今月号は、第98回オール讀物新人賞発表号でござーますわ。アテクシも毎年楽しみにしているイベントでござーます。やっぱフレッシュマンていいのよねぇ。荒削りでも可能性が感じられる方が、ん~またこのパターンか、と思っちゃう中堅ベテラン作家様のお作品よりワクワクしますからね。今回の受賞は榛原浩様の「母喰鳥」です。男性かと思ったら、お写真を見る限り女性作家のようですわ。性別まで書いてありませんから自信ないですけど。
男性か女性か迷っちゃったのはお作品の内容に影響されたせいでもありますわね。「母喰鳥」は基本的に、母性の薄い、もしくは母性を捨てた女のお話です。アテクシ予断を持ってお作品を読みたくないので、あらかじめ著者略歴や選評を読まないのよ。「母喰鳥」の主人公の母性の欠落は、描写としては平板ね。これは男性作家の感覚ぢゃないかって思っちゃったの。でもこれだけ思い切った母性の欠落は女性作家にしか書けないのかな、というか、女性作家しか書くのを許されないのかな、と惑っちゃったのね。男が書いたとすれば、女がわかってないなーって言われるでしょうね。
もち、女だから母性があるはずだというものまた予断ですわ。だけど母性があるならある、ないならないで、それを上手くお作品で活用していかなければなりません。その活用の仕方が腑に落ちなかったわけでござーますわ。
アテクシオバサンだからはっきり書いちゃいますけど、新人賞を受賞なさった榛原浩先生はラッキーだと思いますわ。正直言ってかなり粗いお作品ね。突っ込み所満載よ。一言でいうと詰め込みすぎ。バラバラに解体して、各ラインで短編5本くらい書いた方がよろしいですわよと言いたくなってしまいますわねぇ。
この冬、初めての雪が降った。たかは、あまりの暇さ加減に嫌気が差して、炬燵から抜け出し縁側に腰をかけた。(中略)
耳元で、ほほう、ほう、と鳥が低く啼いた。たかは、またか、と鼻先で笑った。このところ、よくその声を聞く。その度に、母の言葉を思い出す。
――下の子がお腹にいた時、よく梟が啼いたものです。姿もなく、不吉で、どれだけ恐ろしかったことか。
わからないでもない。梟は啼き声を聞くだけでも縁起が悪い。その上、不孝の鳥で、己の親をも喰らうと忌み嫌われる。
――母喰鳥と呼ばれている鳥ですよ。早く追い払って欲しい、と頼むのに、まったく誰も、親身になってはくれず・・・。
誰も取り合わなかったのには訳がある。他に誰一人、その声が聞こえる者がいなかった。(中略)たかを生んだその後は、母にも梟は啼かなくなった。
(榛原浩「母喰鳥」)
「母喰鳥」の冒頭にはこのお作品のテーマが表現されていますわ。主人公はたかという女性ですが、母親はたかを妊娠している間に梟の声を幻聴した。梟は「不孝の鳥で、己の親をも喰らう」「母喰鳥」だと忌み嫌われています。「たかを生んだその後は、母にも梟は啼かなくなった」とありますから、たかという主人公は母喰鳥ですね。母親を喰うか、母親になって子供に喰われるか、どちらかのストーリーになります。
問題は時代設定ですわ。母が怯えたという梟の声を聞いて「鼻先で笑」うたかという女性の自意識はとても強うございます。つまりかなり近現代的な自我意識を持った女性です。読者は現代のお話なのかな、と惑う。でも書き方としては時代小説っぽい。実際このお作品は時代小説なのですが、書き方が曖昧です。読んでパッと時代背景や登場人物の姿が浮かばないのは、大衆小説では御法度ね。
また江戸時代の女性の立場は弱いものでございました。もちろん女性たちは、社会的立場(権利)とは別に、家や家族関係の中で実権を握り続けてきたわけですが、たかの強すぎる自意識は社会とぶつかる可能性を秘めています。時代小説という枠組みの中にそれを納めるのはけっこう難しいことです。
「お相手の方、女中に子ができたらしいわ」
姉は、眉根に美しく皺を寄せ、たかと二人しかいない部屋で、一段と声を落とした。
「田舎に家を設けて、そこでこっそり産ませるそうよ」
義兄の聞いてきた話だった。呉服を扱うもの同士、同業の噂は、きっと正確で詳しいのだろう。(中略)
両親の心を独り占めした姉。嬉しくもないところに嫁いだら、せめて、子どもの頃からの狂おしいほどのあの悔しさから逃れられるかと期待したのに、今度はちがう嫉妬が、自分を追ってくる。
「でも、姉様、お忘れです。私、とても人のことを言えた義理ではありませんから」(中略)
姉はすぐさま心配顔で立とうとしたが、出かけていた母親が帰ってきた。
「ほら、見て、あなたに似合いそうな簪があったのよ」
たかにはついぞ見せない破顔と嬌声。
姉が、はしゃく母親に阻まれているうちに、たかは自分の部屋へと急いだ。一人になり、目の前の目障りなものが消えると、とたんに頭に血が上って吐き気がした。
男に、佐吉に会いたくなった。
(同)
