そーいえばアテクシ、だいぶ前に刀を拾ったのよぉ。タクシー降りてマンションに帰ると、入り口の塀のとこに刀が立てかけてあったの。黒鞘の本差しね。アテクシが最初にしたのは左右をむっ、むっと見回して、人がいないことを確認したことだわ。まったく貧乏性よねぇ。そいで刀を手に取ったんですが、重さからすぐに模造刀だってわかったわ。
本物の刀ってすんごい重いのよ。アテクシの実家にはお爺様かひいお爺様が持っておられた日本刀がありますが、まーあんな重い物を二本も腰からぶら下げるなんて、お侍さんや軍人さんは大変だったわね。何度か鞘から抜いてちょっと振ってみましたけど、やっぱ怖いわねぇ。確かに人斬り包丁よ。自分の足とか切っちゃいそうで、ワクワク感とかはありませんでしたわ。
テレビの時代劇ではチャンチャンバラバラやりますけど、江戸時代も江戸以前もそんなことはそうそうなかったわね。刃傷沙汰が起こると瓦版で大きく報じられて、江戸中の話題になったことからもそれはわかるわ。刃傷沙汰が少なかった理由は単純よ。刀抜いて戦えば、どっちかが大怪我するか死んだりするからでござーますわ。誰だってめったなことで、そんなめにあいたくないわよね。日本刀ってすんごい切れるのよ。昔の合戦も致命傷のダントツトップは槍傷よ。刀振り回して一対一とか団体で戦うのって、かなり特殊な戦いだったわけ。
江戸時代の人が書いた日記とか読んでると、当たり所が悪ければ、数センチの刀傷でも人間は死ぬわね。縫合技術も抗生物質もない時代ですから大変よ。必死の人間二人が戦えば、勝った方だってまったく無傷ってことはまずないわよねぇ。思いっきり振り回した刀が、数センチでも腕や足に当たったって想像するだけでゾッとしちゃう。あーヤダヤダ。
あ、脇道にそれちゃった。アテクシ、壁に立てかけてあった刀をお部屋まで持ってったのよ。そんでスラリと刀抜いて、いちおう「わっはっは、ぬしもこれまでぢゃ、バサぁッ!」とやってみたんだけど、やっぱ女がやってもさまにならないわねぇ。外国人のお客様(男)でお土産に刀欲しがる方がいて、接待ついでに浅草の仲見世に連れて行ったことがござーますの。年収一億以上のVIPのおっちゃんが刀に大興奮して、ベルトに買った大小挟んで店のおばちゃんと記念撮影してたわよ。でも外人さんでも男の方が刀はさまになるわね。
北町奉行同心、中根興三郎は大八車を牽き、下谷へ向かっていた。植木屋の成田屋留次郎の処だ。笠をつけ、たすきをかけ、股立ちを取り、足下は草鞋履きだ。晴天続きのせいか、車輪が乾いた砂埃を舞上げる。(中略)
三度の飯より朝顔栽培という興三郎は、毎年、留次郎に二百鉢の朝顔を買ってもらっていた。とはいえ、その代金のほとんどが翌年の朝顔の仕入れや堆肥、種に変わってしまう。
(梶よう子「朝顔同心 中根興三郎 菊花の仇討ち」)
梶よう子先生の朝顔同心中根興三郎シリーズでございます。奉行所同心が自ら大八車を牽いて朝顔を売りに行くのは考証としてはちょいとと思いますけど、趣味という域を超えて朝顔の栽培に一所懸命になっていたお侍様はいそうね。浮世絵を見るとわかりますけど、朝顔はけっこう流行ったのよ。交配によっていろんな色を出そうと苦労してたわけ。朝顔だけじゃないですが、種をしまっておくための小簞笥も残ってるわね。
こういう趣味が中流層に広がったのは幕末ね。天保以降じゃないかしら。江戸文化の爛熟期は文化・文政時代から始まりますが、それが退廃含みでピークに達するのは天保を越えた弘化・嘉永頃よ。明治維新まで五十年ちょいって時代ね。ある文化の絶頂期って意外なほど短いのよ。それにたいていは、次の新たな文化の少し手前で起こってるわね。北斎先生が亡くなったのは嘉永二年で、もうすぐペリー来航よ。幕府の瓦解の音が聞こえ始める時代でござーますわ。
「菊は、清国よりも以前の唐代、我が国では奈良が都であった頃に薬用の植物としてもたらされたものです」(中略)
「それがいまに伝わる重陽の節句ですが、九月九日は陰陽思想でいうところの五節句のひとつであり、いまや庶民の間でも広まっています。このように、千年もの昔から愛されていた花といえましょう。古より菊合わせという品評会があったのではないかともいわれておりますのでね」
