三田文學時評を担当しておられる池田浩さんがプライベートな事情で数ヶ月身動きが取れないそうだ。文学金魚編集人の石川さんから「三田文學の時評書きませんか?」とメールが来たので「俺をワイルドカードに使うんじゃないよ」と返事したのだが「井筒俊彦さんに関する面白い評論が載ってますよ」と再度メールが来て「やる」とあっさり答えてしまった。
もうだいぶ前で掲載誌もどこかにいってしまったが、三田文學さんに長い井筒俊彦論を載せてもらったことがある。データは残っているはずだが読み返すといろいろ不満が出そうなのでほったらかしにしてあるが、井筒論は僕にとって非常に大事な仕事になった。井筒論くらい頭を悩ませた批評はあれ以来一度も書いたことがない。うんうんうなりながら、大袈裟ではなくハッキリ命が縮むのを感じた。追いつめられた。まあ他人が読めばたいしたことないね、になるだろうが知力を尽くした。当時の編集長・加藤宗哉さんから井筒さんの奥様の井筒豊子さんが僕の評論を誉めておられたと聞いたが、正直なところ「そうじゃなきゃ困る」と思った。そのくらい力を尽くした。
三十年くらい前になるが、僕はある雑誌で編集の仕事をしていた。吉本隆明特集を組むことになって井筒さんに原稿依頼した。「断られるよ」と言われたが便箋十枚くらいの長文の原稿依頼文を書いて封書で出した。内容はよくおぼえていないがファンレターのようなものだった。井筒哲学の知恵熱真っ盛りだったからだが、今考えると冷や汗ものである。井筒先生からは割と丁寧な「お断り」の返信ハガキが届いた。その中に「今忙しくて吉本隆明氏のような特殊な思想家について考えている余裕がない」と書いてあった。これには僭越ながら笑ってしまった。井筒さん自身、極めて特殊な思想家だった。少なくとも僕はそう考えていた。もちろん邪道に逸れて偏っているという意味ではない。井筒さんの思想は空前絶後だからだ。極めて特殊な思想だが井筒さんの汎東洋学思想は本質的に正しいと思う。
僕は明治大学を出たが慶應出身者には尊敬する文学者・思想家が多い。西脇順三郎は自由詩で萩原朔太郎と並んで最も尊敬する詩人だ。思想家では井筒さんが筆頭である。で、井筒さんは折に触れて西脇さんが自分の師だと書いておられる。これはとても奇妙だった。西脇さんは例の調子で「井筒君は語学の勉強のしすぎでお腹を壊しているんですね」などとわけのわからない噂を大学で言いふらしていたようだが、西脇さんの詩学は学問とは言い難い。個人的には西脇さんの『ギリシャ語と漢語の比較研究ノート』が大好きで時々読むというか眺めるのだが、緻密な井筒哲学と比較しようもない。西脇さんが師だというのは井筒さんのリップサービスだと思っていた。
ところが先頃お亡くなりになった新倉俊一先生が、そうじゃないと話しておられた。新倉先生は一度だけ井筒さんに会ったことがあるそうだ。新倉先生はある日西脇さんから新聞紙に包まれた古い洋書を手渡され、「これは井筒君からだいぶ前に借りた本だから、返してくれたまえ」と依頼された。どうも二、三十年前に借りた本で西脇さんが書庫で見つけたらしい。律儀な西脇さんらしい話である。井筒邸にうかがうと中に通され、書庫に本を収蔵しながら井筒さんは、自分はいかに西脇さんの詩が好きか、西脇さんを尊敬しているかを熱っぽく語られたのだという。井筒さんは元西脇ゼミで、当時はどのジャンルにも分類できない学問をやる自分を好きにさせてくれたと西脇さんに感謝しているが、それだけではなかったようだ。西脇的な自在な禅的(俳句的)自由詩を高く評価し好んでおられたようである。韜晦する方ではないので、井筒さんの西脇賛は文字通り受けとるべきでしたね。
で、安藤礼二さんの「井筒俊彦の墓」である。井筒哲学は広範囲にわたるので、その読解というか受容は様々である。安藤さんの井筒哲学論は機会があればまた別の機会に論じたいと思うが、井筒さんの死去から二十九年経って、少しずつ彼の実人生の機微が明らかになってきたと書いておられるのでそれをいくつか紹介したい。
安藤さんによると井筒さんのお母さんは父・信太郎が身請けした元芸者だそうだ。これはさもありなんである。安藤さんも指摘しておられるが、井筒さんは父親については『神秘哲学』序文で一度書いたきりで、再刊に際してそのかなりの部分を削った。しかし非常に印象に残る文章なのである。
父・信太郎は井筒少年に「無」と書いた墨書を与え「目に焼き付くまで覚えよ」と命じた。「覚えました」というとその場で墨書を剥がして引きちぎった。禅の修行というか方法としては正しいが、まだ少年の実子にそんな課外教育をほどこす父親は普通ではない。井筒さんは父について「私の亡父は非常に複雑な性格の人物であり、彼の生活の静けさは奥ふかく不気味な暗黒の擾乱をかくした見せかけの静けさにすぎなかったのである」と書いている。まったくその通りだっただろう。裕福だったので遊びまくったようだがその根底に虚無を抱えた人だったようだ。