お作品冒頭で、主人公たかを巡る状況はさらに錯綜します。たかには姉がいて、美人で気立てがよく両親から溺愛されている。大店の呉服屋の次男を婿に迎えて両親の元で、なに不自由なく暮らしています。たかは器量良しでもなく、両親から愛されもしなかった自己の境遇に怒りを感じています。しかし姉はあくまで気立てのいい女性として描かれている。となると、確執はたかと母親の間に起こらざるを得ません。実際母親は姉にだけ簪を買ってきてはしゃいでいます。しかし冒頭以降、母親は姿を見せないのです。たかを産んだ際に梟の鳴き声を聞いたという母親との関係は、解消されずに終わってしまう。
たかはまた、佐吉という恋人の子どもを妊娠しています。ただし家族は誰の子か知りません。たかは、今で言うレイプで妊娠したと家族に言っているからです。父親は世間には内緒で子どもを産ませ、たかを呉服屋に嫁がせようとしているわけです。しかしたかは佐吉と切れるつもりがありません。呉服屋の嫁として体裁を繕いながら、佐吉との関係を続けていこうとしています。たかは大店の染め物問屋の次女ですが、江戸時代の娘が自分の金で男を囲うことなどできたかどうか。口うるさく狭い世間です。現代でも難しい。ちょっと強引な設定ですねぇ。夫と嫁ぎ先の義理の父母がよほど呑気でない限り無理ですね。
つんと鼻につく気付薬の匂いで目をさますと、脇に、真っ赤な顔をした生き物が、目をつむって寝かされていた。女中が差し出す水を飲み干す。女中は、産婆はさとのところだ、産まれそうだと知らせがきた、きっと今頃産まれていると、目を細めたが、たかの顔つきを見ると、受け取った茶碗を滑り落とした。
自分の目は今、ぎらぎらしているにちがいない。(中略)
戸を開き、身体を滑り込ませると、産婆は忙しく立ち働いていた。(中略)女中が泣きそうな声で、さとの名前を呼んでいる。(中略)産婆の「大丈夫。心配せんと手伝わんか」と、女中に怒鳴る声が響いた。助かるのか。面白くない。ぱたぱたしている二人の横で、赤子が泣き続けた。何だ。自分が抱いているものと同じじゃないか。
たかはふらふらと近づき、自分が持っているものと、それを取り替えると、今度はさとの赤子をぐるぐるに布で巻いた。(中略)
気づくと、女中と産婆が青い顔で、たかを見上げている。たかは、何か言おうとする産婆に、手に握り込んでいた小判を急いで投げつけた。部屋中に小判が散り、鈍い音がする。
(同)
小説中盤で物語はさらに錯綜します。たかは人目の少ない田舎に行って子どもを産むのですが、そこに夫になる呉服屋の男が孕ませた、さとという女も来合わせています。たかとさとは同時に出産しますが、たかの方が少しだけ早く赤ん坊を産んだ。赤ん坊を取り上げる産婆は同じです。たかは出産直後にもかかわらず、自分が産んだ赤ん坊を抱えてさとの家に行き、出産で失神したさとが知らない間に子どもを取り替えます。産婆と女中には小判をやり口封じをする。また、たかが抱えて出たさとの子どもはすぐに亡くなってしまう。つまりさとは、たかの子ども育てることになるわけです。
楽しんで読むための大衆小説として書かれているわけですから、この後の物語展開は実際に読んでいただければと思います。しかし小説中盤までに、物語がちょっと収拾がつかないほど複雑になってしまっていますね。まずたかと母・姉、それに父親との対立がある。これがたかの性格を形作り、その行動原理となったすべての原因です。だけどその対立、あるいは解消はペンディングにされたままです。
それからたかと恋人佐吉、そして夫と義理の父母との関係、そして夫が子どもを産ませ、たかの子とは知らずに子どもを育てるさとが物語に絡んでくる。さとを養母とする息子の定吉もいる。これらの登場人物の心理や行動を、100枚以内という新人賞規定枚数に納めるのはほぼ不可能です。実際、たかを取り巻く人間関係の描写はすべて不十分なまま終わっています。
ではなぜ新人賞という形で評価されたのかというと、「母喰鳥」はたかという女性の強い自我意識の、独り相撲の破滅物語として読めるからです。つまり「母喰鳥」では基本的にたかの身勝手な自我意識しか描かれていない。登場人物たちは彼女の自我意識を彩る飾り物の印象です。冒頭で描かれた梟――母喰鳥にすべてが収斂する。しかしそれは幻聴であり観念に過ぎません。小説なら、たかと母、あるいは姉、父、夫、愛人、息子との関係を丹念に描かなければなりません。
また一人の女性の強い自我意識破滅物語を書きたいのなら、時代小説というフレームは不適切です。「母喰鳥」という小説の最大の問題はそこにあるでしょうね。
時代小説が、現代のように強い自我意識を持った人間の我が儘を統御するような、倫理と常識を表現する小説として存在しているのは言うまでもありません。いわゆる大岡裁きです。しかしあまりにも安易に時代小説が量産されるようになってから、時代小説が持っていた良識がどんどん失われています。現代人と同じような自我意識を持つ人間が登場するようになっているのです。ならば現代小説を書いた方がよい。
時代小説のお作品のレベルは全体に下がっていると思います。オール様では相変わらず時代小説全盛ですが、そろそろ曲がり角かもしれませんね。
佐藤知恵子
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