おみねちゃん、と藤吉がそっと呼び掛けた。
「こりゃあ、ぼっちゃんそっくりだ」(中略)
興三郎は、むむっと唸った。そういわれては一言もない。人と交わるのは苦手で無口な性質だが、こと朝顔の話になると止まらない。
(同)
菊も幕末に大流行でしたわ。漱石先生の『三四郎』に、団子坂に菊人形を見に行くシーンがありますけど、娯楽が少なかったから明治くらいまではいろんな種類の菊を愛でるだけじゃなく、それで人型を作ったりする催しが押すな押すなの大盛況でしたの。幕末には本草学も盛んでしたわね。国学、古義学など、それまでの知識を総括する学問が次々に起こったの。明治維新でいったん無用の長物的学問になってしまいますけど、御維新が落ち着くとだんだん再評価されるようになりましたわ。
で、中根興三郎は朝顔を納めに行った植木屋の成田屋の家で、中江惣三郎という侍に出会います。中江が丹精しているのは菊です。興三郎と惣三郎は名前が似ているだけでなく、背丈も同じくらいです。おまけに朝顔と菊の違いはありますが、ともに植物の栽培に血道を上げています。この惣三郎が今回朝顔同心の物語に波乱をもたらすのです。
「ですが、不思議なのですよ」
と、岡崎が香の物を囓りながら呟いた。
「菊作りの腕は本物なのです」
江戸菊はもちろんのこと、さじ弁の厚物、花弁が管状になる菊の、太管、細管、花弁の丸い一文字。仕立ての方法も、茎を細長く成長させる箒作り、ひとつの茎から三つの花を咲かせる天地人と、あらゆるものを作るという。そのため騙されたとは相手も思わず、中江をすっかり信用してしまうらしい。
「それだけの腕を持ちながら、なぜ」
興三郎は悔しさに身悶えした。人を騙しながら、騙した相手を納得させる菊作りをする。中江という人物のしていることがますますわからなくなってくる。
(同)
名前も背丈も似ている興三郎は惣三郎に間違えられ、謎の侍たちに襲われます。幸い無傷でしたが、駆けつけた元同心の岡崎から惣三郎の悪い噂を聞きます。惣三郎は菊を愛する裕福な武家や商家に入り込み、害虫がいるので駆除しなければならないと言っては大金を巻き上げていたのです。その実害虫は、惣三郎が仕込んでいたのです。しかし惣三郎の菊栽培の腕は素晴らしい。だから騙されても気がつかない人が多い。ではなぜ惣三郎はそんな詐欺を働いて金を得ようとしているのでしょうか・・・。
惣三郎がどうして詐欺に手を染め、それがどう仇討ちに繋がるのかはお作品をお読みになってお楽しみくださいませ。ただ時代小説はチャンバラばっかりじゃないわ。特に女性作家様が手がけるお作品の場合、チャンバラ中心になるとなにか物足りないのよ。畠中恵先生の『まんまこと』シリーズもそうですけど、チャンバラではない日常を題材にする方法はいくらでもあるわ。その方が江戸文化の奥行きが伝わってくることも多いです。梶先生の『朝顔同心中根興三郎』シリーズは教養小説でもありますわね。
この反対に男性作家の時代小説にアテクシたち読者が期待するのは、乱暴に言えば暴力よ。暴力的要素って言った方がいいかしら。もちろんフィクション世界以外では許されないわ。ただ剣術とか剣豪話になると興ざめしちゃうわねぇ。昔も今も超人なんていないわよ。暴力的な残酷さで何かが断ち切られるところを読みたいの。だけど刀を抜くのはあくまで方便よ。人間の精神にしっかりつながっていなければ、刀なんてムダに長い包丁よね。
で、アテクシは拾った刀を翌朝管理人さんに落とし物として届けましたわ。「あー引っ越しなさってたので、その時忘れて置き去りにされたのかな」とおっしゃってました。いまだに持ち主不明で管理人室の壁に立てかけてあるわ。一定期間過ぎると拾った人に所有権が生じることもありますけど、アテクシは文明社会で図太く生きる完全無欠のオバサンだから、刀なんていらないの。
佐藤知恵子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■