マンションのポストに入ってるもので一番多いのはなんでしょうか。正解はチラシよね。みんな用事はメールやLineで済ませるようになっちゃったから、おてまみなんて、めったに届かないわよね。届いたとしたら、まあたいていロクなもんぢゃないわ。顔もおぼろにしか覚えてない高校の同級生から、ごぶさたーで始まる選挙投票のお願いおてまみが届いたことがあったわよ。選挙前だったけど、あれって公選法違反ギリギリよねぇ。
ほんでもってチラシっていってもいろんな種類があって、水道トラブルのステッカーもちょくちょく入ってますわ。ほら、冷蔵庫とかに貼っておけるやつ。アテクシも冷蔵庫に貼ってますけど、まだ業者さんに連絡したことはないわねぇ。
だいたい賃貸マンションは大家さんの管理物件ですから、給湯器の具合が悪いとか、蛇口の水漏れとかは大家さんマターでございます。店子が勝手に修理しちゃうと、そのお代を誰が払うかで問題になっちゃうこともござーますわ。大手管理会社の物件だと業者が決まっていて、個人でお願いするより安い場合もありますからね。でもやっぱ水漏れは厄介よね。気が動転しちゃうのよ。
実家にいるときに、蛇口が締まらなくなって水がダダ漏れになったことがあったのね。ママが「たいへんたいへん水道のレスキューに電話して」と慌てふためく姿を目撃して、「ええぃ騒ぐでない」と知恵子様は立ち上がったのでした。ママ談によると、カクンという感じで何かが壊れて蛇口がバカになったらしいの。典型的なパッキンのご昇天よね。アテクシは「風呂なぞ沸かすでないぞ」と厳命して、水道元栓を閉めてスパナで水栓レバーを外したのでござーました。
取り出したパッキン持ってホームセンターに行くと、ヲタクっぽいオジサンが「はいはいこれね」と新しいパッキンを渡してくれ、その上取り付ける際の注意事項を事細かく説明してくださったわ。アテクシは交換し終えてから、「ほれ、5千円」とママからお小遣いをもらったのでした。知恵子様は、知恵はあるけど正当な対価をいただくのよ。もち材料費込みよ。アメリカなんかだと、家の中のたいていの修理は自分でやることが多いですから、日本はホントに分業化されてると思いますわ。ガス関連は特にそうで、交換しようにも業者以外にはパーツ販売禁止になってますわね。まあ危ないから理解できますけど。
秀則は奥歯を強く噛みしめ、機械室を出た。半分水が減ってしまっているプールを前に立ち尽くす。
――今から水を入れて、明日の午前中のプール教室までに間に合うか。
たしか、今年のプール始めに入れたときには一日半かかっていた。だがそのときは空の状態からで、しかも夕方から始めて一度下校前に止めていたはずだ。この状態から一気に入れるとなるとどのくらいかかるのか。(中略)
秀則はジャージのポケットからスマートフォンを取り出す。プール、水、時間、で検索すると、一秒もかからずに結果がずらりと表示された。
その中の四つ目に、目が引き寄せられた。
〈小学校プール水流失、ミスの教諭ら249万円弁済〉
(芦沢央「埋め合わせ」)
芦沢央先生の「埋め合わせ」は小学校教諭の千葉秀則が主人公でございます。真面目な先生で、学校は夏休みですが忙しく働いています。教諭が交代で学校の諸施設の管理点検を行うのですが、秀則はプール管理の当番でした。濾過器を作動させる時には一度排水バルブを開くらしいのですが、婚約者の理乃とスマホで話すのに気を取られ、うっかり閉め忘れた。気がつくとプールの水が半分くらいに減っています。秀則は唖然とし、ショックを受けます。
秀則が焦ったのは、プールは広いですから水代がけっこうかかるからです。慌てて排水バルブを閉めた後に彼がまず行ったのは、情報収集でした。スマホで検索すると「小学校プール水流失、ミスの教諭ら249万円弁済」のヘッドラインが目に飛び込んできます。今はどんな情報でも、ある程度の概略はネットで入手できちゃうんですね。
ただ秀則は全部の水を流出させたわけではないので、そこまでの被害額ではない。手早く計算するとおよそ十三万円分の水の流出。少額と言えば少額ですが、それがミソですね。このくらいの水の流出なら、なんとか言い訳できるのではないかと考えてしまうのです。
たとえば――プール教室で学校を訪れた子どものうちの誰かが、ふざけて蛇口を開けっ放しにしたまま帰ってしまった。そして、そのまま誰も気づかずに時間が経ってしまった。それが誰なのか、いつのことなのかはわからない。
