佐藤述人(じゅっと)さんの小説は初めて読んだ。巻末の「今号の執筆者紹介」によると一九九五年生まれで日本大学芸術学部文芸学科卒、「ツキヒツジの夜になる」で第二十四回三田文學新人賞受賞とある。大変申し訳ないのだが、当該新人賞発表号は手に取ったはずだが読んだ記憶がない。だから執筆者紹介の短文以外に作者に関する知識はなく、初めて佐藤さんの小説を読んだのだがとても面白かった。
宗教の勧誘をされる。よくされる。いわゆる新興宗教の勧誘だ。ちょうど昨日も、された。仕事の帰り、コンビニを出たら雨が弱く降っていて、戻って傘を買おうか、どうしようかと、眼鏡のレンズが濡れないように左手で覆いつつ迷っていたら声かけられた。(中略)
僕はだから、べつだん宗教勧誘されるのがひどくいやというわけじゃないのだけど、ところが、これが知っている人の場合、つまり知人から勧誘を受ける場合はまた話が別だ。(中略)そのすべてにおいて、どう言えばいいだろう、なんというか、とてもさびしい思いをすることになったのだ。どうさびしい思いをしたのか具体的なことはいずれほかのところで書くかもしれい。とにかく、友人たちとの関係は全く壊れてしまった。
佐藤述人「つくねの内訳」
佐藤さんの「つくねの内訳」は、杓子定規に言えば私小説ということになる。語り手は僕で基本的に僕の内面がえんえんと綴られている。ただ従来的な、まあ言ってみれば日本の純文学ではお馴染みの私小説の臭みはぜんぜんない。僕はよく宗教勧誘にあう。しかしイヤだと思ったことはない。勧誘してきた人と路上で一時間半も話してファミレスでいっしょに食事をしたこともある。「人と人とが話すのに、宗教やら勧誘やらがどうというのは、なんというか、表層的な、うまい表現かわからないけど、衣服の違いくらいでしかないのだ」とある。僕は宗教嫌いといった強い思想(自我意識)を持っていない青年である。それが「つくねの内訳」という小説の水のように淡いエクリチュールになっている。
ただ友人から宗教勧誘を受けるのは抵抗がある。抵抗といってもうまく説明できない。しかし宗教勧誘されると「とてもさびしい思い」を抱き、結果として「友人たちとの関係は全く壊れて」しまう。利害を前提とした他者とはフラットに話せるが、友人関係に利害が持ちこまれると淡いものであっても友情が壊れるということだろう。僕は純な人である。
椅子に置かれた京子のハンドバッグを見て、彼女がそこから資料を取り出して勧誘を始める。そのすがたを想像しないわけにはいかなかった。しかしよく考えたら資料を持ち運ぶにはバッグが小さすぎるようにも思える。それで、そうかタブレットか、と思った。以前、勧誘を受けた三人はみんな紙の資料を使っていたが、どれも何年か前の話だ、また宗教の種類にもよるだろう、タブレットを使った勧誘があってもおかしくない。
同
高校時代によくいっしょに遊んだ京子から、七年半ぶりに僕に連絡がある。恋人ではなくいっしょに映画を見たりしたガールフレンドである。僕はきっと宗教勧誘だと思い込む。もちろんそれは伏線であり、いったりきたりの逡巡を繰り返す作家の文体から言ってもこの小説で決定的事件が起こるはずもない。京子の登場は、決定的事件が起こらない(作家が起こす気のない)小説を泡立たせるためにある。しかし小説主題はスリップされる。
「つくねのなかには肉が詰まっている」
京子はそう言って、隙間はない、とつけ足した。そうしてさっき僕がしたのと同じように自分のつくねを箸で半分に割り、断面を見せるように皿をこちらへ向けた。何かリアクションを求めているようすだったので、たしかに、と僕は言ってうなずいている。
「だけどさ、それは本当は、つまりきちんと突き詰めて考えれば、つくねに限った話ではないよね」と言って彼女は皿をもとに戻す。「世界に、隙間のあるところはない」
「それは、なんというか、メタフィジカルな話?」
ううん、フィジカルな話、と答えて京子は笑った。僕は半球になったつくねを箸でつかみ、面の部分で餡を絡め取っている。話を聞きながら口に運ばず絡め取り続けているから、皿がどんどんきれいになってゆく。
あたりまえと言えばあたりまえのことだった。この世界に隙間はない。何もない空間といえる部分はない。何もないならばもはや空間ではないからだ。
