いつの時代でも人間世界の精神は重層化している。前時代からの精神が底の方にあり新たな時代精神がそれを相対化して更新してゆく。どちらも人間世界には必要だ。ただ時代が大きく変わろうとしている時期には両者の乖離が激しくなる。基層であり古いと言える精神をどう論じ現代に取り入れるのか。その手つきで現代作家の立ち位置がわかることもある。作品の書き方でそれがわかってしまうこともある。
前方も霞む激しい夕立が上がった。日照りつづきの乾ききった大地はたっぷりと潤い、濡れそぼっていぶし銀の色の屋根瓦で、太陽の光が踊っている。畑の柿木からのセミの一鳴きを皮切りに、木という木に散らばったおびただしい数のセミが一斉に鳴きだした。納屋脇に雑草として伸びたアサガオは、巻きのぼる手もなく痩せた蔓を地面に這わせて葉をくったりと垂らしていたが、天に向かってしゃんと迫り上げている。靴跡をとどめている泥濘に、蝶々が降り立って大振りの黒い翅を揺らしている。陽光が草葉の滴を舐めるように消し去っていく。
田村初美「カネタタキ」
田村初美さんは「とぼくれホタル」で第二十六回三田文學新人賞を受賞なさった作家である。「カネタタキ」は受賞第一作。引用は小説冒頭だが自然描写から始まる。夕立が上がるのと同時に小説世界が幕を上げる。一匹のセミが鳴き出すと「おびただしい数のセミが一斉に鳴きだ」す。つまり人間世界に言葉が溢れ出す。あるいは心象世界が始まる。それは「靴跡をとどめている泥濘」のようであり、すぐに「消し去」られてゆく淡い痕跡でもある。
細部まで神経が行き届いた見事な文章である。「カネタタキ」という作品に小説技術的な問題はほとんどない。完成されていると言っていいだろう。小説の完成度を評価基準とすれば高く評価されていい小説である。
小学生になっても、皆の厚子への奇妙な言動はつづいた。クラスの席決めで厚子の隣の席になってしまうと皆、トランプのババ抜きゲームでババを引いてしまったかのごとく落胆し、二人机の中央に指で境界線を引いた。隣の席の子はもちろん、前の席の子たちも振り向いて、厚子に悪口雑言を吐いた。次の授業を控えて机の上に準備した厚子のノートや筆箱を取り上げ、教員が教室に現れて慌てて返す、という行為も繰り返した。厚子は黙って耐えた。
同
小説の主人公は中学三年生の厚子である。厚子は幼稚園に入学した時からイジメを受けていた。それは小学校、中学校でも続き今では無気力状態になっている。ノートや靴を捨てられるといったあからさまなイジメはなくなったが緩慢な無視が続いている。高校受験も近づいていて内心では焦っているが自分から壁を破ろうという気力は湧かず、存在しないようにひっそりと生きる方が楽だという方に傾いているのだった。
厚子のイジメの原因は小説内で明らかにされている。「厚子はその夜(父親の)信也に確かめて、橋中村が被差別部落であることを知ったのだった」。ただイジメは小説主題ではない。厚子は自分が被差別部落の出身だと知って「安堵した」。「被差別部落であることが原因でよかった。そんなアホなことが原因で本当によかった」と思い、厚子をイジメる同級生たちを「皆、可愛らしいがゆえに可哀そうだと思った。厚子は同級生たちを決して好いてはいないけれど、誰も恨んでいない自分に、このとき気づいた」とある。
部落差別は厳しい現実である。しかし厚子はそれを相対化できる感性を持っている。ただしそれは優しさとも諦めともつかない感覚に過ぎない。また主人公がひっそりと生きることを選んだ中三の厚子である以上、社会的主題が紛れ込む余地はない。厚子は影の主人公だ。観察者であり報告者であり大人たちをじっと見つめている。
「くださいって、私は男の品物か。これやで頭の古い人間は」
初子はぶつぶつと独り言のようにつぶやき、一呼吸置いて
「仁が来いへんのとちごて、私がこの家に来させやんだん。仁はな、今、なっとか母親を説得しようと必死になっとるもんで、もうちょっと仁の気持ちが落ち着いてからでないと、今の状態でこの家に来たら、余計にしっちゃかめっちゃかになるわ。まあ、どんだけ説得しても無駄やろうけど、母親の実家は新潟県の豪農でな、同級生に仲谷村ってとこから来とる子ぉがおって、その仲谷村と同じなんやて。せやでその辺のことをよう知っとんのさ」
