小原眞紀子さんの連作詩篇『Currency』『腑』(第06回)をアップしましたぁ。今回の『腑』の書き方は魅力的ですね。単純と言えば単純なんですが、流れるようなエクリチュールで、現実と夢想界、あるいは深層心理を行き来しています。
金魚屋では鶴山裕司さんの『詩は原理的に自由詩である』という思想に沿って、詩を自由詩と表記しています。これは原理論であると同時に状況的問題を含みます。多くの詩人がいまだに詩を『現代詩』と呼んだり表記したりしているわけですが、そこには『現代詩手帖』誌への〝忖度〟が働いています。どんな組織にもアイデンティティがあるわけで、『現代詩手帖』は〝現代詩〟というカンバンを下ろすわけにはいかない。また多くの詩人が『現代詩手帖』にお世話になっているわけですから、現代詩を否定できない。馬鹿馬鹿しいですが、現代詩についての議論が活性化しない大きな理由の一つです。
現代詩について整理すると、現代詩には『現代書かれている詩』と『1960年代から80年代まで詩の世界のみならず、文学の世界全体で前衛と高く評価されていた一連の詩作品』という二つの定義があります。現代詩が『現代書かれている詩』という意味ならその呼称が問題になることはない。問題が〝前衛文学としての現代詩〟にしかないのは自明です。詩人たちは現代詩が〝前衛性を失ってしまった〟ことに気づいているはずですが、見て見ぬふりをしています。
実際の作品を見ていても、現代詩が前衛だった時代は終わりました。いまだに現代詩的書き方をしている詩は多いですが、その書き方ではもはや現代を捉えられない。つまり現代詩はモダニズム詩やプロレタリア詩、シュルレアリスム詩、戦後詩と同様に、過去の詩の文学流派として相対化されるべき時期に差しかかっています。つまり『詩は原理的に自由詩である』というのは単なる呼称の問題ではないのです。詩をその原理に遡って自由詩として捉え直した方がいいということです。詩人たちは認識系の転換を迫られているのであり、戦後の詩人たちが戦前までの詩を〝近代詩〟と総称したように、現代詩を相対化しなければなりません。
問題がもう一つありますね。じゃあポスト現代詩の詩はどういったものなのか、ということです。これについては個々の詩人が新たな道を切り拓いてゆくほかないわけですが、小原さんのような詩の書き方は、確実にその一つの方向性を示していると思います。
■ 小原眞紀子 連作詩篇『Currency』『腑』(第06回)縦書版 ■
■ 小原眞紀子 連作詩篇『Currency』『腑』(第06回)横書版 ■
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