合議制がいいのか悪いのかは昔から議論の的になることが多い。日本はまあ合議制の国だ。その方が安定をもたらすことをよく知っている。歴史的に見ても日本社会には絶対専制君主が少なく、君主を中心に合議制政治が行われたことの方が多い。合議制が採られた時代は日本社会が安定していた時代だとも言える。後鳥羽天皇(後鳥羽院)、後醍醐天皇、信長秀吉家康、明治天皇昭和天皇と一人の為政者に権力が集中した時代は日本にとって危機の時代だ。それに対して権力者集団が合議で政治を行った時代は安定している。院政、鎌倉評定衆、幕府老中、そして今の政府も権力者集団の合議制政体だ。
高度経済成長期の時代劇をDVDなどで見ていると、将軍は「よきにはからえ将軍」であることが多い。要するにお飾りで「皆の者、よきにはからえ」と言って泰然としている。これができるのは決定的判断を下さなければならない事案が少なく、社会が安定しているからである。将軍が庶民になりすまして事件を解決するドラマも多かったが、社会問題が小さなトラブルの集積だったからそんなストーリーに説得力があった。
しかしそうも言ってられない時代になりつつある。石原慎太郎さんが東京都知事になったのは一九九九年だった。自民党に代わって民主党政権が誕生したのは二〇〇九年。石原さんは強権的リーダーの幻想を振りまいていた。ぐんぐん政治を引っ張って社会を変えてくれるリーダーのイメージである。民主党政権誕生の時も同じで、多くの有権者がこれで何かが決定的に代わるだろうと期待した。しかしそううまくはいかなかった。世の中、簡単には変わらない、変えられない。
ただ二〇〇〇年紀くらいから、合議制ではどーにもならんといった閉塞感が燻っているのも確かである。SNSには社会批判、政治批判、○○批判が満ちあふれているが、どの領域でも現実を変えるのはおっそろしく難しい。「てめーでやってみろ、ぜってぇーうまくいかないから」といった政治家や担当者の声が聞こえてきそうだ。批判がムダだと言っているわけではない。ただスーパーマン、スーパーウーマンのようなリーダーシップも幻想に過ぎないのだから、強固な現実を換骨奪胎して変えてゆくようなさらに高い知性とそれに基づく方法が求められているだろう。批判するだけでは何も変わらない。
で、三田文學は合議制である。編集担当者や作家による合評会が定期的に開催されている。誌面を見てもそれはわかる。先頃の東京オリンピック開会式と同様に、何人かの編集担当者にページが割り当てられ、決められたページ数に特集や執筆者を当てはめているのだろうということがわかる。仲良きことは良きこと哉、である。ただ内向きなのか外向きなのかで評価は変わる。この合議制によって三田文學という大学文芸誌の特徴が対外的に鮮明になっているのか、という最終成果が得られているのかということである。もちろん慶応大学在学者と卒業生、教授の先生などを優先するのは三田文學の宿命である。それを超える影響力があれば合議制にも意義がある。
「創造主ですって?」
ギャレットは口元に皮肉な笑みをうかべたが、すぐに真顔にもどった。
「ミス・グレイ。失礼ながら、宇宙は創造主のうつくしい庭などではありませんよ。わたくしにとっては、むしろ、果てしない迷路です。見通しをさえぎる壁を強引に突破し、見通しをよくしなければ、あなたのいう創造主のもとへなど、永遠にたどり着けないでしょう」
「天地創造の産物である宇宙に対する畏敬に欠ける行為ですわ。もっと慎重にすすむべきです。このままでは、あなたの天文学者としての名声に泥を塗る結果にもなりかねません。なぜ、そんなに急がれるのでしょう。宇宙は逃げも隠れもしませんのに」
「残念ながら、わたしには失うほどの名声などありませんよ。いや、その名声を手に入れるためにも、急がねばならないのです。(中略)女性にはわからないでしょうが、男の人生には、どんなに無茶をしても急がねばならないときが、一度はあるのですよ」
メアリーには、いい返すことばが見つからなかった。これほどの画期的な研究に、自分のセファイド研究が役立てなかったことを残念に思った。それ以上に、ギャレットほどの才能ある天文学者が、天の創造物である宇宙への畏敬の念に欠けていることが、メアリーは残念でならなかった。それは科学者としてのあり方にかかわっている気がしてならなかった。
森岡隆司「セファイドの瞬き」
森岡隆司さんの「セファイドの瞬き」はアメリカが舞台で時代は一九一七年、題材は天文学である。主人公はメアリー・グレイという中年女性で、ハーバード大学のホプキンス教授の元で星と星との位置関係を特定する計算士の仕事をしている。ただミス・グレイは計算士の枠組みを超えた実質的な天文学者である。一定周期で明るさが変わる変光星の一種、セファイド変光星に関する論文を書き一部の学者から注目されている。しかし彼女は古いタイプの女性で天文学者として名を馳せようという欲望も、計算士から天文学者になろうという出世欲も持っていない。敬虔なキリスト教徒でもある。
