストーリーである。
「あたらしい日よけ」は30枚ほどの短編なのであっさりしているが、この作品で書かれているのは〝不安〟である。そして「女のあそこ」のようなシミを塗りつぶすことは、女の中に包まれるように家が閉じることと示唆している。
由加子の定食屋は一軒屋だが、夫といっしょに働いているので気詰まりなことも多い。なにより思春期に差しかかろうとしている息子がいる。夫と息子という男たちを家に塗り込めることで何が起こるのか。その不安感だけが表現されている作品だ。淡々としているが井上さんの小説の完成度は高い。
ちょっと気になったことを書くと、上品な三田文學らしく、成蹊大学卒でお客様の井上さんの小説は巻頭近くに掲載されている。しかし目次では評論系の作品が並んだ後に小説がある。
三田文學は基本、小説文芸誌の位置付けだが、編集部に集団体制の雰囲気があるようで、思い切ったことはしにくいようだ。しかし大学文芸誌は制約もあるが、ほかの文芸誌にはない自由も持っているはずである。評論を重視するならするで、目次からページ割までもっとはっきりさせた方がいいだろう。思い切ったことをしなければ、独自性は露わにならない。
池田浩
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