同
僕は京子と喫茶店に入るが、店主から「つくねはいかがですか?」と勧められ、コーヒーとはあまり合いそうにないつくねを二人で分けて食べる。会話はまったくはずまない。京子が宗教の勧誘を始める気配もない。僕の方からなぜ七年半ぶりに会おうよと連絡してきたのかと聞くこともない。ただつくねを前にした京子の「つくねのなかには肉が詰まっている」「世界に、隙間のあるところはない」という言葉にこの小説のテーマが表現されている。テーマといっても特定の強い思想に裏付けられたものではない。小説の書き方そのものが「この世界に隙間はない」という言葉で表現されている。
そう考えてみて僕は、ワニワニパックが何をあらわす比喩なのかということよりも、その比喩が僕に伝わっていないのだと、だから説明する必要があるのだと、京子が気づいていないことにかなしくなった。彼女ともう、透明な会話をできないのではないか、今日のこれまでだってできていなかったのではないか、そう思えてくるのだった。(中略)ここまでこのまどろっこしいめんどうな文章を読んでくれたならわかると思うけど、何を言うにも自己言及と言い訳を繰り返さずにはいられず、けっきょく何も言えずに会話がほどけていってしまうことがしょっちゅうあるものだから、あいつは話が長い、コミュ力がない、と噂され、噂されていると知ると一層話せなくなってしまうのだ。という、僕の個人的な悩みはさておくとしても、この二十数年の生活のなかで知り合うことのできた、数少ないせっかくの会話できる相手のひとりも、こうやって些細な理由でうしなってしまうのだと思うと、僕は自分がどこにも繋がらないところに立っている気分になるのだった。
同
ようやく僕は意を決して今日は何か目的があって会おうと言ったの?と京子に聞く。京子の答えは「ワニワニパックをやってほしいの」だった。ワニワニパックは大昔の、といっても一九八〇年代から九〇年代にゲーセンに置かれていたアーケードゲームである。僕はてっきりワニワニパックが宗教勧誘の何かの比喩だと思い込む。もちろんそんなことはない。京子の言葉は文字通りのもので、僕は彼女に連れられてワニワニパックが置いてある小さなバーに行って実際にゲームする。
「つくねの内訳」には日本の私小説ではありがちな曖昧模糊とした外界の喩化が一切ない。実際の地名や人名が頻繁に登場する。では実名が現実の残酷を際立たせるために使われているのかというとそうでもない。そこにあるから小説に登場しているとしか言いようがない。
「何を言うにも自己言及と言い訳を繰り返さずにはいられず、けっきょく何も言えずに会話がほどけていってしまうことがしょっちゅうあるものだから、あいつは話が長い、コミュ力がない、と噂され、噂されていると知ると一層話せなくなってしまうのだ」という記述があるが、主人公の僕の内面は基本的に空虚であり、かつ、外界(人や物)によって満たされている。僕が語り手の小説では僕の思考や感性が表現されるのが普通だが、この小説では僕が空虚な中心となって外界が内面に雪崩れ込む。僕という中心はあるのだが、それは常に外界によって相対化されているのだ。自我は信じるに足りない。世界はフラットに詰まっている。それが「この世界に隙間はない」という、僕が抱える思想ではなく、小説全体の書き方が示唆している小説テーマだろう。
怒濤のように押し寄せる情報の波に自我意識を対抗させるのではなく、空虚な自我意識に外界が雪崩れ込み自我意識が揺れる様を描いた私小説は新しい。こういった小説の書き方は今までなかったように思う。小島信夫や保坂和志の小説と似ているようだが質が違う。
もちろん忙しい現代人がとりたてて事件の起こらない、エクリチュールだけで読ませる小説を喜んで手に取るとはちょっと考えにくい。しかし佐藤述人さんの書き方には魅力があり少数であっても熱心な読者がつく可能性があると思う。三田文學は松井十四季さんに新人賞を授与するなどこのところ小説では冴えている。面白い作家が登場した。こういった作家が限界まで能力を発揮できるフィールドがあればもっといいと思う。
池田浩
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