ただ父親について語ることが少なく批判的文章も書いているが、井筒さんが父を嫌い反発していたとは言えない。禅は現実直視思想である。人間存在の素晴らしい面だけを見る(評価する)哲学ではない。妄念妄執卑劣愚劣を含めて人間存在をそのまま直視する。井筒さんが禅の無を中心にした汎東洋学思想を構築するきっかけは父親の矛盾だらけの姿勢にあっただろう。また父はその矛盾に自覚的で直視しながらそこからの超脱の道をも模索するような人だったのではないか。でなければ井筒少年に禅が深く染み込まなかっただろう。禅が井筒さんの肉体的思想になったのは苦悩する父の姿を心に刻みつけたからだろう。
安藤さんの評論と関係あるようなないような話だが、井筒さんは折口信夫がどうも好きではなかった気配がある。親友の池田彌三郎と学生時代に独自の思想を打ち立てようと誓い合ったのに、彌三郎は折口ゼミに入るとあっさり折口信夫に心酔してしまったと不満を洩らした文章が残っている。ただ折口への反発はそれだけではあるまい。
乱暴な言い方になるが仏教は顕教と密教に大別できる。禅と密教に大別する方法もある。井筒さんは禅の思想を重視したが、禅も密教も無を基底に据えているのは同じである。ただ密教の場合、無が有に転化する(世界が生成される)際に大日如来が介在するという違いがある。禅は無神・無本質だが密教は有神・無本質なのだ。折口学はどう見たって密教的である。そして折口は未必の故意として自らの学問で自分を大日如来の位相になぞらえた気配がある。それを井筒さんは嫌ったのではないか。
で、最後に安藤さんは、大川周明の「『回教概論』(一九四二年)の大部分は実は自分が書いたものなのだ。井筒は、最も長期にわたってともに仕事を続け、最も深い信頼を寄せていた編集者に向けて、何度かそう語ったという」と書いておられる。これもさもありなんですなぁ。
井筒さんの知の共時的地平、ユーラシア大陸全域を覆う汎アジア的無の思想はどうみたって大川周明の大東亜共栄圏構想の哲学版である。大川さんは大東亜共栄圏構想で日本にアジア侵略の思想的口実を与えたので、東京裁判で民間人としてただ一人A級戦犯として起訴された人である。だからすこぶる評判が悪い。その著作も今ではほとんど読まれていない。しかし、大東亜共栄圏構想の現実社会での影響力は別として、大川は切れ者だった。当時の世界情勢を見通していた。
もうだいぶ前に読み飛ばしたのでどの本に書かれていたのか忘れてしまったが、大川は対アメリカ戦争は中国の巨大な利権を巡って日本とアメリカが争う覇権戦争であると書いていた。日本は植民地化によってそれを果たそうとし、アメリカは例によって鉄道等々の莫大な資本投資によってそれを実現しようとしているのだ、と。また大西洋はヨーロッパ列強諸国のものだが太平洋の覇者は決まっていない。日米戦争は太平洋の覇権争いでもありゆえに太平洋戦争であるとまとめていた。的確な認識である。
とは言っても井筒哲学は大川のように政治と密接に結びついた相対的なものではない。井筒さんは根っからのイデアリストである。核のない生成は有り得ないというのが彼の思想の根本だ。無の思想の人だから矛盾して聞こえるだろうがそうではない。無は有に転化し再び無に帰るエネルギー総体である。無と呼ばれているだけで何もないという意味ではない。井筒さんは哲学界にデリダが登場してきたときに、なんでこんなしょーもない哲学がもてはやされるんだろうと思ったという意味のことを書いておられるが、彼の哲学思想から言えば当然である。
世の中にはいろんな哲学がある。若いうちは様々な哲学に目移りするものだ。しかし哲学は本質的に一つでいい。一つの哲学さえ持てば他の哲学を一所懸命学ぶ必要はなくなる。思考を活性化させるために時折参照すれば事足りる。
ただ自分でつかんだ哲学は肉体的なものである必要がある。吉本隆明は「生死の境を見ない思想は無駄だ」と言ったがその通りである。戦争などに駆り出されて生死の境なんか見たかないが肉体に根ざさない思想は結局は付け焼き刃で終わる。
僕は井筒さんの無の思想は正しいと思う。禅に関する彼の思想は禅というものをほぼ完全に解明している。それは無神論でありながら世界に秩序と調和を求める日本人の根本思想でもある。肉体に根ざした思想だから井筒さんは信頼できる。
安藤さんによると井筒家のお墓は鎌倉建長寺にあるそうだ。今度鎌倉に遊びに行ったらお花を持ってお墓参りしようと思う。現世でお会いすることはなかったが(その方が幸いだったかもしれないけど)、井筒さんは僕に肉体的に完全に腑に落ちる思想を教えてくださった哲学の師である。
鶴山裕司
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