金魚屋から『夏目漱石論――日本近代文学の言語像Ⅱ』を好評発売中の、鶴山裕司さんの『美術展時評』『No.092 『特別展 縄文-1万年の美の鼓動』展をアップしましたぁ。
好きこそものの上手なれという諺がありますが、作家がある対象を専門にする時は、ほっといても好きという求心力が必要です。俗な言い方をすれば身銭を切って遊んでいないとダメ。ただし身銭の切り方はやっぱり問題で、単に自分を飾り、箔を付けるだけのやり方はすぐにお里が知れてしまいます。食べるのが好きならどこにでも出かけて行って、高い店も安い店もそれぞれの良さを把握していなければなりません。
遊びにも時間と労力とお金が必要です。気まぐれに遊びを変えるのではなく、ある対象に集中すると、それは一種の仕事になる場合があります。物書きが興味の対象を見つける場合はたいていそうです。遊びながら仕事を作り出している。逆に言えば、自分で仕事を作り出せるのが本当の物書きです。依頼で原稿を書いていたのでは決して辿り着けない認識地平を求めているので、自己にとって切実な対象が見つかるのだとも言えます。
鶴山さんは自分で仕事を作り出すことができる作家です。美術展時評でも『漱石論』でも同じです。『漱石論』は『日本近代文学の言語像』シリーズの一冊で、子規、鷗外論とセットの三部作です。この三部作の意図は、柄谷行人さんの『日本近代文学の起源』のような批評方法を、根本からひっくり返すための仕事だと石川は思います。
柄谷さん以降のいわゆるポスト・モダニズム批評は〝創作批評〟です。文学作品を正確に読むのではなく、批評家が創作者と同じ立場に立とうとしています。つまり文学評論ではなく、批評家が文学作品を隠れ蓑に自己主張している批評です。『日本近代文学の起源』に限らず、漱石論などの柄谷さんの批評を読めば、彼が文庫本程度の読書で作家論・作品論を書いているのは明らかですね。基礎資料の扱いが非常に不正確で柄谷さんの思考に沿って対象となる作品の読みが歪められている。でも批判は出ない。なぜなら批評家のほとんどが柄谷さんに追随して、同じような創作批評を書くことに夢中だからです。つまり文芸批評は今の世の中の大勢と同様、自己中な自己主張のための道具になってしまった。
このような創作批評は文学における刺身のつまとして扱われてきた批評を書く批評家の、鬱屈した自我意識を満たすことはあっても、文学にとって決して有益ではありません。文学の問題を扱っているのではなく、文学批評の名を借りた曖昧な哲学的思考の垂れ流しであり、その本質を捉えられない現代を巡る状況論に過ぎないからです。ほとんどの文芸批評家が文学批評をダシに名をあげるとさっさと社会批評家に転向してしまう理由は、彼らの興味が最初から文学にはなかったからです。しかし文学という隠れ蓑を失ってしまった批評家の社会批評は読むにたえないレベルです。
そんな批評のあり方をひっくり返そうとしている鶴山さんの『漱石論』は、厳密に漱石文学に即した原理論です。原理的小説論であり詩論です。漱石文学と子規写生俳句との関係や、漱石と漢詩との関係などが無理なく解明されている。こういった原理的批評は批評家の自己主張に満ちた批評より重要です。文学は同時代の現在を的確に表現するための言語表現ですが、それを可能にするためには文学とは何か、なぜ小説や詩といったジャンルが必要なのかという原理把握が不可欠です。
■ 鶴山裕司 美術展時評 No.092『特別展 縄文-1万年の美の鼓動』展 ■
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