岡野隆さんの『句誌時評』『No.093 坂口昌弘「震災 地獄の大震災はどう詠まれたか」(月刊俳句界 2018年02月号)』をアップしましたぁ。岡野さんの月刊俳句界時評4連投です。『特集「間違えやすい季語の見分け方」(2017年11月号)』、『特集「川柳 この鮮烈なる詩型よ 鶴彬と時実新子」(月刊俳句界 2017年12月号)』、『特集「投稿欄選者新春競詠 雑詠」(月刊俳句界 2018年01月号)』、『坂口昌弘「震災 地獄の大震災はどう詠まれたか」(月刊俳句界 2018年02月号)』を取り上げておられます。
岡野さんが書いておられるように、俳句界には事大主義が抜きがたくなります。俳句が一番、俳句が最高の文学という考えがあるんですね。まあそうじゃなきゃ、あんなに気の狂ったように威張り散らす結社主宰がごっちゃり生まれるわけがない。社会全体から見ると短歌・俳句は文学の刺身のツマ扱いなんですが、ひとたび俳壇の人になると俳人は気が大きくなる。たちの悪い酔っ払いみたいですね(笑)。
ただ俳句がスタンド・アロンで成立しているのは事実です。俳句は芭蕉時代からほぼ変わっていない。また他の文学ジャンルの影響を受けることが実に少ない。けりかな俳句を死ぬまで書いていても誰にも何も言われないどころか、基本的にはそれを奨励する風潮がある。もの凄く変化を嫌う。かたくなになるから内部では異様に自尊心が肥大化してしまう。悪循環ですね。
歌人で小説家になった作家はいますし、自由詩人でそれなりに短歌俳句を書く作家もいる。小説家に関してはポピュラリティーへの劣等感があるのか、俳壇では文人俳句と呼んで、蔑視しながら一定のお席を用意している。でも俳人は俳句と初心者向けの俳句入門書を書くだけ。芭蕉、蕪村、子規でも売れる本を書くのは俳人以外と相場が決まっている。俳人が彼らについて書くと、俳壇的重箱の隅視線が抜けないのでポピュラリティーを得られない。
以上書いたことは、ちょいとあえて逆撫でしていますが大筋事実。俳壇どっぷり作家にならず、広い視野を持って、広い文学・読書界で結果を出すことです。
■ 岡野隆『句誌時評』『No.093 坂口昌弘「震災 地獄の大震災はどう詠まれたか」(月刊俳句界 2018年02月号)』 ■
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