*
「ユキノ祖母ちゃんはこんなことも言っとった。留吉は子どものころ勉強が好きで好きで、勉強して偉い人になるんやて目ぇを輝かして言ってたって。また『こんなとこに生まれたら、なまじ賢ないほうが幸せや』ともな」
と続けた。
留吉がトイレから戻ってきたのを見て、文江は人差し指を立てて口に当て、鈴代と和江に目配せした。三人は頭を突き合わせ
「もう二世代後に生まれとったら、留吉こそ日本で五本の指に入る有名大学に行けたなあ」
和江が小声で言ったことに、二人は上下に首を振ってうなずいた。文江はパーンと手を叩くと
「なんかこの村は、天才とアホと、気ぃおかしい人が、えらい多いなあ」
声を張り上げて言い、笑った。
同
初子は厚子より八歳年上の姉で一族の中で初めて大学に進学して東京で就職した。小説は祖母のユキノの初盆の夜が舞台で、就職してからめったに帰省しなくなった初子も帰って来た。初子は母親の文江に仁という青年と結婚し妊娠していると告げる。自発的に言ったわけではない。仁の両親が初子との結婚に猛反対で、初子が実家に戻った頃合いを見て電話をかけてきたのだった。仁の実家はそれなりに裕福だがコレクトコールだった。敵意剥き出しの電話である。ただ初子はそんな圧力には屈しない。「大丈夫や。お母ちゃんの時代とは、違うよ。私らに、お母ちゃんの時代の考えは通用せん。もちろん仁さんにもな」と文江に告げた。
一方で祖母ユキノの弟の留吉が厚子の村の今を、変わることのない日常を表象している。妻と息子を自殺ではないかと疑われるような事故で亡くした留吉は一族の変わり者で鼻つまみ者でもある。若い頃は気性が荒かったが年老いた今は大人しくなっている。留吉も初盆の宴会に顔を出す。皆驚くがのけ者にすることはない。それが血縁であり村社会の掟でもある。和江は「もう二世代後に生まれとったら、留吉こそ日本で五本の指に入る有名大学に行けたなあ」と軽口を叩いた。
村を出て行き被差別と闘う者がいる。村に留まり現実世界の不条理をすっぽり抱え込んで淡々と生きてゆく者がいる。どちらかにウエイトが置かれているわけではない。小説はそんな村の現実を描き出し続ける。
厚子は縁側に立ったまま、闇にぼんやりと視線を投げていた。やがて文江、和江、初子も台所に引き上げた。漆黒と静寂が厚子の周囲に広がっている。厚子は、自分はこのままこの村で生きていくだろうと思った。この村で生きていきたい。この村の人たちが好きだ。初子のように華やかな生き方なんてできっこない。でも、花火なら打ち上げられる。留吉に負けないくらい華やかに。
と、チンチンチンチン。小さな音が暗闇から聞こえてくる。
「カネタタキや。昆虫のカネタタキが鳴いとる」
初鳴きか、初々しい生命力を感じた。厚子は可愛い音色のする暗闇を見つめて、恥ずかしそうに微笑んだ。
同
祖母の死を最も悼んでいたのは弟の留吉だったのかもしれない。留吉は姪っ子の美香に財布ごと渡しありったけの花火を買ってこいと命じた。その花火を初盆の宴会の最中に打ち上げた。厚子は「初子のように華やかな生き方なんてできっこない。でも、花火なら打ち上げられる。留吉に負けないくらい華やかに」と思う。また「自分はこのままこの村で生きていくだろうと思った」。
その心理の機微は小説では描かれていない。ただ小説の最後で厚子はカネタタキの鳴き声を聞く。セミの鳴き声で始まりカネタタキの鳴き声で終わる小説である。この起・結は純文学小説では馴染み深いものである。確実な落とし所だと言ってもいい。乱暴な言い方をすればすべては自然の流れに包み込まれる。
小説の中で時代は一九八二年と記述されている。四十年前は遠い過去なのか。それとも現代に続いているのか。技術的にも小説展開的にも完成された小説だが〝現代〟に接続するためのあと一つのピースが希薄なように感じる。
池田浩
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