そうは言っても第一次世界大戦後のアメリカである。女性の地位向上、社会進出も端緒に就き始めている。ミス・グレイの周囲にもそんな女性たちがおり、またプリンストン大学から計算士ではなく天文学者として働かないかというオファーも受けている。ミス・グレイはそれなりに悩む。
知的興味も含めて小説の内容は盛りだくさんである。ストーリーはそれなりに面白く、小説もキチンと仕上げられている。ただもっと前提のところで「んー」と思ってしまう小説である。アメリカを舞台にしてアメリカ人を主人公にする小説は、当然のことだが日本の読者の心には食い込まない。純文学が日本人的精神性が表現された小説という定義を含むとすれば、この作品はそれに当てはまらない。読者を楽しませる大衆文学にならざるを得ないだろう。じゃあ読者を楽しませる要素がどこにあるのかと言えば、そこが弱い。
ミス・グレイのキリスト者としての信仰と天文学との関わりは、外国を舞台にして外国人を主人公にした方が書きやすい。それをギリギリと追い詰めてゆけば、日本人かキリスト教圏の外国人かは別として、宗教、あるいは神に関する普遍的認識が読者の心を打つことがあるだろう。だがそこまでテーマが追い込まれていない。小説はその頃アメリカで始まった国勢調査の職業欄に、ミス・グレイがいったんは計算士と書いて、天文学者と書き直すことで終わる。小説の中に散りばめられた女性運動も中途半端な結末である。
三田文學にそれなりの長さの小説を掲載してもらうのはまだ作家の地位を盤石にしていない小説家にはチャンスである。読者の記憶に残る作品を書く必要がある。天文学よりも神様に対する認識と、女性運動への興味の方が目立つ小説である。どちらか、あるいは両方にキッチリと落とし前をつけなければ読者は記憶に留めてくれないだろう。
「絶対にわたしへ触ってほしくない」
あなたの声は今にも破裂しそうだった。
ぼくは口を開こうとして歯ががちがちと当たる。手も足も不自然に揺れている。人形のようにからだの自由がきかず、変につっぱり、関節が外れそうだ。
口を開くと勢いで顎に痛みが走った。首を伸ばして、股の真下に唇を近づける。次の一滴が落ちてきた。鼻先が赤く濡れた、鼻ひげのあいだを伝い、乾燥した上唇を湿らせながら歯の隙間を通り、喉の奥へ流れ、飲み込む音とともにあなたはぼくの一部となった。(中略)
しかし、それももう終わった。食堂でたまたま前の部署の課長と会い、いやいや一緒に食事をしたら、急に告げられた。最初あなたの話をしているとは思えなかった。
「Sが死んだのを知っているか」
一人暮らしのあなたの死は発見が遅れた。無断欠勤が数日続き、上司の一平がマンションを訪れたとき、部屋の鍵が閉まっていた。管理人に話し、鍵を開けてもらい、なかへ入るともう手遅れだったそうだ。
死因はいまだに分かっていない。
片野朗延「爪の彼氏」
片野朗延さんの「爪の彼氏」の主人公は田中という中年男である。結婚して二人の娘がいる。かなり成果ノルマの厳しい職場で働いている。年下の同僚Sにほのかな恋心を抱いている。しかし不倫小説ではない。マゾヒズム小説である。田中は会社で上司に叱責され、家では妻の言いなりで妻を恐れ、恋人といっしょのSを街で見かけて後をつけ、秘かにつけたと話した上で恋心を告白し「田中さんは変態です」と罵られる。ストーカーのようにLINEを送り続け、止めてほしかったら自分を殴ってくれと懇願する。Sは田中を殴る。引用は田中が床に横たわり、Sの膣から滴る経血を飲むシーンである。
スキャンダラスと言えばスキャンダラスなのだが、小説は社会倫理とは無縁なので、田中の性的嗜好をとやかく言っても仕方がない。問題の焦点はそこに書かれている以上の意味があるのか、必然性があるのか、読者が書かれている以上の何事かを感受できるかである。しかし残念ながら感受できなかった。なぜならSが死ぬからである。なぜ田中ではなくSが死ぬのか理解できない。
世界から追い詰められているのは主人公の田中の方であり、Sではない。Sが田中の共犯者的、あるいは共感者的女性で彼のマゾヒスティックな欲望の片棒をサディスティックに担うのだとすれば、当然のことながらSもなんらかの絶望を抱えている。それが一切見えない。田中の性的嗜好に強い興味と共感を抱く読者は恐らく少ないだろう。書かれているスキャンダルにスキャンダルを超える観念的説得力がなければ、タイトルの「爪の彼氏」が示唆しているように、自称・彼氏=田中の身勝手な欲望物語になってしまうのではなかろうか。
池田浩
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