秀則はポケットの中に手を入れた。
子どもがやったことならば、徹底して犯人探しをしようとはならないはずだ。自己弁済を迫られることもなく、教育委員会から厳重注意を受けることにもならない。教育委員会だって、教員への指導不足だと糾弾されずに済むだろう。
つまり、誰も不幸にならないのだ。
(同)
秀則は、生徒のイタズラで水道の蛇口が開きっぱなしになっていて、水が流出してしまったというストーリーを考えます。公立学校は公費で運営されてますから、経費にうるさいようですわね。教師の不祥事は教頭、校長の責任になり、市や県の教育委員会の問題になってゆく。ただ真面目な秀則が責任逃れを画策したのは理由があります。お金が惜しいからでは必ずしもないのです。
秀則は婚約者の理乃の実家に、結婚の内諾を得るために挨拶に行きました。理乃の父は秀則と同じ小学校の先生で、今は教頭を務めています。その父について理乃は、気難しい人だから気を付けてと注意します。しかし会ってみると快活な人です。秀則は安心して喋りますが、ツッと父親が席を立ってトイレに行きます。すると理乃とその母親がほとんど唐突に「何だかごめんなさいね」と言った。理由はわかりませんが、秀則はどうやら父親の機嫌を損ねてしまったようなのです。その伏線があっての水流出事件です。
狭い学校社会では、教師の不祥事はすぐに知れ渡ります。少額とはいえ不注意でプールの水を流出させてしまったことを、秀則は理乃の父親に知られるのを恐れたのです。このあたり、リアリティがありますね。男性作家様は大上段の社会的事件をテーマに据えたがりますが、人間の心の魔は日常のちょっとした過失に潜んでいます。そういう機微を捉えるのは女性作家様の方がお上手でございますわ。
ただ学校のどこから水が流出したのかを考えなければなりません。直人は学校の見取り図まで出して辻褄の合う話を作り出そうとします。しかし一長一短でなかなかまとまらない。綿密に計画を立てた完全犯罪でもなかなか難しいことです。ましてや後付けの場合をや、ですね。
こういった苦悩というか試行錯誤は、殺人などの重大事件でも同じです。過失を犯した者はそこに至るまでの人間関係に雁字搦めにされています。と同時に過失を犯してみて初めて、人間社会は意外なほど秩序立っていて、イレギュラーな出来事を覆い隠すのは難しいと気づくのです。
「プールの水、流しちゃったんでしょ」
ひゅっと喉が小さく鳴る。それがほとんど自白を意味することに気づいたけれど、どうすることもできなかった。五木田は、お、ビンゴ、と声を弾ませる。(中略)
「で、いくら分くらい流しちゃったの」
「・・・・・・たぶん、半分くらいだから十三万円分くらい」
「千葉センセイ、ツイてなかったねえ」
「五木田が、どこか面白がるような口調で言う。秀則は長いため息をついた。
「はっきり馬鹿だって言っていいけど」
「何で?」(中略)
「むしろ賢いでしょ」
「え?」
「だって俺、こんなこと思いつかないもん。俺だったら普通に白状しちゃうか、何も言わないでバレて後から怒られるかしてるなあ」
(同)
秀則は水の流出ストーリーを同僚の五木田に話します。仲がいいわけではなく、ちょっと苦手な感じの男性教諭ですが、たまたま朝居合わせたので話すことになってしまった。ガサツなようでいて五木田はなかなか頭が切れる。ふんふん秀則の話を聞き流している素振りでいきなり「嘘でしょ」と秀則の話を否定します。推理を働かせて「プールの水、流しちゃったんでしょ」とズバリと言い当てる。ただ秀則を責めるわけではなく、「むしろ賢いでしょ」と感心してみせるところ、クセモノですね。
「埋め合わせ」は短編読み切り小説ですから、結果として秀則の過失を五木田が利用するという形でオチがつきます。そのあたりは実際にお作品を読んでご確認あれ。ただこうやって人は人に利用されてゆくわけです。サスペンス小説の王道的手順がございますわ。どうなっちゃうんだろうという興味がなければ、人はなかなか小説を読み進めないものよ。ツカミが重要ってこと。大衆作家の先生方は、冒頭数ページで読者をツカムコツを心得ていらっしゃるわね。その上オチが複雑である真理を表現していれば、傑作になるってことよ。
佐藤知恵子
■ 金魚屋の本 ■