今号には第96回オール新人賞を受賞された、佐々木愛先生と嶋津輝先生が書いておられます。デビュー作から読ませていただいてますけど、お二人とも特徴のあるお作品をお書きになります。読者としては安心して読める作家様ですわ。
「プルースト効果っていうのがあるんだ。味とか香りから、それに関連した思い出が浮かんでくるっていう現象のこと。プルーストっていう作家の有名な小説からきた言葉なんだけど。主人公がマドレーヌを紅茶に浸して食べたときに、昔の記憶がよみがえるっていうやつ」
わたしが「長田」なので、一学期のはじまりに、席がおのずと近くになった。最初は「小川くん」と呼んだけれど、「小川くん」はどうやら「さん付け」で呼ばれるオーラを持っており、ほかの女子からの呼ばれ方は「小川さん」がスタンダートであるということが分かってきて、わたしも小川さんと呼ぶように変えた。
(佐々木愛「プルースト効果の実験と結果」)
佐々木愛先生は思春期の女の子や、大人になりかけの女性を描くのがお得意ですわね。「プルースト効果の実験と結果」は高校三年生で、受験を控えた長田という女の子と小川くんとの淡い恋愛を描いたお作品です。小川くんは有名私立大学文学部志望ということもあって、文学が好きなようです。ただオタクと言えるほど熱中していませんね。しかし主人公の女の子は、小川くんの発した言葉の「味とか香り」に引き寄せられてしまう。すんごい極端な言い方ですが、異性をある種の絶対的な神、不可知の謎として捉えているんですね。もっと言えば、オトコなんてホントはどうでもいい。
「その人と、もうキスした? 花園神社で? シロクマの前で?」
「したよ。でも、先輩の家で。先輩も一人暮らしなんだ。横浜線の橋本っていう駅から歩いて三分」
「わたしとの約束は。丸を付けた地図は、どうするの」
小川さんは沈黙してから言った。
「そういうの、もうどうでもいいと思える相手なんだ」
小川さんとのペアであるわたしではなくなって、突然、ただの自分に戻ってしまった。
(同)
主人公は小川さんと付き合っていて、東京の大学に進学したら、いろんな場所でキスしようと、東京の地図に印を付ける秘密の恋人同士の約束を交わしていました。しかし小川さんは合格したのに、主人公は落第して地元の予備校に通うことになってしまった。そして半年も経たないうちに、小川さんから恋人ができたという電話がかかってきます。EXに「そういうの、もうどうでもいいと思える相手なんだ」としゃあしゃあと言えるのは、そーとーなオトコですな。でもこういう男だから主人公は惹かれたのだとも言えます。男は理不尽でなければならない。
でも、過去は未来より近すぎるから、わたしはまだ小川さんのことを思い出すと思う。もしも小川さんとだったらどうだっただろうと、はじめてのことをするたび、何度も何度も。
だからわたしはもっと、食べたことのないおいしいものを知りたい。その味で思い出す人やものごとが、たくさんほしい。東京にもし行けたら、たくさんの人を知りたい。東京の空気を食べても、小川さんだけを思い出さないように。(中略)
彼の腕の力が強くなる。もう花園神社も上野動物公園も思い出さないで応える。終わったらあの東京の地図は捨てようと思った。
(同)
主人公は予備校でいっしょになった男の子に付き合ってくださいと告白され、付き合うようになります。そして初めてセックスします。その瞬間もまだ小川さんのことを思っているわけですが、彼に未練があるのとはちょいと違います。
予備校生の彼は普通の男の子。でも小川さんは何かが欠落している、つまり謎のある男の子です。その謎の底が浅いのは、あっさり主人公を捨てて恋人を作ってしまったことからもわかります。ただ主人公は、自分のイリュージョンでもあった、東京の地図に印を付けて、東京中をデートしてキスして回ろうと言った瞬間の小川さんを愛している。
ある意味そんなに好きでもない男の子と初めてセックスするのは自傷的です。でも佐々木先生のお作品の魅力はこんな自傷性にあるわねぇ。心から好きじゃないにせよ、付き合ってる彼とセックスしたくらいで女はすんごく傷ついたりしないわよ。絶対にまた浮かび上がってきます。でももっと底の底まで、ドツボまで沈下する女の子のお話をちょっと読みたい気がしますわねぇ。
「お、アラオちゃんなら、ウチでメロン触ってったぜ」と、果物屋の兄さん。
「ウチでサイダー飲んでったよ」と、酒屋のおじさん。
「アラオが? サイダー?」
「いや、アラオちゃん小さいから、まだサイダーは早いか。飲んだのはあれだ、りんごジュースだった」
「おいおい、そのあとはウチだ。おから持ってくか、つて訊いたら、いらねえって、そのまま行っちまった」
そのあと八百屋、魚屋、パン屋らの店主たちに声を掛けられ、男は商店街の終点までたどり着いた。そのままアラオを探して商店街の外に行きそうになるのを、
「アラオちゃんならここにも寄ったよ」
と、惣菜屋のおばさんに呼び止められる。
(嶋津輝「一等賞」)
嶋津輝先生は地元商店街などの、地域コミュニティを描くのがお得意ですわね。「一等賞」の主人公は女子大生のユキですが、小さい頃からお父さんやお母さんのお使いで商店街で買い物をしていて、今は商店街の化粧品屋さんでアルバイトをしています。
物語はアラオちゃんを必死で探す男の姿から始まります。商店街の店主たちにたらい回しにされるわけですが、それには理由があります。アラオちゃんは荒雄という中年男が生み出したイリュージョンなのです。荒雄はアルコール中毒で苦しみましたが、治療のかいあって酒を断つことができました。しかしときおり発作が起こる。以前は暴れたりしたのですが、最近では現在と少年時代がごっちゃになってしまったかのように、「アラオちゃんはどこいった」と言いながら商店街を走り回るようになったのです。
商店街の人たちはちょっと荒雄を持て余しながら、「アラオちゃんはこっち」「向こうに行ったよ」と荒雄を走らせます。疲れた頃合いに「アラオちゃんはお家に帰ったよ」と言ってやると、男は納得して自分のアパートに帰ってゆくのです。「一等賞」は、ユキが本当の意味で商店街デビューするお話です。
ユキはおじさんの気持ちがわかった。ここ数年、ある意味で安定していた荒雄さんの症状が、新たな展開を見せているのだ。
荒雄さんは、悪いほうへ進んでいるのかもしれない――。ユキがそう感じているくらいだから、おじさんもたぶん、そう思っているはずだ。
荒雄さんが酒屋の前で止まった。発汗がひどい。瞳も揺れている。いつもの、狼狽える、という範囲を超えているように見える。
(同)
事件は起こらなくてはならないわけで、荒雄さんはある日、「おれのめだま、見ませんでした?」と言いながら商店街を走り回ります。身体の一部が逃げ出したという展開は初めてのものでした。商店街の店主たちもユキも焦ります。ユキは大学の演劇サークルに所属しているので、ちょっと『ジャガ眼』のような展開です。
もちろん一種の人情モノですから、ちゃんとユキと商店街の人たちは危機を乗り越えます。ただ嶋津先生の世界観を楽しむためには、もっと複雑な人間関係、もっと込み入った物語展開があった方がよろしいような気がしますわね。大きな事件は起こらなくても、小さな事件やもめ事でハラハラしてしまう長編作家様の書き方よね。
佐藤知恵子
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