久しぶりにこの作家は善人だなと思う作品を読んだ。第二十九回三田文學新人賞受賞作、鳥山まことさんの「あるもの」である。巻末の略歴では一九九二年生まれだからまだ三十一歳の若い作家さんだ。しかし読後感では六十代くらいに思えた。ずいぶん落ち着いているというか老成した作品になっている。それが意図的なものなのか作家本来の持ち味なのかは一作読んだだけではわからない。ただ作家が善人であるのは確かだろう。
そこには無い観葉植物に水をやる。宙に浮いたジョウロの先から出る細い水の線が植物の葉を透過し、その鉢へと吸い込まれてゆく。音もある。少し嘘くさい流水音。数秒経つと自動的に水は止まる。ジョウロも消えて無くなる。植物は以前よりも少しだけ背が高くなり葉の量も増えたように思える。色の変化まではわからない。(中略)
桑原さんがやっているのは「プランター」というアプリだった。このアプリはARを使って、あらゆる空間、例えばリビングやキッチンなんかに鉢に入った観葉植物を置くことができる。スマホの画面を通して見ればそこにあたかも観葉植物があるかのように見える。
鳥山まこと「あるもの」
主人公は私で田舎町の町民支援センターに勤めている。「町の何でも相談室」ともある。桑原さんは同僚だがわたしよりずっと若い。私は介護の仕事からデスクワーク中心の町民支援センターに転職したのだがデスクワークが得意だというわけではない。エクセルすら扱いが危うく桑原さんに教えてもらっている。桑原さんは無口な女性だが「私は無愛想な桑原さんのことが好きだった」とある。
桑原さんは昼休みにゲームに熱中している。実在の空間を写真で取り込んでそこで観葉植物を育てるゲームである。つまりタイトルは「あるもの」だが小説は〝そこには無い〟ものの記述から始まる。
短編小説の場合、あまり無駄な記述は許されない。小説冒頭がアプリの観葉植物栽培で始まっているので物語は「繁殖」、「あるけど無いもの」、あるいはアプリそのものに進む選択肢があることになる。もちろん最も文学的な主題である「そこには無いけどあるもの」に進む。
携帯で有村さんに電話を掛けると、すぐに出た。空き地も土俵も見つからないことを伝えると、おかしいなーと返ってきた。
「確か神社の裏に空き地があって、そこに土俵があったはずだったんだけど・・・・・・」
有村さんは暫く電話越しに土俵のある空き地はどこだったかと悩んでいたが、どうにも思い出すことができないようで、うーんと唸ってばかりいた。
結局、いくつか思い当たる箇所を巡ってみたのだが、どこにも土俵は見当たらなかった。有村さんの声は次第に自信を失っていった。物忘れが酷くてねえ、と有村さんが以前深刻そうに呟いていたのを思い出した。
「ごめんなさいねえ」
有村さんはその言葉を最後に土俵の話もカツジ君の話も一切しなくなった。
同
私が住んでいるのは山間の過疎の町で高齢者が多い。主に高齢者からの修理や害虫駆除の仲介をするのが仕事だが、一人暮らしの高齢者の健康状態を気遣いチェックするのも仕事の内だ。
ある日有村さんという高齢女性から電話がかかってくる。町の地主の一人で長い間訪ねていない自分の土地を見に行って欲しいという。それはまあ口実で、有村さんは少女時代の思い出話を始める。その土地には土俵があって、自分に好意を寄せていたカツジ君という痩せた少年が、負けても負けても強い相手に相撲を挑んでいったのだという。今もまだ土俵が残っているのか確かめて欲しいという依頼だった。
私は確かめに行くのだが有村さんの言った場所に土俵がない。別に私のせいではないのだが私は申しわけない気持ちになる。「今日の一件が単なる物忘れということでは収まっていないような、そんな気がした。私自身が有村さんの記憶の一塊をすっぽり抜き取ってしまったかのようで、それが申しわけなく思えてしまうのだった」とある。場所を見つけられなかったことで彼女の思い出を壊してしまったように感じたのである。
