小原眞紀子さんの連作詩篇『Currency』『場』(第04回)をアップしましたぁ。詩には様々な書き方があります。抒情詩が一番一般受けするわけですが、抒情の本質は明治大正時代から基本的に変わらない。大衆文学が基本的に明治から変わっていないのと同じです。だからちょっと意識高い系の詩人は〝現代詩〟を書こうとするわけですが、この現代詩という言葉には〝今現在、つまり現代書かれている詩〟という意味と、〝1950年代末に登場した、詩表現から意味的伝達性をほぼ完全に剥奪した詩〟という2つの意味がある。
1980年代頃までは、後者の現代詩は圧倒的にカッコよく、歌人も俳人も小説家も『現代詩っちゅーもんはスゴイな~』と言っていたわけですが、完全に賞味期限が切れました。敗戦から60年70年安保の時代まで、世の中には政治的あるいは個人的主義主張表現が溢れており、それが戦後詩という流れになったわけですが、戦後詩は明らかに意味の詩でした。1950年代から60年代に現れた入沢康夫・岩成達也を中核とする現代詩は、この戦後詩の流れ――「荒地」派ではなく、主に小海永二ら後に日本現代詩人協会に集うことになる詩人たちの、詩を政治主張等々の意味伝達の道具として使う詩人たちへのアンチテーゼとして生まれました。
ただ1990年代頃から戦後的な対立軸が完全に消滅してしまった。戦後レジームの消滅は詩の世界だけでなく、小説の世界でも起こっています。いわゆる戦後文学の影響がほぼ完全に消え去った。また詩は明治以降、日本文学における前衛であり、世の中の変化をいち早く言語化する表現でしたが、90年代以降の変化を捉えきれなかった。だから詩の表現が衰退し、詩の商業マーケットも衰退を続けている。
1950-60年代に現れた〝現代詩〟を未だに前衛とみなし、詩の唯一のアイデンティティとして固執するのは馬鹿げています。詩は原理的に形式・内容面で一切の制約がない表現だからこそ、各時代の前衛であり続けてきたのです。俳句・短歌の日本古来の定型詩、江戸末まで詩といえば漢詩だったことを踏まえれば、今現在書かれている詩は本質的に〝自由詩〟です。詩人たちは、どうしてもかつての前衛という付加価値を喚起してしまう〝現代詩〟という呼称を捨て、モダニズムやシュルレアリスム、戦後詩と同様に過去の文学潮流(エコール)として相対化する必要があります。それには単に自由詩という呼称を使うだけでは不十分です。〝戦後詩〟や〝現代詩〟がその発生当時は新たな認識を詩人たちにもたらしたように、詩は原理的に〝自由詩〟だと認識することで新たな認識を育まなければなりません。
現代的変化をいち早く言語化する前衛の役割を回復しない限り、詩の復権はない。人間なら誰もが持っている抒情に訴えかけるのではなく、難解で小難しくとも人がこれは読まなきゃならないと思う詩は、現代の本質を衝いていなければならないということです。
ときに
遠くから
近くに寄って
目にも見よ
月でも日でもない
其方らにも
一度見えれば
二度三度
時空は姿を現わすだろう
耳を傾けるべきは
その言葉しかなく
握るべきは
その手しかなく
どこだ。
花のようにひろがる
その手は
どこだ。
(小原眞紀子『場』)
小原さんの詩は現代詩ではないですが、それでも難しいと感じる人はいるでしょうね。ただ難しく感じることに、裏付けがあればいいのです。小原さんの『Currency』連作には俯瞰的視点がある。世界を高みから見つめ描写しようとする姿勢です。それは詩ならではの前衛的試みであり、現代詩であるかどうかはまったく問題ではありません。新たな表現を生み出すことが詩の役割であり、自由詩というジャンルに課せられた掟なのです。
■ 小原眞紀子 連作詩篇『Currency』『場』(第04回)縦書版 ■
■ 小原眞紀子 連作詩篇『Currency』『場』(第04回)横書版 ■
■ 第6、7回 金魚屋新人賞(辻原登小説奨励賞・文学金魚奨励賞共通)応募要項 ■
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