その後も有村さんから電話がかかってきて、思い出の詰まった場所を訪ねて昔のままなのか確認してほしいと言う。確認しに行っても有村さんの記憶にある場所は見当たらない。何度かそんなことが重なるうちに有村さんは思い出の場所探しを依頼することがなくなってしまった。元気もなくなる。有村さんは私に「最近ね、なんだかぷすぷすと体に穴が空いていくみたいで怖いのよ。忘れてゆくことが多すぎて、思い違いもたくさんあって、私がこれまで経験してきたことって何だったのかしらって、呆気なくなって、虚しくなることがあるのよ」と洩らした。ではこの小説は老人の痴呆と孤独を描いているのか。
車を走らせていた。ナビには入れられない場所に向かって感覚で道を選び、いつもより早いスピードで車を走らせていた。辛うじて見えるその像を目印に、塔に向かって着実に進んでいた。
塔は確かに大きくなっていった。確かに近づいているということが実感できた。
ある距離を過ぎると塔は倍々にどんどんと大きくなった。それは想像していたよりも遙かに背の高い、太い、塔だった。首を折って見上げる高さだった。近づくにつれて何かに呑まれていくようだった。周囲には建物も人も何一つ見当たらない。田畑も無く、低木の疎らに生える平原が広がっている。その中に巨大な塔が天を刺している。まるで異世界に来てしまったかのようだった。
同
私の町には塔がある。しかし同僚の桑原さんに聞いてもそんな塔は見たことがないと言う。それは私の心の中にしか存在しない塔なのだ。見える人にしか見えない塔だとも言える。
私は有村さんに依頼された場所を探し当てられなかった時、「視界に映るものの方が嘘で、脳内に映る有村さんの記憶の方が本当のことのようにも思えてきて、不思議だった」と思う。有村さんは町には塔があると言った。私と有村さんは現実よりも大切な何かを見ることができる、あるいはそれを見ることの方が正しいと直観している二人なのである。
「あるもの」は一種の幻想小説だとも言えるし、記述自体はリアルなので小説でしか表現できないある理想を描いた小説だとも言える。コンパクトにまとまっていて破綻もない優れた小説である。
難点を言えば読者を惹きつけるような艶やかさが足りない。もっと俗な言い方をすれば純文学なのか大衆小説なのか判然としない。そんな区分は無意味だと思われる方もいるだろうが現実に即せばそうとも言い切れない。
三田文學新人賞は文學界掲載の純文学を薄めたような小説を好む傾向がある。それが三田文學小説新人賞の一つの特徴でもある。ただ今の文学業界は厳しい。どのメディアも余裕がなく自社で頭角を現した作家をメンテするので手一杯だ。実際問題、三田文學新人賞を受賞しても他誌から頻繁に声がかかることは少ない。慶應大学出版会から新人作家の小説本が刊行されることもない。まあはっきり言えば、僕のように三田出身者が新人賞に注目しているくらいかもしれない。
「あるもの」のテーマは一貫しているが、読者に苦痛を強いるような文學界的難解心理描写私小説にはなっていない。そうあるべきかどうかは別として、純文学が文學界の独占市場である以上、純文学を書くならそれなりの覚悟が必要である。また大衆文学を志すなら小説の艶やかさを含めた面白さの魅力をもっと増やす必要がある。
もちろんこれらは現実制度の問題で文学そのものの問題ではない。ただ三田文學新人賞はスタートラインのほんの一つであり作家になんの保障ももたらしてくれない。嬉しい新人賞受賞に水を差すようだが純文学でも大衆文学でもいいがもっと〝ツカミ〟の強烈な作品を書いていただきたい。またちょっと工夫すればすぐにそうできる力のある作家さんだと思う。
池田浩
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